プレゼントを贈るということ

今年はあまり流行りが来なかったようで4℃論争を目にしなかったのですが、クリスマスになるとSNSにはプレゼントに関する悲喜交交が溢れるものです。

"センスのないプレゼント"が贈られてしまうことはあると思うし、プレゼントの代金分の現金の方が良いという主張も算数としては1つの正解かもしれません。

でも僕はサンタクロースという世界中の大人でやる三文芝居が大好きなので、なんだかそんな考え方を寂しいと思ってしまいます。プレゼントを贈ることって何なんだろう?と考えていた2021年の最終日。

相手が喜んでくれたかなんてどうでも良い

キャッチーな見出しにしたかったので「どうでも良い」という強い表現を用いましたが、厳密には「喜んでくれなくても構わない」という意味です。ただし、「相手が喜んでくれるかを考えない」という意味ではないです。

相手を喜ばせようと思ってプレゼントを贈り、その結果として相手の反応が自分の期待していたものではなかったとしても構わないと思っています。極端に言えば、プレゼントがメルカリに出されていても良いのです。

プレゼントを贈ることができただけで100点満点だ

プレゼントを貰うことが幸せであるのは勿論だけれども、プレゼントを贈ることだって同じくらいに幸せなことです。

これまでの人生を思い返してみれば、あなたにプレゼントをしたいと思い立ったことも、何を贈ったら喜んでくれるだろうかってあれこれ思い巡らせる時間も、こんなものを渡しても困らせてしまうだけかもしれないという不安に駆られる瞬間も、プレゼントをあなたに渡すその時のドキドキも、全て確かな幸せの一部だった。

プレゼントを贈るというプロジェクトにおいて、その達成率は相手にプレゼントを贈ることができた(相手がプレゼントを受け取ってくれた)時点で100%です。その先はもうスタッフロールが流れながらの後日談であり、ボーナスステージでしかありません。

もしも、受け取った相手がすごく喜んでくれたならば達成率は200%、そのプレゼントを大切に使ってくれたら300%くらいです。もしも、プレゼントがメルカリで売られたって、相手の懐が温まったら達成率は120%くらいですかね。悲しくなるのが本音だけれど、それは甘くて美味しいカフェラテの後味がほろ苦かったという解釈で良いじゃないですか。涙でちょっぴり塩辛いのも心に沁みます。

あなたのまにまに

プレゼントを贈る際の心持を、遥か昔、菅原道真公が詠んだ旅の歌にちなんで

このたびは 幣も取りあへず 手向山 紅葉のにしき 神のまにまに

小倉百人一首(24番) 菅家

誰にとっても価値のある高級品ではないけれども、あなたが本当に欲しいと願っていた物ではないかもしれないけれども、あなたに相応しいと思った"とっておき"をお贈りしますから、その先のことはあなたにお任せします。そんな想いでプレゼントします。

ガッカリされると落ち込むし、粗末にされると悲しいし、喜んでくれたら嬉しいし、大切にされたら幸せだけど、その全てにおいてあなたの責任は無いよ。僕があなたを喜ばせようと頑張ったことは、あなたが喜ばないといけない理由にはならないのです。

プレゼントを贈らせてくれてありがとう。受け取ってくれてありがとう。一生懸命選んでみたから、後はあなたのまにまに。

プレゼントを貰うことができただけで100点満点だ

プレゼントを贈ることについて書いてきましたが、いただく時も根本的な考えは同じでいます。自分の欲しかったものかとか、好みのデザインかとか、金額だとか、そんなことは"どうでも良い"です。

僕にプレゼントをしようと考えてくれたこと、プレゼントを用意してくれたこと、勇気をもって渡してくれたこと、その全てが確かな幸せの一部です。もらった時点でもう100%嬉しいし、100%の感謝を示したい、そんな想いでいます。(でも実際には自分が思いよらなかった欲しいものが貰えてしまって300%の感謝を示さないといけなくなるんですけどね。)

(蛇足編)プレゼントと恋愛観

ここからは蛇足ですが、プレゼントを贈ることについて考えていたら、結局自分の恋愛観と酷似していることに気づきました。僕は何とも単純な人間のようです。

あなたのことを好きにさせてくれた時点で100%の感謝があって、相手が何か自分に対して優しさをくれたり、大切にしてくれたり、好意を抱いてくれたり、そういうのは全部ボーナスステージでしかないです。

ただ、悲しいことに条件付きの愛情の方がトキメキ(という名のドキドキ感)を提供するには良いのかもしれませんね。そういうこともあって過去の恋愛では相手の浮気から関係が終わってしまうことが多かったです。そして浮気されて喧嘩をしてお別れするのではなくて、浮気をされて喧嘩をしなくて(僕が怒らなくて)相手から振られてしまうのが常でした。

初めてパートナーの浮気を経験した時はかなり動揺して、眩暈で立っていられなくなったりもしたけれど(笑)結局のところ、浮気されたところで相手のことを好きじゃなくなるわけではなかったし、相手の浮気で自分が傷ついたとしても、相手のことを好きにさせてくれた思い出が無くなるわけではないから、許せないと思ったことはないです。でもそういう「浮気されても好きだよ」という態度自体が浮気をさせてしまう土壌作りになっている部分もあって難しいところ。

そもそも、事実として「浮気をされた」という表現を用いていますが、僕が一方的に被害者であるという認識ではないです。連絡不精なところや、感情表現が上手でないところは改善していくべきであったし、自分がパートナーに対してどのような愛情を持っているのかをちゃんと共有できていなかったと思うので。そんなすれ違いが相手の浮気という形で顕在化しただけであって、どちらかが加害者とか被害者ということはないですね。

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