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やっぱり劇団四季『オペラ座の怪人』の訳にちょっと言わせて欲しい

まず始めに、わたしは劇団四季公演の『オペラ座の怪人』を生で観たことがないので、今回のこれは純粋に四季の日本語訳に焦点を当てたものです。
観てもないのに語るなと思われるかもしれませんが、ご容赦ください。
⇒2020年11月に観てきました



わたしが『オペラ座の怪人』でいちばん好きなのは、ファントムが確かにクリスティーヌを愛していたのにも拘らず、それまでの人生で人を愛したこともなければ愛されたこともなかったがばかりに、その気持ちを最後の最後、手遅れになるまで表現できなかったところにある。

つまり、こうも思っている。
もっと早く、ファントムがクリスティーヌに「愛している」と告げられたなら、確実に物語は変わっていただろう、と。


わたしがどうしても四季版の歌詞を受け入れられないのは、そこなのだ。
四季のファントムが劇中で初めて発することばは、「私の宝物」なのである。


原語では突然現れてクリスティーヌを連れて行こうとしたラウルへの罵詈雑言をとうとうと連ねている箇所で、四季のファントムはクリスティーヌを「私の宝物」と呼ぶ。
同じ『Mirror』の中で英語のファントムがクリスティーヌを形容するのは「口の上手い娘(flattering child)」くらいだ。

オリジナルのファントムは、明らかに最初から言葉足らずでクリスティーヌに対して高圧的なのに、四季版では好意の矢印が既にだいぶハッキリしている。

極め付けは表題曲の『The Phantom of the Opera』。
この二人のデュエット曲でのファントムの第一声は、「愛しいひとよ」である。
もう「愛」を表現してしまっているのだ。
これでクリスティーヌがファントムの気持ちに少しも気づかないのなら、それはもうニブチンと言わざるを得ない。

実は先ほど触れた『Mirror』の中で、四季クリスティーヌはファントムを「素敵な方」と呼んでおり、もはや両想いと言ってもいいんじゃないかみたいな状態である。

一方、英語版のファントムは「不思議な天使さま(strange angel)」と呼ばれていて、この『The Phantom of the Opera』においても、不安そうな顔でたびたび後ろの地上の方を振り返るクリスティーヌの手をファントムが引く振り付けがなされている。

要するに、この場面でクリスティーヌは、仮面を着けた怪しい男と彼に地下へ連れて行かれることへの恐怖を未だ感じており、それが後に彼の仮面を外して悲鳴を上げる流れにも繋がっているのだ。

しかしながら、同曲の中で、四季のクリスティーヌはファントムの姿を指して「恐れはしないわ」と歌う。
「恐れはしない」と自ら宣言していたのに、勝手に彼の仮面を外して恐怖に叫ぶのは、かなり矛盾している感じがするし、クリスティーヌの身勝手さを強調してしまう気がする。
英語では全くそんなことは言っていないばかりか、むしろ「あなたの顔を見た人間は恐れに後退る(Those who have seen your face draw back in fear)」とその異様さを強調しているのだ。

映画の字幕とは違い、実際に歌わねばならない翻訳で、”Sing”と「いとしい」、”Those”と「おそれ」、と母音を合わせているのは分かる。
でも、ただでさえセリフ数の少ないミュージカルでのこのワードチョイスは、作品に対するイメージを大きく変えてしまうのではないかと思う。


しかし、四季版歌詞における「愛」の多用は、ここでは終わらない。


クリスティーヌがラウルと恋人になった瞬間を見てしまったファントムがひとり歌う『All I Ask of You (Reprise)』で、遂にファントムはクリスティーヌを「愛するもの」と表す。
原文で彼が叫ぶのは、「あいつはお前を愛す宿命だった/その歌声を聞いたときから(He was bound to love you/When he heard you sing)」という、自らクリスティーヌを歌姫へと昇華させたがためにラウルと引き合わせてしまったことに対する後悔で、ファントムがクリスティーヌ本人へ向ける感情が何なのかは明示されていない。

「お前に音楽を与えた(I gave you my music)」は「愛を与えた」と訳されており、少なくとも日本語版の歌詞を聞いた観客は、ファントムがクリスティーヌを文字通り「愛している」のだと分かってしまう。


続けて、疲弊したクリスティーヌが自身の父の墓を訪れる場面でファントムが彼女をおびき寄せる『Wandering Child』でも、彼は彼女を「私のいとしいクリスティーヌ」と呼ぶ。
原語のファントムは曲名通り「彷徨える子(wandering child)」としか言っていないし、一貫して「音楽の天使(angel of music)」以上の呼び名を使わないが、日本語ではそれに続けて「私の大切な人」と両者ともお互いに歌いかけている。

それ以前に、四季版の二人が「私の大切な人」と一緒に歌っているパートは、原語だとそれぞれ別の歌詞である。

クリスティーヌがファントムに「私の守護者(My protector)」と呼びかけるとき、ファントムは「私を遠ざけないでくれ(Do not shun me)」と懇願しているのだ。
個々に異なる想いを吐露している方が、二人の感情の行き違いが分かりやすいし、クリスティーヌがファントムの催眠下にあると分かりやすいだろう。

『The Point of No Return』の最後にファントムが歌う『All I Ask of You』の一節も、ラウルがクリスティーヌに向けて歌う歌詞とは異なっている。

ラウルが「君をその孤独から救わせてくれ(Let me lead you from your solitude)」と歌っているのに対し、ファントムは「私を孤独から導き救ってくれ(Lead me save me from my solitude)」と全く逆のことを訴えており、二人の対比がはっきりとしているのだ。
これを踏まえて聞く「君が行くところ全て一緒に行かせてくれ(Anywhere you go let me go too)」は、切実さが違う。

だが、ここも四季版では「どんな時でも 二人の誓いは 決して変わらないと」と共通かつ原語には1mmも掠っていないものになっていて、元の歌詞が持つニュアンスは跡形もない。

加えて、英語のラウルは「僕が必要だと言ってほしい(Say you need me)」、ファントムは「私が欲しいと言ってほしい(Say you want me)」と微妙に差が出ている。

「必要」と「欲しい」という言葉自体の意味の違いは些細であるものの、自らの存在価値を疑ったことすらなさそうなラウルと、自分そのものを求めて欲しいと願うファントムでは、かなり人物像が異なる。
あくまでもファントムは彼自身を愛して欲しいと願っているのであり、決して愛されたいからラウルの代わりにまでなろうとしているのではない。

ここに関しては、四季もラウルは「言ってほしい 僕が要ると」でファントムは「僕を求め」と、きちんと差が反映されている。
しかし、前述の孤独に関する歌詞が訳されていないことと、一人称が「僕」になっているせいで、初見でその違いに気づくことは容易ではないだろう。
まるでファントムがラウルのことばをそっくりそのまま借りて、クリスティーヌに求婚しているように見えてしまうはずだ。

孤独なファントムの叫びは日本語だと掻き消されてしまっているのである。



『オペラ座の怪人』を好きになれるかどうかは、どれだけファントムに感情移入できるかにかかっていると思う。



作中で最も長く、またわたしが最も好きなクライマックスである『Down Once More』には、彼を歪めてしまったその悲惨な人生の断片が見え隠れする。

例えば、非常に健康的に育ったであろう美男子で金持ちのラウルに「哀れみを見せろ!(Show some compassion!)」と投げ掛けられた際、(これは演者によって変わるかもしれないけれど)苛立ったように叫び返す「世界は私に哀れみなど見せなかった!(The world showed no compassion to me!)」は、心を刺すような切なさを孕んでいる。

一般的な人生を生きていれば、他者にある程度の憐憫の情を持つのは当たり前のことなのに、それを知らずに生きてきた哀しさと痛みは、この場面で明らかな悪役であるファントムにどうしようもなく同情させてしまう。

これは日本語版だと、「情けなど持たない」と訳されていて、ほとんど正反対の印象だ。
こうした、ファントムの社会から迫害され、まともに人と関わりを持てなかった過去が理解できていなければ、クリスティーヌがラウルに惹かれているにも拘らず、なぜファントムに口付けるのか真には理解できないだろう。


「神様 私に勇気をください 伝えさせて あなたは一人ではないと(God give me courage to show you/You’re not alone)」


クリスティーヌはファントムにこう告げるのである。
最後まで、彼女はファントムに「愛している」とは言わない。

ただ、環境は違えど孤独を知る者として、けれど彼とは違って誰かに愛された経験のある人間として、人に触れられたことすらない彼へ、決して一人ではないのだと伝える手段に口付けを選ぶのである。

人によって解釈は異なるだろうが、あれは恋愛感情を伝えるためのキスではないからこそ、美しく、胸に迫るものがあるのだとわたしは思う。

ところが、だ。

四季版の歌詞は「今見せてあげる 私の心」なのだ。

それどころか、なんと信じられないことに、昔は「女の心」だったらしい。
以前Googleで「オペラ座の怪人」と検索したら、上の方に「クリスティーヌ どっちが好き」みたいな検索候補が出てきたが、この歌詞ならその疑問も納得である。

上で触れてきたように、四季版の歌詞ではファントム、クリスティーヌともに、相手への恋慕の感情をことあるごとに表現している。
その積み重ねの上に、「私の心」なんて言ってキスしようものなら、クリスティーヌは本当はファントムの方が恋愛的にも好きなのではないかと思われても仕方がない。

あのことばとシーンがこの物語を無二のものとしている要なのに、これではただの昼ドラである。



ようやくファントムがクリスティーヌへ言いたかったことばが「愛している」なのだと気づくのは、もう全てが手遅れになってからだ。

戻ってきたクリスティーヌに束の間だけ喜び、その手に自身が贈った指輪が握り締められているのを見て、それでも口にする「愛している」は、たとえ想いが遂げられなくてもどうしても伝えたかった、彼が手に入れた初めての感情だ。

そのことばの重さを知っているからこそ、クリスティーヌは泣きながらその場を去るのである。


あれだけ劇中で「愛」を使ってきた四季のファントムが告げる「アイラブユー」に、同じだけの重さがあるだろうか。

わたしには、英語版で観たのと同じ感動が四季の日本語訳で味わえるとは、どうやっても思えないのである。



英語で書かれたものを、リズムも意味も変えずに日本語へ翻訳するのは、不可能と言い切って良いと思う。
その過程で抜け落ちるものは、きっとたくさんあるだろう。
それを差し引いても、四季版『オペラ座の怪人』には、それだけではない歌詞の違いがあるように思う。

けれど、日本で観れる『オペラ座の怪人』は、四季によるものだけなのだ。

かくいうわたしが初めて観た『オペラ座の怪人』である映画版で“なぜこんなものが20年以上もやっているのだ”と非常にガッカリし、ブロードウェイで舞台を観て心の底から感動した経緯があるので、是非ともこの素晴らしい作品を観る人に、そのような行き違いをして欲しくないのである。

四季版の初公演は1988年。
もうそろそろ、歌詞の見直しが入ってもいいんじゃないかなと期待している。

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