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to be fulfilled

what is happiness?

大学の哲学の授業でのディスカッションのテーマだった。

最大多数の最大幸福という功利主義の考え方は有名であるが、
幸福というのは量的に決まるものでは到底ないだろう。

快楽主義。快楽だけを味わえば幸せかなのか。苦痛を知っているからこそ、快楽が快楽であると感じるわけであるから、快楽主義を追求したからといって幸せと感じることもないだろう。

などなど、哲学的な話をすると、結局のところ幸せが何であるのかよくわからない。

ただ、東京の街で行きていると、
立派な戸建て、タワマン、高級会社、ブランド装飾などなどを生まれながらにして手に入れることができる階層と、平凡に暮らしている階層がいることをまざまざとみせつけられる。

俗にいう「上には上がいる」である。

人と比べずとも、
いい仕事につきたい、給料をあげたい、出世したい、より良い成果を出したい、認められたい、美しくなりたい、細くなりたいなどなど、
今の自分よりさらに上の自分があると考え、今の自分はまだまだ足りないと考えることも多い。

向上心が強いと言えば聞こえはいいのだが、
そういう思考にどこか疲弊してくる。

まだできる、まだ頑張れる。

そうして人は、現状に満足することができなくなり、常に虚無感を抱え、満たされない感覚に苛まられる。

満たされたいのに満たされない。
満たされないからこそ、人に依存したり、整形したり、加工アプリの中の自分に価値を見いだしたり、インスタで自分の良い面をみせつけるなどして、少しでも現状についての肯定感を得ようとする。

ただいくら自己の外に自己の存在価値を見いだそうとしても、結局自分が自分を認めてあげられてない以上、満たされない感覚が付きまとう。

そう、幸せになるとは、自分で自分のことを認めてあげること。今の自分を受け入れること。だと私は考える。

昨日の自分が私。
今の自分が私。
今日の自分が私。
明日の自分が私。

瞬間的に存在する自己こそがその時の私なのであるから、瞬間的に存在する自己を0とすれば、常に自己は0の状態となる。
1になることもマイナスになることもないのである。
常に0の状態、すなわち不変的な価値ということである。

アリストテレスは中庸という概念をニコマコス倫理学の中で提唱しているが、私はこの考え方が好きだ。

感情の超過や不足は悪である。
善とは、中庸、すなわち、中間のことをいうと。

「ちょうどいい」というのが、結局のところ1番いい状態なのではないだろうか。
持ちすぎてもおらず、不足しているわけでもなく。

現状の自分こそが自分。
0の状態こそが中庸であって、そこから超過(プラス)も不足(マイナス)もない状態を保てたら、いつも心は満たされ幸せを感じられるのではないだろうか。

to be fulfilled.

満たされるためには、幸せを感じられるようになるためには、その一瞬一瞬の自分を認めることから始まるように思う。

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