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レゴはヒーローを救う

 レゴ映画など子供以外に誰が観るのか。そもそも動きも表現も制限されたレゴで映画を作る意味はあるのか。

 大ありである。

 しかも『レゴバットマン ザ・ムービー』は大きなお友達、ひいては大人こそが観るべき作品だ。
 一本の映画としても、数十年に一本と言ってもいい位の傑作である。本作においてレゴの非“人間らしさ”、可動性の制約は、物語の構成にプラスにしかなっていないばかりか、寧ろ本作が内包するのはレゴでなければ成立しえない主題だ。よりリアリティが求められる実写では到達できない結末に、非人間たちだけが辿り着く。
 と同時に、暗澹とした現実の中でヒーローを求める人々へ、『レゴバットマン ザ・ムービー』 は事実を突きつけるのだ。

 悪役無しにヒーローは存在しないのだ、と。


 レゴが他の人形と一線を画しているのは、人間も動物も背景でさえも、そのテクスチャに何の差も無い所である。鼻だけでなく体全体もプラスチックで作られているから、ぬいぐるみを買う時に見られる個体差がレゴでは発生せず、また一部分が目立つというような事も無い。
 更に、人間の顔も基本のパターンが決まっており、現実ほど人の見た目に違いは表れず、髪の毛ですら一つのピースとして成り立っている為に“取り外し”が利くから、それさえ外してしまえばもう皆同じといっても過言ではない。(ちなみにこの仕組みがクライマックスに重要な役割を果たすので、やっぱりこの映画は凄い。)

 人種差別など起こりうるはずもない。服と同じ、違うのは本当に肌の色だけなのだ。また、香原 (2000)によれば白目は人間にのみ見られる特徴であるが、レゴ人間達は黒目しか持っていない。つまりは人も動物も皆平等である。
 事実、『レゴバットマン』では人間はおろかペットすら死なない。溶岩に巻き込まれた猫は、"I'm okay!!!!”と叫びながら流されるだけだ。この際、何故猫が喋れたかは置いておこう。
 ともかく、この映画が子供向けだという点を差し引いても、レゴの世界では“何も死なない”のが重要であるのは否定のしようが無い。
 なぜなら、命に限りのある世界で完璧なヒーローは存在しえないからだ。


 ヒーローが暴れれば、人が死ぬ。

 2016年 に公開された『シビル・ウォー』は、ヒーローの救助活動に伴う破壊行動で事件現場からも遠く離れた場所にいた無関係の一般人が命を落とし、その家族がヒーローに復讐を謀ってヴィランになるという本末転倒なストーリーだった。
 現実世界において、ヒーローは憎まれる。そして、年を取る。
 かのバットマンも、実写映画ではもう何人もの異なる俳優に、同じ人物であるはずの彼が演じられてきた。
 現実に、一人の確固たる、生きたヒーローはいない。

 しかし、レゴならそれが全て実現できる。

 どれだけ無茶な方法を取ろうと死者は出ず、誰も怪我はしないし病気にもかからず、「そういえば...」と気付かれかけても時を超えてヒーローであり続けられるのだ。だからこそ、リアルでは達成不可能なヴィランとヒーロ一の和解に『レゴバットマン』は漕ぎ着いた。


 『バットマン』シリーズを少しでも知っている人なら、主人公でヒーローのバットマンが作中最大の悪役ジョーカーと切っても切れない関係で結ばれているのを知っているはずだ。
 元より正統派ではなく“ダーク”ヒーローと呼ばれるバットマンが善人面をしていられるのは、手に負えない程クレイジーなサイコパス殺人鬼のジョーカーいてこそである。
 犯罪に慣れきっているゴッサムの住人でさえ恐れるジョーカーとまともに遣り合えるのは警察ではなく、容赦のない自警団のバットマンだけだと思われているから、一応はヒーローとして活動できている訳だ。

 にも拘らず、バットマンはジョーカーが自らにもたらす恩恵の重さに気付いていない。それどころか、劇中で“the greatest enemy”と自称したジョーカーを彼は瞬時に訂正する。
 明らかにより知名度の低い「ベイン」や、挙句の果てにはヒーローの「スーパーマン」を最大の敵に挙げ、ジョーカーとの間には”何も特別なものなど無い...お前など何でもない(You mean nothing to me.)”とジョーカーの存在意義さえ全否定してしまうのだ。
 『バットマンvsスーパーマン ジャスティスの誕生』(2016)でタイトルの通り闘ったスーパーマンは“最大の敵”と認めるのに、何故ジョーカーはそうと認められないのか。

 ひとえに、ジョーカーが宿敵だからである。悪が無ければ正義は生まれもしないと、“ヒーロー”の彼が認めてしまうことになるからだ。
 人々に害を為す悪は消えてしかるべきである。であれば、そうなった暁にはヒーローも消えてなくなるのが筋だ。
 正義の味方を求める現代社会のニーズに答えるには、この二つがお互いを理解するなどもっての外で、ヒーローとヴィランは永遠に戦い続けねばならない。

 けれど、レゴならどうだ。
 ひとっこ一人も、動物も傷つかない。差別も何もない。ヒーローは象徴の如く見た目も年齢も変わらない。
 あたかも『トムとジェリー』の様に、バットマンとジョーカーはそれぞれの役割を認識した上で、手を取り合って生きていくことが出来る。
 もはやジョーカーは己の存在の一部だと認められたからこそ、バットマンは執事のアルフレッドや養子のロビンを自分の境界線内に招き入れ、独りから解放されたのだ。
 孤独な復讐に燃えるダークヒーローはもういない。
 バットマンはレゴの体を得ることによって呪縛を解き、完全なる正義のヒーローに昇華を遂げたのである。


 ヒーローに望まれる人間性とは何か。
 「赦し」だ。たとえそれが親の仇だろうと、何百人の命を奪った殺人鬼だろうと、どんなに許し難い極悪人であろうと、ヒーローたる者は己の感情に流されて相手に必要以上の危害を与えるべきではない。

 バットマンが”ダーク”ヒーローと呼ばれる所以はここにある。彼が両親の死を受け入れ、犯罪者もバットマンが守るべきゴッサムの市民であると気付かない限り、ブルース・ウェインの孤独は終わらない。
 憎むべきジョーカーもゴッサムに住む一員なのだ。

 そもそもジョーカーがいちいち派手な犯罪をしでかす動機は、バットマンの気を惹きたいが為である。
 『レゴバットマン』はこれを分かりやすく大げさに誇張したストーリーで、ジョーカーがバットマンに "I hate you."と言ってもらう為だけにゴッサムを危機に陥れる。物語の最後にお互い"I hate you." "I hate you more."と言い合うシーンは、あたかもロマンス映画だ。
 それもそのはずである。愛の反対は序盤のバットマンが示した無関心で、憎悪は愛情と表裏一体なのだから。

 二人の間で"I hate you."は"I love you."と同義だ。バットマンはジョーカーに愛を伝えることで、悪役無しには存在できない矛盾した自身をも遂に愛すことが出来たのである。
 崩壊するゴッサムシティを救おうとジョーカーを説得するバットマンは、街を救う事は"us"つまりバットマンとジョーカーの双方を救うのだと、ジョーカーのみならず自らもゴッサムの住人にカウントしている。
 自分自身を愛さなくては他人を愛せるはずもない。


 バットマンが犯罪者への復讐を終えるには、何よりも自己肯定が必要なのである。それでも視聴者は、悪人に冷酷な制裁を加えるバットマンを望んでしまう。
 本来ならヒーローがいない世界が最も平和な世界だというのに、逃げ場の無い現実をフィクションに重ねて、無意識のうちに救世主を求めてしまうのだ。
 実世界がレゴにでもならない限り、ヒーロー達は永遠に自己破滅を抱える矛盾を背負いつつ、戦い続けるしかないだろう。本物の人間を使った実写だろうが、ヒーローもまた人形なのだ。

 そんな現状から、『レゴバットマン ザ・ムービー』 は表向き子供向けという看板を掲げながらも、ヒーロー達そして悪役達を解き放ち、救済した大傑作なのである。


<参考文献>
香原志勢(2000)『顔と表情の人間学』平凡社
武田邦彦(2013) 『武田教授の眠れない講義 「正しい」とは何か?』小学館

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