『ミスター・ホームズ』に見るフィクションの意義

 アリエルが子持ちだと知っている人はどれだけいるだろうか。ディズニープリンセスもののいくつかは、実のところ三部作の体をなしていて、『リトル・マーメイド』の二作目では娘メロディとの関係に悩むアリエルの姿が描かれた。

 しかし、それ以降、母となったアリエルやメロディの姿を見た記憶はない。国内外問わず、ディズニー・パークのショーに出てくるアリエルは、どれも人間の世界に行く前の姿か、もしくは王子と結ばれた直後の姿ばかりだ。
 たぶんメロディにいたってはグッズも皆無だろうし、『リトル・マーメイド』のファンを自負しているわたしですら、その声も思い出せない。もはやメロディの存在は抹消されていると言っても過言ではないだろう。

 誰も、歳を取ったアリエルの姿など望んでいないからだ。

 フィクションの強みは、登場人物が誰も年老いないことである。だからこそ、我々は作品を永遠のものとして心に置いておけるのだ。

 しかし、そうしたフィクションの“ありえなさ”は、得てして人々に「くだらない」と評される原因の一端ともなる。人魚はジュゴンの見間違いだし、魚は歌わないし、ヒレを足に変える魔法なんてものも現実には存在しない。

 シャーロック・ホームズは、正に上記のような態度でもってフィクションに接してきた、世界で最も有名な探偵だ。

 物語内でホームズの親友ワトソンは彼らの冒険を小説として出版し、ホームズはそれを毛嫌いする。彼にとって最も尊むべきは真実であり、その対極を行く創作物は、彼には無価値なのである。

 これは、ホームズにとって非常に皮肉だ。ワトソンによる作中作のホームズだけでなく、我々の世界においてのシャーロック・ホームズもまた、百年以上にわたって生き続けてきたフィクションの登場人物であり、彼が創作物を否定するのは、すなわち、彼自身の存在をも否定することになるのである。

 ホームズがフィクションの意義を、ひいては自らの存在意義を認められたのは、彼が老齢になり、もう自慢の記憶力も衰えてからだ。

 ビル・コンドン監督『ミスター・ホームズ』の主人公は、探偵業を引退するきっかけとなった事件の真相すら思い出せない、認知症を患ったシャーロック・ホームズ。恐らくファンの一人も見たいとは願わなかったホームズだが、この作品で彼は、既に他界しているワトソンが生前ホームズ譚を書き続けた真意にようやく気づく。

 真実を突きつけることが、必ずしも人の為になるとは限らない。
 たとえ紛い物でも、美しい終わりを望み、それを信じるのは、生きていく上で決して間違いではない。真実ただそれだけを追い求めてきたホームズがそう受け入れるのは、ワトソンが彼に与えた優しさを受け入れることであり、さらには、人生の逃げ場としてフィクションを求めた観客である我々に対するホームズからの赦しでもあるのだ。

 フィクションの登場人物がその呪縛から解き放たれるのは、ひょっとしたら歳を取ったときなのかもしれない。それでも彼らに永遠の若さを望んでしまうわたし達もまた、フィクションに囚われているのである。

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