わたしはアリエルにはなれない

 わたしはアリエルにはなれない、と思い始めたのはいつからだろう。足が生えているからでも、お姫さまではないからでも、歌が大して上手くないからでもない。

 アジア人だから、アリエルには一生なれないのだと思ったのはいつなのだろう。

 世界各国のディズニーランドに現れるアリエルはみんな、白人のキャストが演じている。東京ディズニーシーを訪れる度、わたしはそこでやっている室内型のアリエルのショーを何回も見に行ってしまうのだけれど、ワイヤーで吊るされてこちらに近づいてくれるアリエルに心を躍らせながら、わたしはやっぱりアリエルにはなれない、と毎回思う。
 あれは白人のキャラクターだから、アジア人のわたしは遠くから見ているくらいがちょうどいい距離感なのだ、と客席にいるのを心地よく感じてしまうのだ。
 たとえ、わたしがすごく可愛くて、スタイルも良くて、声も鈴の音みたいで、演技ができて、アリエルの要素を全て兼ね備えたわたしになれたとしても、それはアリエルの贋物にしかならないのだと思っていた。

 でも同時に、もし『リトル・マーメイド』が実写化されるなら、白人の俳優にはアリエルをやって欲しくないとも思っていた。たとえば『美女と野獣』内の歌には明確に「フランス」という歌詞が含まれているけれど、『リトル・マーメイド』にはそれが全く無い。
 原作の童話に、海底の王国を乗っ取ろうと画策するタコの姿をした魔女や、歌うザリガニだとか魚が登場しない時点で、原作者アンデルセンの出身国であるデンマークを引き合いに出すのはナンセンスだ。
 ディズニー版に出てくる場所は、地上も海底も、完全なるフィクションなのである。だから、アリエルを演じる権利はどこの国の人間にだろうとあるのだ。
 ディズニーに限らず、昔の映画やドラマは白人が主人公なのがデフォルトだったから、ディズニープリンセスのほとんどが白人の容姿をしているのは不思議ではない。
 それは正しくないと皆が知っている今、そうでないと成り立たない場合以外、キャラクターの人種を白人以外にするのは当然の成り行きであるし、そうあるべきだと思う。アリエルはそれにうってつけの役だった。


 そして今日、実写版『リトル・マーメイド』のアリエル役が黒人女優に決定したと発表された。正直に言うと、すごく複雑だった。願い通り、白人ではない女優がキャスティングされたのに、「アリエルはこんなではない」と思ってしまった。
 記事に載っていた写真の彼女は黒髪だったし、目も青くはなく、アリエルっぽいメイクも服装もしていなかったから、キャスティング以外何も公表されていない状況で判断するのはフェアではないと思う。けれど、悪役のアースラは白人女優になりそうだというニュースをわたしは先に目にしていた。

 さすがに安直すぎるのではないかと思ったのだ。今までの“良い白人対悪い黒人”を正反対にしただけの構造だったから。人種が関係ないのなら、東アジア人でもアラブ人でも良かったではないか。

 これは最近ずっと感じていたことだった。キャストやスタッフが全員黒人の『ブラック・パンサー』が公開されて、同じディズニー配給のマーベル作品の中で、サイドキックではない主役の黒人ヒーローが初めて誕生した。
 そう、少なくとも格好良い脇役として、これまでにも黒人は何人も出演していたのだ。その点、アジア人のキャラクターは全体でもまだ数人しかいないし、もちろんメインのヒーロー役には一人もいない。
 現在計画されているアジア人ヒーローものは、まだ噂の段階に過ぎないとはいえ、所謂オリエンタリズムを前面に押し出した、陰陽マークがモチーフのキャラクターだ。

 アジア人は映画に出して「もらえ」ても、まだステレオタイプを重く引きずったまま。アリエルなら、そういう先入観を払拭するには完璧だっただろう。実際、オリジナルのディズニープリンセス唯一のアジア人で実写化の決まっている『ムーラン』は、これでもかという程の伝統的な東アジア感を醸し出している。
 ティアナもモアナも濃い色の肌をしているのだから、アリエルくらい譲ってくれよ。
 そういう気持ちがあるのだと思う。マイノリティ仲間だった黒人の活躍を素直に喜べないのは、欧米でアジア文化が黒人文化よりもよほど軽視されているばかりか、差別される気持ちが分かるはずの黒人たちですら、それを下に見ていると感じる経験が何度もあったからだ。

 しかし、それはアジア人も同じである。日本のバラエティでは黒人系のタレントは大体がおバカキャラ扱いだし、依然ブラック・フェイスすらやりかねない。
 そもそも、わたしだってティアナとモアナの人種を割とごっちゃにしている。自分のことで手がいっぱいで、お互いに理解しようという気にもなれないのだ、たぶん。
 「黒人でもキャプテン・アメリカになれるんだ!」「黒人でもアリエルになれるんだ!」。そういう思いを、わたしは映画館でしたことがない。それに対するただの僻みだ。同じマイノリティのはずなのに、なぜこんなに扱いが違うのかというやっかみ。それにはきっと、どんなに不公平でも、わたしたちアジア人が自分からもっと動きかけねばならないのだろう。


 わたしは人種差別主義者ではないが、なんて前置きをするつもりはない。男性優位かつ白人優位な社会で二十年以上育ってきて、全く差別的思考がないとは言い切れないし、わたしが差別的かどうかは他人が決めることだ。

 でも、これだけは言える。もし、オリジナルのアニメーションでアリエルの肌が黒かったとしても、わたしは絶対彼女を好きになっていた。

 狂ったように毎日「パート・オブ・ユア・ワールド」を歌っていた足取りも覚束ないあの頃、自分はアリエルだと信じ込んでいたあの頃、わたしは彼女をどこの国の出身だと思っていたか。

 そんなことは微塵も考えていなかったはずだ。海の下の世界に住む人魚のお姫さま。それだけだった。アリエルはアリエル。
 あの頃は、それで、充分だったのだ。

 ガラスの靴を履いてお城で優雅に暮らしているお姫さまが現実にはいないことも、宝石を掘って生活している七人の小人がいないのも、ある程度の年齢になれば察しがついてしまう。
 けれど、海の下は分からない。まだ誰にも見つかっていない海の底には、本当に人魚がいるかもしれない。作品が持つこのあやふやさに、かつてのわたしは惹かれ、そして成人したわたしは未だ夢見ている。

 肌の色が、服の色とか爪の色みたいに、ただの色でしかなかった日々には戻れない。どう頑張っても、色の違いが意味するものを考えてしまう。
 でも、アリエルは一人しかいないわけではない。ブロードウェイでアジア系女優がアリエルを演じたこともある。それを観た白人や黒人の子ども達はどう思っただろう。
 彼らも心の中ではアリエルになっていたに違いないのだ。


 王子さまが全ての目的なのではなくて、憧れる人間の世界に行く最後の一押しに過ぎなかったところ。父親の横暴さに屈しず反抗するところ。

 自分には絶対手に入らないものを切望する気持ち。外の世界には必ずもっと素晴らしいものがあるはずだと胸を焦がす気持ち。いま住んでいる世界に居場所がないように感じて、他にそれを求めてしまう気持ち。

 アリエルのそういうところが痛いほど分かったから、わたしはアリエルが大好きだった。そんな時、わたしは確かにアリエルだった。

 その気持ちを持ち続けている限り、わたしは、今でも、アリエルになれるはずなのだ。

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