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シン・エヴァンゲリオン劇場版:||感想~成長を考える~

 5月下旬に【シン・エヴァンゲリオン劇場版:||】を観てきました。
 ぶっちゃけて言うと、私は殆どエヴァンゲリオンを今まで見たことがなく、今回の映画上映を期に新劇場版の序・破・QをAmazonで観てから映画館に行った程度のミーハー寄りです。
 それでも、日本のみならず世界中が注目した作品。判らないことは多くとも、雰囲気だけでも味わいたいと思ったのです。

 そんな知識なしの人間ですが、エヴァの道のりを少しではあっても楽しめた人間なので、感想を連ねたいと思いました。
 現在、wikiや他者様の考察などで端々の設定的をある程度把握しつつの状況で、思いついたことをちょこっと書いていきたいと思います。

 本稿は、エヴァのミーハー視聴者がネタバレ微込みで感想を書いたものになります。

1.個人的な新劇場版おさらい

 《序》で迷いと決意のはざまでエヴァに乗るシンジ君。《破》ではアスカとの信頼を深めつつ、しかし暴走するアスカが乗るエヴァを殺してしまう。失意の底でネルフを後にするも、綾波を助けるために再度エヴァへ。そして発生するニア・サードインパクト。
 《Q》は《破》から14年後の世界。ニア・サードインパクトにより崩壊した世界。シンジ君は反ネルフ組織ヴィレのミサトらに保護されるも、「もうエヴァに乗らなくていい」と半ば存在意義を否定される。説明もない混乱の中、今度はネルフに拉致というか保護される。
 カヲル君に慰められつつ、『世界を救う』一縷の望みを駆けてタブルエントリーシステムのエヴァに乗るカヲル君とシンジ君。だがそれすらもゲンドウの狙いのうちで、《Q》の結末はさらなる世界の崩壊だった。

2.なんのために言葉を失ったか?

 《シン》の冒頭、シンジ君はずっと声を出さずにいました。どうやらストレスの余り声を失っていて、まともに食事も取りはしない。アスカに無理やりにレーションを突っ込まれてようやく食事を取り始めるほど。

 ただまあ、これも「そりゃそうなるよなあ……」と思いました。世界崩壊前から、シンジ君は無限の選択肢から自分の道を決めたわけでなく、『エヴァに乗るか、乗らないか』という考えたくもない選択肢を突き付けられていた。これはどうあがいてもどちらかを選ぶしかなく、どっちを選んでも『周囲から拒絶される』だとか『体中怪我して死にかける』だとか、人間としても動物としても尊厳破壊しまくりのおまけつき。本来、現代日本の価値観から言えばそんな苦痛を伴うだけで充分なのに、自分が関わった影響で世界が崩壊する地獄のルート。
 《Q》で世界が崩壊したとはいえ、あれだけ頑張ってエヴァに乗った事実を「エヴァに乗るな」と否定される。しかも助けたかった綾波は救えなかったし、近くには綾波(仮)がいるからいやでも救えなかった現実を見せつけられる。そこからもう一度世界を救おうと奮起したのに、今度はさらなる世界の崩壊(アディショナル・インパクトでしたっけ?)が待っている。

 選択を強要され、その選択で存在意義を否定され、、次の頑張りは騙される。そりゃシンジ君じゃなくても、大の大人だって死にたくなりますよ……。
 ただ、本当に死を求めるんじゃなくて、『人間のコミュニケーションの一つである言葉を出さない』、『人間としての死』を選んでいるようには思えました。だから何かのきっかけがあって、変われる下地ができてくれば、自然と人間の世界に帰ってくる。心の中は自問自答が過ぎて荒廃したでしょうし、外の環境など考える余裕はないので第三村の穏やかな環境に任せたシンジ君の友達たちは凄いと感じました。
 そもそもシンジ君は登場時から14歳の子供だったし、崩壊後の世界でも14年間の記憶がない以上は精神的にも子供の頃のままといえる。なんとなく、この失声状態のシンジ君は、『今までの自分ではこの世界で生きることができないから、生まれ変わらなければならない』という生きる意志のように感じました。

 《Q》までの選択は、だいたい『世界を救う』とか『父親の要請』という子供のシンジ君が選ぶような理由があった。《シン》での『ヴンダーに搭乗する』という選択は、シンジ君自身の結果にも、ヴィレにも(当初の)戦力としては意味がない。
 誰かに押し付けられた責任もはない。むしろ何の影響もでない選択を、シンジ君が誰にも邪魔されずに自分の意志で選択する。それが、進化への第一歩なのかもしれません。

3.ダメダメな大人たち?

 ところで、エヴァの考察や感想などを眺めていて、時折見かけたのが『大人たちが結構ダメダメだった』みたいなものでした。ミサトさんは《シン》で真意が判りましたが、《Q》は結構な変わりようでしたし、ゲンドウは悪役ムーブ満載だし、個人的にはその言葉もそりゃそうだなって感じでした。
 ただ同時に、この終末世界や、今まで青い海を知っていたところから赤色となったという、悲劇的な世界の変わりようを見て、「大人たちだって順応するのは難しいんだろうな」ということを思いました。
 現代も、エヴァの舞台の年代も、使徒のような存在があるとはいえ科学の力が跋扈している世界に違いない。そうした世界では情報によって常に価値観が変化し……大人でさえ常に子供の前を進んでいるとは言えなくなるし、子供も大人に遅れて成長するわけではない物だと思います。むしろエヴァの世界では14歳の子供こそが先頭に立って世界を救える要素があり、そう言った意味では大人よりも一部の子供の方がその制約の中でよっぽど進化に適応せざるを得ない環境にある。

 《序》《破》で何度もシンジ君は『自分の価値観を犠牲にしてエヴァに乗る』選択肢を突き付けられているけれど、大人たちだってそうしなきゃ世界を救えないのをわかっているからそうしているし、シンジ君だって生き残るためには心がぶっ壊れようがそうするしかなかった。あの世界観の中では、現実の価値観なんてそれほど役には立たないのかもしれない。
 強さも正しさも、二極化や数値化して表すのであれば基準が必要になるけれども、世界存亡に関わる中で『より種を残すこと』や『世界を残すこと』、『人としての尊厳を取り戻すこと』など、沢山の基準があるのだとしたら、一概に大人たちがダメだとか、シンジ君もどうだとか、言えなくなるのかもしれません。

4.人間として

 シンジ君が自暴自棄となって言葉を忘れる一方、綾波(仮)は第三村で順調に自我を目覚めさせつつありました。命をいただくこと、人間の世界に順応すること、「ありがとう」「おやすみ」それぞれの言葉に宿る意味を体験すること、仕事をすること。そうして彼女は、少しずつ人の模造品ではなく人間になっていったように感じました。
 現実では、今のところ人間の定義なんてある程度はっきりしているのですが、架空世界ではその基準はどうなるのか、というのは気になることだったりします。というのは、綾波などはどうあがいても普通のヒトとは違う過程を踏んで生まれた生命だし、エヴァの設定をあさってみると人間も使徒の一つリリンであって、襲い掛かる巨大な化け物たちも人間とある意味ヒトと変わらない、目的を持つ生命体。

 人間に近い思考力や意思疎通ができる一方で、命の儚さが違えば『生き残る』うえで同じ価値観を共有するのは難しい。同じ生命体であっても、違う目的のために価値観が変化し、相いれない人間たちもいる。
 一つのコミュニティにおいて、数少ない物資を糧にして生きるために、共同の幻想を抱くことを人は求められる。そこに、生物学的な人間ではなく、倫理的な人間の境界線があるようにも感じます。
 そして綾波(仮)は第三村で暖かい感情を得ることができた。滅びつつあって、人口が激減していく世界の中で、あの村の価値観を知ることができた綾波(仮)は、間違いなく人間であったのだと思いたいです。

5.史上最大の親子喧嘩へ

 綾波(仮)の死の後、荒廃した心に少しでも折り合いをつけて、シンジ君は外の世界に徐々に適応できるようになってきた。周辺の人物たちとの接触を持ちつつ、ヴンダーが迎えに来る。ついに、ゲンドウとの最終決戦です。
 アスカ・マリ・ヴンダークルーの決死の頑張りもあって、最終的にシンジ君は最後の舞台へやってきた。
 今回映画や《序》《破》《Q》を観る前から、なんとなく綾波がゲンドウの妻(シンジ君の母)が基となっていることとか、「なんか奥さんを復活させたいのかな」みたいなことは考えていました。正直、そこらへんの細かい考察はできないのですが……ただ、親子喧嘩の熱さだけは語りたい……!

 世界存亡の危機にあっても、シンジ君にとっては「父さんと腹を割って話すこと」、ゲンドウにとっては「妻にもう一度会うこと」が目的でした。でも、それは彼らにとって世界存亡と同列で語れるくらいの大きな事象だった。
 世界、特にそれぞれの『自分』が見る世界を成り立たせるためには、その人の価値観を形成する世界を維持しなければならない。その事象の前には、時に世界崩壊なんてちっぽけなこととして捉えられることもあるのかもしれない。
 シンジ君にとっては14年の中で印象深い父親だし、ゲンドウはゲンドウで今までの自分を成り立たせるに必要な存在だった。

 《破》から変わった世界に合わせて自分を進化させるために、一時声を失ったシンジ君。この親子喧嘩は、そこからシンジ君がさらに進化する、便宜的に言えば《大人》になるために必要だったのかもしれない。
 人間としての価値観を変えるために、声を失ったこと。
 エヴァの存在しない世界を作るために、自分(シンジ君)≒最も印象深いエヴァ≒エヴァと関係なくして語れない父と和解し、壊す。
 最後、声変りを果たしたシンジ君の姿は、別に熱中してエヴァを追っていたわけでもないのに、不思議と感慨深さがありました。

6.最後に

 ファンでないとはいえ、2時間越えの上映を共にしたことで、多少はエヴァの歴史の長さを体感することができたのかもしれません。
 いずれにせよ、もう少し昔からエヴァに熱中していてもよかったかもしれない。そんな悔しさを感じることができたひと時でした。

記事を最後までお読みいただきありがとうございます。 創作分析や経験談を問わず、何か誰かの糧とできるような「生きた物語」を話せればと思います。これからも、読んでいただけると嬉しいです。