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エリーが罪を許した3人目の人物~THE LAST OF US PARTⅡ~

「もしも神様がもう一度チャンスをくれたとしても、俺はきっと同じことをする」
「多分……一生そのことは許せないと思う……でも、許したいとは思ってる」


 嬉しいことに、あるいは厄介なことに、ラスアス2熱が止まりません。もはや4周目に突入しています。
 ラスアス1の時も同じように熱中しましたが、その時は2周目の途中で止まりました。難易度グラウンドに勝てなかったというのもありますが、両者の違いはなんなのか。システム面の快適さを排除して理由を考えたとき、思い当たる節がありました。
 前作のジョエルと比べ、エリーはラスアス2において現代の我々と同種の課題を与えられ、それに打ち克つ過程が描かれているのではないかと。だから、「まるで自分の投影のように感じて繰り返しプレイしているのではないかと」(殺人暴力描写のことではないですよ?)

 タイトルは、「エリーが罪を許した3人目の人物」。そんな焦点から、あることないこと語っていこうと思います。

 本稿は、THE LAST OF US PARTⅡ4周目に突入した自分があることないこと考察したレビューになります。ストーリーのネタばれあり注意です。

↓THE LAST OF US PARTⅡに関する他の考察はこちら↓

1.冒頭の台詞までの背景

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 突然ですが、冒頭に乗せた台詞はすごく感動しました。心に光りが宿るというよりは、文字通り感情が突き動かされたような形で。
 ジョエルの後悔しても悔いはない台詞と、エリーの矛盾をはらんだ人間らしい台詞。後に続く「それでいい」もいいですよね……語彙力が崩壊しそうです。
 この台詞は物語のエンディング前のシーンで出たものですが、時系列的にはプロローグの前日の出来事。つまり、途中途中の回想を除いては、この台詞の背景にはPARTⅠの物語がありました。

 パンデミックにより理性を失った感染者が跋扈(ばっこ)する、終末世界のアメリカ。国家秩序が崩壊した社会において、裏社会で密輸業をしていた主人公ジョエルは、一人娘のサラを軍人に殺された過去があった。
 その過去を腫れ物のように扱うジョエルは、偶然にも「とある少女を運搬する」仕事を引き受けることになる。その少女エリーは、世界を崩壊させた感染菌に対する免疫があった。アメリカを横断する旅のなかで、二人の間にはまるで親子のような絆が生まれる。
 だが、紆余曲折を経て辿り着いた運搬先の組織『ファイアフライ』は、「抗体を開発するためにはエリーの脳を解剖しなければならない」という。世界を救うか、それともエリーを救うか……。
 ジョエルが下した決断は、エリーを救うことだった。立ちふさがる『ファイアフライ』を皆殺しにして。全てが終わった後、自分の抗体に意義を見いだし、犠牲となることで世界を救おうとしていたエリーは複雑そうな表情で、それでもエリーのために嘘をつくジョエルに「わかった」と言うのだった。
 ここまでがPARTⅠの話。その後エリーはPARTⅡ回想にて、ジョエルが自分の存在意義を奪ったこととに怒り、二人の仲が拗れる様子が描かれます。
 そしてPARTⅡの本編前日。また別件で喧嘩をした二人は、PARTⅠラストのことについて、冒頭の台詞を言い合うのです。

2.復讐の旅の行く末

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 PARTⅡの物語は、簡単に言うと復讐の旅。前作でジョエルに父親を殺されたアビーという女性が、ジョエルに対する復讐を果たし、さらに彼女に対してエリーが復讐し返しに行く、というもの。

 エリーは復讐心に駆られ、多くのものを犠牲にしながら目的を達成していきます。単純に殺めた人たちもそうですし、復讐のために袂を別つことになった家族のディーナやJJ、故郷となったジャクソンなんかも同じです。
 ただ、エリーは同時に後悔も重ねていきます。妊娠しているメルを殺してしまったことは彼女とディーナが重なったことを抜きにしても衝撃だったでしょうし、自分とディーナを心配して追いかけて来てくれたジェシーは、終盤本当にあっけなく死にました。
 そもそも復讐に駆られていることと世の中が荒廃しているという背景に酔わされているだけで、エリーは人間同士の殺し合いに折り合いをつけられているのか。それも個人的な疑問だったりします。

 シアトルでの最後の日、エリーはアビーに敗北し、すでに復讐の連鎖を断ち切ったアビーによって命を繋げました。一度は平和な日々に戻りましたが、PTSDを発症してジョエルの幻覚を視るエリーは、もはや復讐は目的ではなく手段となり、「やりたいこと」から「やらなけらばならなかったこと」に変化したのです(日記を見る限り、ジョエルが殺された日からすでに復讐は手段だったのかも知れませんが)。
 そして、エリーは最終的にアビーを殺しませんでした。色々な理由があるでしょうが、目的達成のためにはもはやアビーは殺す必要はなかったのか、アビーを殺さずとも勝つことで達成されたのか。

3.エリーが「許したい」と思う人

 この選択や結末に対するyoutubeの考察動画やそのコメント、考察記事等々を拝見すると、やはり賛否両論や多種多様な意見がありました。自分は別の記事で「これもまたエリーとアビーの戦いのようだ」とも書きましたが、今回の記事を書くにあたり、次のような考察意見を参考に、焦点を当てています。

「エリーは、アビーを許すことを通してジョエルを許すことができたのではないか」

 なるほど、アビーを殺そうとする直前に穏やかなジョエルが見えたこと。「許せないけど許したいと思ってる」という発言。アビーがまるで前作のジョエルのように描かれているという意見など、これはいい考察だなと思いました。復讐のために進んだとはいえ、アビーにも自分と同じ人生があることを理解したエリーにとって、確かにアビーは許せないけど許したい(許さなければならない)人だったのかもしれません。
 そしてサンタバーバラで、今生きている彼女を許すことを通して、もう話せないジョエルを許す。死んでいるジョエルとはどうしたって話せないわけですから、アビーにジョエルを投影することで、擬似的にジョエルを許したのかもしれません。
 そこでもう1つ。自分は、エリーがアビー・ジョエルに続き許すことができた3人目をあげたいと思っています。

4.病気は全体性の回復の始まり

 ズバリ言うと、3人目とは自分自身。エリー自身。
 もっと言うと、「以前のエリーが許容出来なかった価値観を受け入れる自分自身」です。

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 病気は全体性の回復のはじまり。そう数か月前、そんな考えがあることを知りました。
 ここからは心理学の話になるのですが、エリーの自我、つまりエリーの通常の意識下で現れる価値観と、エリーが精神的に高ぶり脅かされている時の無意識下での価値観は、違いがあると考えています。
 これは現実の人間でも現れうることです。几帳面な価値観で冷静な自我の人、おおらかな価値観で感情豊かな自我の人。これはどちらも良い悪いということはなく、正反対なだけです。ただ、冷静な人が怒ると急に激昂したり、おおらかな人が怒られて無表情になったり、普段と真逆の性質を現すことは珍しくないと思います。
「A型だからこう、B型だからこう」というような分類づけではなく、どんな人も強弱はあれど全ての傾向を持ち、その時々によって強弱が変化する。そのなかで個人個人が生きていく上で取捨選択した価値観や性格が、自我には現れているのです。自我の秩序を保つ規範として。

 ただ、生活環境や対人関係が変わることで、今までの自我の価値観だけでは太刀打ちできなくなることがあります。進学、転職、新たな仲間、そして近親者の死など。
 真面目で働くばかりの人が、体のためにいい意味でサボることを覚える。女性ばかりの職場に就職した男性が、その価値観を学んで順応する。
 無意識には、そうした今までの自我では許容出来なかった価値観が眠っていて、ふとした瞬間に前面に出たり、あるいは過激に出現して襲いかかることがある。自我と無意識の両者の折り合いがつかなくなると、精神の病となる。その状況に陥る人は少なくありません。精神病でなくとも、体に失調を来す人だっています。
 病気は、全体性(自我と無意識をひっくるめたその人の存在そのもの)の回復のはじまり。そう言った意見の中には、上記の背景があるのではないのでしょうか。

5.エリーが許した、彼女自身が許せなかった価値観

 ところで、製作者のインタビューでは、エリーはPTSD(心的外傷後ストレス障害)を患っていたのだとか(私が実際にインタビュー記事を見たわけではないのでちょっと無責任ですが……)。シアトルから帰ってきた後にそれは明確に描写されていて、ゲーム中の彼女の日記を見る限り、ジョエルが殺された日から既に現れているようにも思えます。

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 ジョエルが殺されたことそのもののショック。ジョエルがいない日常に対する違和感。エリーの自我が持つ許せない(アビーを殺したいという)価値観と、相反する許したい(復讐はだめだという)価値観。
 これだけ歯車が狂えば、エリーの全体性は崩れたっておかしくありません。それを戻そうとするために失調が心の病という形で現れ、エリーの中の抑えきれない何かが彼女自身に一定の行動を促そうとすることも。
 最初はやはり、エリーは復讐をなそうと動きました。けど、それでもジョエルの死をなかったことにはできません。復讐がただ単に悪いということではなく、復讐をしてもきっとエリーの全体性は回復しないのです。
 度重なる後悔のなかで、エリーは少しずつ自分が本当にしなければならないことを理解してきました。エリーの頭ではなく、無意識と意識をひっくるめたエリーの存在そのものがです。
 そしてアビーを殺す必要はなくなり、感情として怒りはあれどアビーを許すという、今までのエリーの自我が許すことのなかった価値観が、徐々に、あるいは唐突に受け入れられるようになってきた。
 サンタバーバラでアビーを殺さなかったとき。エリーは①アビーそのもの、②アビーを通したジョエル、そして最後に③復讐の連鎖を終えるという今までのエリーが許せなかった価値観を、許すことができたのではないでしょうか。

 アビーに挑む最後の瞬間は、エリーが希求した儀式の場だったのでは。シアトル3日目でアビーに負けた状況では彼女に支配されているから、自分の意志ではなせなかった。改めてアビーに戦いを挑んで勝ち、アビーを支配した自分が、自らの手でアビーを殺さないという選択をとることで、エリー自身が許すという儀式を果たした。そうしてエリーの全体性は少なからず回復したのではないでしょうか(その後の描写ではPTSDが治った明確な描写はありませんが、ジョエルの亡骸を思い出すのでなく穏やかな日常を思いだし、そしてジョエルのギターを置いていったことは、勝手にそう解釈しています)。
 エリーは復讐を終える価値観を許して身につけ、新たな一歩を踏み出したのです。

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6.余談:もし復讐の旅が始まらなければ

 これは完全に妄想で余談ですが、ジョエルがアビーに殺されずに生を全うしていたら、あるいは死ぬにしても人間関係に遺恨を残さない最期(感染者や動物に殺される、事故や病気)だったら、エリーはジョエルを最期まで許せなかったのではないでしょうか。あるいは許そうと努力する行動に移せないのではないでしょうか。なぜなら、エリーは「許せないけど許したい」ままで、復讐の旅も始まらず、アビーたち敵側の価値観にも触れず、ジャクソンで変わらずに生きるだけならジョエルを許す必要がないですから。
 ジョエルの「それでいい」はすごく好きな台詞だし感動します。ジャクソンでは「それでいい」でよかった、けどいつかエリーにとっては「それじゃだめだ」になる瞬間が来ます。それは不幸にも、ジョエルがそれを言った翌日に、あもりにも早く訪れてしまったのです。

7.エリーと現代社会の共通点

 THE LAST OF USの世界は言うまでもなく絶望的で、死の足音は当たり前にあり、人の命は軽んじられます。だから残酷な描写が前面に出ているだけで、けれどそこに潜む心の葛藤は、現代社会と何も変わらないのではないでしょうか。
 現実だって、むかつく人はいるし、許せない人はいる。そんな人を「もう関わらない」と関係を終えるのではなく、辛抱強く関わることで相手の価値観を認めること。これはそう簡単ではありません。少なくとも筆者である自分はそれをしようとして出来なかった過去があります。今までの自分を否定してぶち壊し、時には自分の今までの自我を殺し、新しい自分を受け入れる。辛く長く険しく恐ろしく、全霊をもって挑む必要があるのです。葛藤が無意識下で行われるならなおさら。
 これほど過酷な物語を何度も繰り返し目に焼き付けている自分がいる。それは、心の葛藤を乗り越えたエリーを称賛し、憧れて、いつか自分に「その時」が来たときの予行演習としている。そんな自分がいるからではないかと、そう思うのです。


お付き合いいただきありがとうございました。


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