四十八文字の話『フ』①「復刻本 ( ふっこくぼん )❗」。復刻された二つの書籍を紹介させて頂きます。
皆さん、すっかりのご無沙汰です。
で早速ですが、今回は、私が読んできた中でも特に印象が強く残っている二つの書籍について述べさせて頂きます。
偶然にもこの二つの書籍、どちらも「復刻版」で、遥か以前に出された本が再び復活した物です。
ひとつは
🌕「謎の出雲帝国」( 著者 吉田大洋 )
そしてもうひとつは
🌕「復原された古事記」(著者 前波仲尾 )
これらの書籍を是非紹介させて頂きたいのですがその前に、皆さんには是非とも観て頂きたい物が有ります。
それは下の絵です。
是非ご覧下さい。
⚪「日本神話」
この絵は今に伝わる古代「日本神話」の、あるワンシーンを描いたものです。
そのワンシーンとは、有名な「国譲り」( くにゆずり ) のシーンを描いています。
天上界「高天原」( タカアマハラ ) からやって来た使者が「出雲」( イヅモ )の国、稲佐 ( イナサ ) の浜で、
出雲の神「大國主神」( おおくにぬしのかみ ) に「ここの国を我らに寄越せ❗」と迫る場面です。
右側が「高天原」の使者、左側が「大國主神」です。
ですが皆さん、この絵、どう思います?
何が?、というより、どう見てもかなり変デスヨね?
右側の使者「武甕槌神」( たけみかづちのかみ ) は、どういうわけか、浜に突き刺した剣 ( つるぎ ) の矛先 ( ほさき ) の上に胡座 ( あぐら ) をかいて座っています。
何故わざわざこんな格好をしているのか?
使者としての大事な使命を果たすための談判が行われている重要な場面デスヨ。
更に言えば、何でこんな座り方、ある種の「芸当と思われる技」が出来るのかな~、とも思ってしまいますよね?
失礼ですが、私には何やら「お笑いのコント」に見えてしまいますが、皆さんはどうですかね?😁
ですがいくら何かおかしいな~、と疑問を持っても、こう言われれてしまえば、皆さんは半ば納得してしまうでしょうね。
「しょうがないよ、だって【神話】だからね。所詮作り話だからな~」と。
⚪「古事記 」
その「日本神話」が記されている「古事記」( こじき )。
皆さんはご存知だと思いますが、この書物の原文は「漢字」で書かれています。
ですがこの「漢字」は、人の発音する「声」、つまり「音」に対し、それに対応出来る「漢字」、「音読み」での「音」に当てはまる適当な「漢字」を当てて書いた、「音訳」に過ぎません。
ですから、書かれている「漢字」自体には、何らの意味も持ちません。
例えば
「サン」という【音】には「山」を当てたり、「キュー」だったら「急」など。
だから「サンキュー」には「山急」という漢字が当てられ表記される事になります。( 飽くまでも一つの「例」です よ😁)
ですからこの書物「古事記」に書かれた「漢字の羅列」は、漢字本来が持つ「意味」「意訳」とは何ら関係ありません。
しかし、我々日本人は漢字を目にすると、ついつい自然に、その漢字の「意味」するところをイメージしてしまいます。
ですので「古事記」の漢字原文だけを見て解釈した結果が、先程の絵の様な、何か変な表現となってしまうのではないでしょうか?
○「古事記」原文の本来の意味
先程の絵の場面、その箇所の「古事記」原文を記すと以下になります。
「十掬剣 抜而」
「逆刺而 浪穂」
「逆刺 立而」
「趺座 其剣前」
やはり原文、「漢字」だけを眺めていると、「国譲り」のシーンが先程の絵の表現となってしまうのは、何となく解りますね。
ですが皆さん、これら日本神話に音訳された「音」を、ある外国語の「言葉」とし、それらを日本語に訳すると、すごくスッキリし、意味が明快となるのをご存知ですか?
○実は「古事記」は外国語で書かれている?
ではこの原文の「音」を記します。
「十掬剣 抜而」➡️「タ チカ ゲン ナギンテ」
「逆刺而 波穂」➡️「サカシ サジ テ ナムノブ」
「逆刺 立而」 ➡️ 「サカ シ ツキタ」
「趺座 其剣前」➡️ 「アグムラ ジ ジン サキ」
そしてこの「音」を先程言った「ある外国語」で日本語に訳しますと
「タチカゲン ナギンテ」 ➡️「船で押し寄せ 城を取囲み」
「サカシサジ ナムノブ」➡️「諸城の一帯に攻め上がり 生捕に」
「サカシ ツキタ」➡️「王子を討ち取る 一緒に」
「アグムラ サキジジンサジ」➡️「剣の鋭さにものをいわせて」
どうですか?
この外国語での解釈が正しいとすれば、「高天原」からやって来た天孫族の軍隊が、「出雲」の国に攻め入った出来事を見事に描写している事となりませんか?
ここで 皆さんに是非考えてほしい事が有ります。
「国譲り」という出来事についてです。
冷静に考えてみて下さい。
日本神話の中では「国譲り」という出来事自体がとても平和な話し合いの中で行われた、との印象で書かれています。ですがそんなわけなどなく、圧倒的な武力を背景とした「侵略戦争」とするならば、この解釈は大変「的」を得ております。
平和に暮らしていた自分達の国に、突然「ここは良い土地だ。だから明日からは我々の土地とする。ん?、何か不服でも有るのか?」と言われて、「はい、分かりました」など答える人がどこにいます?
ですが、我々がよく聞く一般的な「国譲り」は、結局「平和な話し合い」で終了していると聞かされていますよね。
最初の復刻本「謎の出雲帝国」の著者「 吉田大洋 」氏はこの様に言ってます。
「それは【古事記の国譲り】の文中によくに出てくる【 言向和平 】という音訳のせいではないでしょうかね」
【言向和平】
「コトムケヤハシ」の音訳です。
確かにこんな漢字で書かれていれば何となく「平和な話し合い」となりますよね。
ですがこれを先程の外国語の音にしますと
「 コト ムク ヤ ハシ 」。
そして日本語に訳します。
すると、以下の様になります。ちょっと「ショッキングな内容」となりますが。
「コト ムク ヤ ハシ 」➡️「男根 (= ハシ )で女陰 (= ムク ) を犯し ( =ヤ ) て、始末する ( =コト ) 」
「古事記」の「漢字」表記、「音訳」の世界では「平和」の内に行われたとの印象ですが、ある外国語での翻訳、「意訳」では真逆になる、という事です。
○「日本神話」は「架空の話」ではなく「事実の出来事」
更に皆さん、ここでよく考えて下さい。
ここは結構【重要】です。
外国語でも何でもよいのですが、こんなにスッキリな意味の通る話に変える事が出きるのならば、今まで「作り話」とか、「架空」「フィクション」と言われてきた「日本神話」が、実は、遥か古代に、実際に世界の何処での出来事を、現代の我々に伝えてくれている「ノンフィクションの話」となってきませんか?
つまり「事実❗」という事、です。
よく世間で言われる「トンデモ話」との扱いになるかも?、ですがね。
ですが「真実」の可能性は大きい、と思います。
○漢字の当て字は日本だけの現象ではない
「古事記」は漢字の当て字、音訳で書かれていますが、何もこの技法は日本だけに限った事ではありません。
当の中国でも行われてきた事実をご存知ですか?
例えば、仏教の「ブッタ」。
「ブッタ」と言う言葉は古代インド、サンスクリット語です。
中国ではこれに同じ音訳の漢字「仏陀」を当てています。「仏陀」はサンスクリット語の「音訳」となります。
また皆さんも「遣唐使」( けんとうし ) をご存知ですよね?
歴史の授業で習ったと思います。
かつて日本から大陸へ向かった「外交使節団」ですが、行き先は、当時の中国王朝「唐」( とう ) です。
実はこの王朝名「唐」も当て字だと言う事、知っていました?
自らの父親と共に七世紀、西暦618年、中国大陸に大帝国「唐」を建てたのが「李世民」( りせいみん )。
前王朝「隋」( ずい ) との闘いにおいて勝利したのは多くのトルコ系騎馬民族の支援を受けた事によるものです。
李世民は闘いの後、そのトルコ系騎馬民族からある称号を贈られます。
「テングカガン」
トルコ語で「大君主」( だいくんしゅ ) との意味です。
その称号名の一部「テング」は「天」の意味ですが、広東語の中でこの「テング」という音に当たるのが「唐」という漢字だったんです。
つまり李世民はトルコ系騎馬民族の援助に感謝し、自ら建てた王朝名に、トルコ語の「テング」の音訳、「唐」を当てたという事です。
「唐」はトルコ語の音訳となります。
🌕古代の「トルコ騎馬民族」はユーラシア大陸中を馬で疾走し、かなりの強力な機動力、軍事力を持っていた民族ですから、当時、陸続きの中国などはその存在を無視など出来なかったはず。
また、大陸中を巡って、ユーラシアの各地域に影響、圧力を加えていただろうこの民族は、当時の「先進国」的な存在だったかも知れません。
だとするならば、王朝名をその「先進国」の言葉に当てるのは至極普通の、当然の事かな、と思われます。
また「唐」だけではなく、各時代の王朝名。
例えば「春秋戦国時代」に各地域に建てられた国の名 ( 斉、晋、楚など )もそうなのかもしれませんね。
皆さん、下の当時の「大陸地図」を見て下さい。
よく見かける地図です。
ですが「視線」を変えて見て下さい。
「唐帝国 」の周辺は「騎馬民族の国」だらけです。
四方を囲まれています。
これでは唐帝国、自国本位の外交など出来ないデスヨね。どうしても他国間の利害を考慮せざる負えません。
⚪復刻本①「謎の出雲帝国」( 著者 吉田大洋 )
では早速「謎の出雲帝国」を紹介させて頂きます。
この書籍は、今から四十三年前の昭和五十五年 ( 1980 ) 、「徳間書店」から出版されました。
そしてその後、平成三十年 ( 2018 ) に「株式会社ヒカルランド」より復刻された書物です。
ジャーナリストである著者「吉田大洋 ( よしだ たいよう ) 」氏は社会の問題点や疑問に思った事をご自分の足で調査し、その調査内容を書籍に纏める、といった仕事をされていた方です。
ですのでこの書籍も小説ではなく、ご自分がある日、偶然見かけた女性週刊誌の記事に興味を持ち、これを是非解明したい、との思いから取材を始めて、調査、立証していく過程を綴った本です。
題名にある通り、「古代出雲」に関する内容です。
現在でも出版されている雑誌「女性自身」。
吉田氏が興味を持った記事はその雑誌の【 昭和五十二年五月二十六日号 】でした。そこにはこんな特集が載っていました。
○シリーズ人間 「四千年のタイムトンネルに生きる男」
【元サンケイ新聞編集局次長 「富當夫 ( とみまさお ) 」氏が伝承する日本人とは】、です。
吉田氏はこの記事内容に目を奪われます。
【私は滅亡した出雲王国の末裔 ( まつえい ) だ】と名乗る、富氏。
実際に皆さんはこんな話を聞くと
「何だか、ヤバい話だな~」
「何かの詐欺の話では?」
と思いますよね?
ですがこの時の吉田氏は違っていました。
まず、富氏の経歴。
この当時は既に定年退職していましたが、仮にも日本を代表する新聞社の幹部社員だった方。
そんな方が何の根拠もないままに、こんな「荒唐無稽」( こうとうむけい ) な事を発言するとは思えない、という事。
○「富さんは私の大先輩ですよ。」と信頼を持って評している方がいました。
それは、歴史小説家「司馬遼太郎」( しばりょうたろう ) 氏。
この方が作家になる前は「サンケイ新聞」の記者であったのは有名デスヨね。
司馬氏は自身の著作「歴史の中の日本」という書籍の中でも【生きている出雲王朝】と題し、富氏の事を取り上げ、出雲に関する同様の話を記しています。
そして更に次なる要因が富氏の記事を「揺るぎない話」とします。
この週刊誌記事に出会う約一年前、吉田氏はある資料を入手してました。
その資料に記されていた内容と、週刊誌で富氏が語っている内容がほぼ一致している事❗、です。
「富氏の語っている事は事実だ❗。だとすれば【古代出雲】は本当に存在していたという事。ならばそれを是非とも究明してみたい」
🌕吉田氏が一年前に手に入れたその資料。
それが次回紹介する予定のもう一つの復刻本「復原された古事記」なんです。
次回のブログで詳しく述べさせて頂きますが、こちらの書籍は何と❗今から約八十年前、昭和十七年 ( 1942 )、当時の満州 ( 中国東北部 ) にあった「満州教育専門学校」の校長であり、南満州鉄道 ( みなみまんしゅうてつどう ) 、所謂「満鉄」( まんてつ ) の教育顧問を勤めた「前波 仲尾 ( まえば なかお ) 」氏が書いた本です。
記されている内容は勿論「古事記」についてです。
「この書籍に記されている内容と、富氏が語る内容がほぼ一致する」
皆さん、もうこれだけで、我々が学校で習う「古事記」の内容とは全く違う、と想像出来ますよね?
このブログの冒頭で述べた「国譲り」の話。
ある外国語からの日本語訳した内容は従来とは違う解釈になる、と述べましたが、その一連の内容が「復原された古事記」に書かれているんです。
○富氏が語る伝承
その後、何とか富氏との面会にまで漕ぎ着けた吉田氏。
「我が家の伝承は門外不出。だが君からの質問に答える、という形式なら許されるだろう」
富氏が語る内容の詳細は是非「謎の出雲帝国」でご覧頂きたいです。
ですが今回は大変に僭越ですが、これらの内容を簡略して述べさせて頂きます。
1、「富當夫」氏の本名は「富上官出雲臣財當夫」。
🌕「とみのじょうかんいづもおみたからのまさお 」と読みます。
「上官」( じょうかん ) とは、出雲大社の祭祀にたずさわる「一族、家」の中でも、「上席の家」の意味。
「出雲臣」( いづもおみ ) は古代の最高位の姓 ( かばね ) 。「財」( 【たから】と読みます ) とは「出雲神族」の中で、特に「王家」だけが付す事を許されている「財」( = 勾玉【まがたま】 勾玉は王家の象徴 ) の意味 。
この「財」という文字が名前に付けられているのは王家の証。「富」家は「出雲神族」の王家です。
2、富氏は分家の出。しかし十六歳の時、ご本家の養子となり、以来本家の養父から、古代出雲の「四千年前からの伝承」を毎晩、実に十年に渡り拝聴し、これを受け継できました。
3、出雲神族の祖神は【クナトノ大神】。「大國主神」ではない。
出雲地方にある「熊野」( くまの ) 。
そこに鎮座する「熊野大社」に祀られている。
「クナトノ大神」は別名「熊野の大神」( くまののおおかみ ) 、「岐神」( ふなとかみ )、「幸の神」( さいのかみ )、「道祖神」( どうそじん ) などと称されている。
国産みの神、「イザナギ」「イザナミ」両大神の長男であり、対立していた「天孫族」( てんそんぞく ) さえも畏敬する存在。人々を導いた神である。
「古代出雲において、大國主神は重要な存在ではなかった。出雲大社が現在の地に移ったのは奈良時代の霊亀二年(716) 。それ以前まで、出雲の聖地は熊野の地にあり、そこでは「大國主神」ではなく、【クナトノ大神】を祀っていた」
🌕「熊野」と言うと皆さんは「紀伊半島」地方にある地名、またそこに鎮座する神社の名だと思いますよね。
ですが元々は「出雲の熊野」が発祥なんです。
出雲神族の一派が出雲から紀伊半島に移住した事に拠るものです。
また【クナトノ大神】をご存知なくとも別名の一つ「道祖神」( どうそじん ) の名は聞いた事があると思います。
「道祖神」がよく見られるのは村々の境目、分かれ道、など。この道祖神、色々な種類が有ります。
それぞれの型は【クナトノ大神】の御利益である「夫婦和合」「子孫繁栄」「厄払い」などを表しており、全ての「道祖神」は【クナトノ大神】に帰一します。
正に「万能の神」「お導きの神」です。
特に「信州」( 長野県 ) に「道祖神」が多いのですがそれは、出雲「大國主神」の息子である「建御名方神」( たてみなかたのかみ ) が信州「諏訪大社」( すわたいしゃ ) に祀られているからです。
出雲の王子が崇拝する【クナトノ大神】ですから、「道祖神」が多いわけです。
🌕「 出雲の熊野」に鎮座し【クナトノ大神】を祀っている「熊野大社」。
その八十九代宮司の次男が富氏の祖父に当たる方です。
幼名が「熊野意宇麿」( くまのおうまろ ) 。
幕末戊辰戦争では薩長軍の大参謀、西南の役では西郷軍の隊長を勤めました。
維新の頃より日本のために奔走していましたが、明治政府が薩長閥の独占となり、また西南の役では西郷軍に付いたため「国賊」扱いとなり、志半ばで切腹したそうです。
この出来事以来、明治政府の動向に気を揉んでいた「出雲大社」は、古代から綿々と続いていた「富家」とのご縁を切ってしまったそうです。
🌕【クナトノ大神】が何故世間ではあまり知られていないのか?
それは、後程に記させて頂く「5. スサノヲ神」と同じです。「スサノヲ神」の場合は「後の世で追加された演出、脚色」ですが、【クナトノ大神】の場合は、後の世の権力者によって「その存在が消された」様です。
4、出雲神族の葬儀は「風葬」又は「水葬」。
🌕古代「出雲帝国」の存在を否定する歴史学者はよくこんな事を言います。
「古代の出雲地方に大勢力、帝国が存在していたわけなどない。何故ならば、ヤマト地方の様に【大型古墳】がないからだ」と。
でも出雲神族は上記4、の様に「風葬」又は「水葬」で故人を送ります。【古墳】などは必要なかった、と言う事です。
5、「スサノヲ神」は「日本神話」では「アマテラス神」の弟、「大國主神」の先祖又は父親、と記されている。
だがこれは、「日本書紀」「古事記」の作者、或いは後の権力者が、後から作った「創作」である。
その理由は「天孫族」と「出雲神族」との関係を良好な印象にし、「天孫族」が行った殺戮行為を誤魔化す ( ごまかす ) ためのものである。
ではこの神の正体は何者か。
それは、良質な「出雲の砂鉄」を奪うために、朝鮮半島からやって来た侵略者である。「大國主神」との血縁などない。むしろ「敵対関係」だ。
🌕「スサノヲ神」の別名は「牛頭 ( ごず ) 天皇」。
「牛頭」は朝鮮語で「ソシモリ」、実際に朝鮮にある地名です ( 江原道春川府牛頭州 ) 。
またその「スサノヲ神」を祀っている有名な京都の「八坂神社」( やさかじんじゃ ) 。
こちらの社伝には、こう書かれています。
「斎明天皇二年 ( 656 ) 、【新羅】 ( しらぎ 古代朝鮮に存在した国の名 ) の【牛頭山】より【スサノヲ神】の神霊を迎え祀る」、と。
○小説家「松本清張」氏の金言
推理小説「ゼロの焦点」や「点と線」などを執筆し、かつて一世を風靡した作家「松本清張 ( まつもと せいちょう ) 」氏。今現在でもこの方の小説は数々のTVドラマの原作として放映されています。
ですがこの方、歴史に関しても大変に造詣が深い方です。
その作品の中でも、映画にまでになった名作【 砂の器】( すなのうつわ ) 。
この小説の中では重要な舞台の一つに「出雲地方」が登場します。
この小説を書くにあたり、松本清張氏はその出雲地方まで取材に行った事でしょうね。
更に映画化される事が決まった際には、再び訪問。
現地の方々との交流を深めた様です。
その「出雲の地」を直接肌で感じたであろうこの方が生前に残した言葉の中で、実に興味深い下記の様なものが残っています。
「【日本書紀】や【古事記】の作者がスサノヲに与えた演出はただ一つ、大國主神の親族となる事だけだ 」、と。
「日本神話」「古事記」において、スサノヲが大國主神の先祖又は父親とされているのは「演出に過ぎない❗」と、キッパリ指摘しています。
これは正に「富氏の伝承」と同じ事を言っています。
6、「出雲大社」に祀られているのは「大國主神」ではない。数多の闘いの中で死んでいった「出雲神族の怨念」を封じ込めるために、仇敵である「天孫族」が建てた社だ。
🌕時代がかなり下った平安時代。
その時に脚光を浴びる存在だった「菅原道真 ( すがわら みちざね ) 」 公。
この方も正に「出雲神族の末裔」なんです。
そのあまりにも優秀さから異例の出世をし、朝廷において「右大臣」の地位にまで登ります。
ですが政敵「藤原」氏の謀略により、非業の死を遂げます。
その後、京都では数々の災害が起き、「これは菅原道真の怨念では」という事で、それを鎮めるために建立されたのが現在の「天満宮」です。
これらの出来事、
「出雲神族の怨念 封印」➡️「出雲大社」
「菅原道真の怨念 封印」➡️「天満宮」
更に実は「出雲」との関係が深い、と思われる「 平将門 」( たいらのまさかど ) も
「平将門の怨念 封印」➡️「神田明神」
🌕「神田明神」のご祀神は
【 大己貴命 】( おおなむちのみこと )
「大國主神」の別名です。
【 少彦名命 】( すくなひこなのみこと )
出雲系の神です。「大國主神」と共に出雲の国作りに邁進した神です。
これらの図式は同じ現象の表れ、「権力者」( 天孫側 ) による「敗者」( 出雲側 ) への 「魂の封印」だと思われます。
一体いつまでこの様な「歴史は繰り返される」のでしょうかね?
⚪作家「松本清張」氏は小説【砂の器】の中で「【出雲地方】と【東北地方】の方言が似ている。」と記しています。この指摘、実は日本の歴史におけるかなり奥の深い出来事を表わしています。
この小説でのキーワードは「方言」。
ある殺人事件の解決の契機となったのは被害者がしゃべっていた「方言」です。
この小説のあらすじを簡単に言うと
ある日、その当時はまだJRが国電と呼びれていた時代。東京の蒲田駅操車場で男性の他殺体が発見されます。
聞き込みにより警察はその被害者と思われる人物は、前夜に、ある居酒屋で知り合いと思われる人と二人で酒を呑みながら、所謂「ズーズー弁」、東北弁でしゃべり、やたらと「カメダ、カメダ」と言っていた、との事。
「【東北弁】そして、【カメダ】」
これを基に捜査した警察は秋田県に「羽後亀田」( はごかめだ ) という駅があることを突き止め現地に向かいます。
が、空振り。
( 話をかなり省略します )
その後、不明者捜索願いで名乗り出てきた被害者の息子は、「父は東北出身ではない」と。
捜査に行き詰まった警察は最後に「言語学」の専門家に相談します。
「東北地方の方言、これと似た地方は有りますか?」
「それならば、島根県の【出雲地方】ですかね」
そしてその出雲の地に「亀嵩」( カメダケ ) という駅を見つけます。また事件の被害者は元警察官であり、転勤で一時期「亀嵩」駐在所に勤務していました。
これを契機として捜査が進展しく事となります。
との、あらすじです。
この小説の中で、実に重要な事象を指摘、それを取り入れていた作家「松本清張」氏。
それは、【出雲弁と東北弁は似ている】。
皆さんはこれを小説を盛り上がるための、単なる演出としてのアイデアだと思われているかもしれません。
ですが、やはりこの方も「荒唐無稽」な事を自らの著作に書くとは思えません。
ご本人は意識していたかどうかは分かりませんが、実はこれは歴史的に裏付けがあり、根拠の有ること、なんです。
⚪吉田氏の未完の著作「謎の津軽第二出雲王朝」より
やはり同じく吉田大洋氏の復刻本に「謎の津軽第二出雲王朝」という書籍があります。平成三十三年 ( 2021 ) に株式会社ヒカルランドから復刻されました。
この中で吉田氏は、超古代文献研究者、そして何と言っても「神代文字」( かみよもじ ) 研究の大家である「 吾郷清彦 」( あごうきよひこ ) 氏との対話を記しています。
吾郷氏が突然、こう切り出します。
「宮城の塩竈 ( しおがま ) 神社、ここのご祀神を知っていますかね?」
「え~と確か主祀神が【シオヅチの神】、副神が【タケミカヅチの神】と【フツヌシの神】とされていますが」
「いや、違うんですよ。実は祀られているのは【ナガスネ彦】なんです」
「え❗」
皆さん、「ナガスネ彦」をご存知でしょうか?
「日本書紀」「古事記」に登場しますが、役回りは所謂「悪役」。あまり良い印象が有りません。
神武天皇による東征のおり、大和 ( 現在の奈良 ) において頑強な抵抗をして何回も天孫軍を打ち負かした、反「天孫軍」のリーダー、頭領です。
ですが最後は天孫軍に敗れます。
ナガスネ彦を「日本書紀」「古事記」では現地大和地方の蛮族の頭領、何だかとても野蛮で暴れ者の様なイメージで描いています。
どうしてそんな人物が「塩竈神社」の、それも由緒有る「陸奥国一ノ宮」の主祀神になれるのか?
とても信じられませんよね。
ですが出雲神族「富氏の伝承」では、ナガスネ彦の事をこう伝えています。
「ナガスネ彦は、大和地方における出雲神族の一武将である」と。
それも一説によれば並みの血筋ではなく、「大國主神」の直系、孫にあたる様です。
出雲国がその後も続いていたならば、「出雲王国」の次々頭領となっていてもおかしくない人物です。
🌕ではどうしてそんな高貴な人が、出雲とは遠い「大和」( 奈良 ) にいたのか?
国譲りの一件で「天孫族」との戦いに敗れた出雲の人々は、その後、そのまま出雲に留まる者、或いは出雲を離れ別の土地へ行く者とに分かれます。
大和地方は元々出雲と縁が深い場所 ( 所謂「領地」の様な存在 ) であり、神武天皇の東征前から「 出雲神族の一大拠点 」でした。
🌕古代大和地方と「出雲神族」との関係性を色濃く残しているものの一つに、「大神神社」( おおみわじんじゃ ) が有ります。( 奈良県桜井市 )
その歴史は悠久泰然としており、日本において最も古い神社の一つです。
こちらのお社、一般的な神社には必ずある「本殿」( ほんでん ) がありません。後ろに聳える「三輪山」( みわやま )。
この「三輪山」そのものが「本殿」、「御神体」なんです。
「富氏の伝承」で「出雲神族は【風葬】」と。
遺体を籠に入れ、山中に、三年ほど木に吊るす、そうです。つまり【山】と言う存在は【神の領域】、亡くなった人の御霊 ( みたま ) が宿る場所なんです。
これは「古神道」における「神奈備」( かんなび ) の原型です。
「神道」は「出雲」から多大な影響、思想を引き継いでいる【証】です。
更に、こちらに祀られている神が「出雲系の神々」なんです。
○主祀神
「大物主大神」( おおものぬしのおおかみ )
出雲の「大國主神」の別名です。
○配神
「大己貴神」( おおなむちのかみ )
こちらも「大國主神」の別名です。
「少彦名神」( すくなひこのなのかみ )
出雲系の神です。
🌸創建の年代は違いますが、先程の「神田明神」のご祀神と同じです。
この様に古代大和には「出雲神族」の痕跡が現在も残っています。
そしてここにも所謂「大型古墳」など存在してません。
で、その後、ナガスネ彦はどうなったか?
「日本書紀」では死んだ事に、「古事記」には、はっきりとは書かれてはいません。
ですが皆さん、ここにおいて注目するべき伝説が存在しています。
「ナガスネ彦は兄のアビ彦と共に【東北の津軽地方】に向かった」と。
皆さんここです❗ ここなんです❗
ここにおいて
「【出雲弁】と【東北弁】は似ている」との説が真実味を帯びてきます。
何も「ナガスネ彦」ではなくとも「出雲神族」の誰かが東北方面に向かえば「出雲弁を運ぶ、伝える」事となり、東北地方の言葉に影響を与えます。
この一件は十分に「根拠」になるのではないか、と思います。
○東北地方に伝わる「ナガスネ彦」伝説
吉田氏の著作「謎の津軽第二出雲王朝」に書かれている内容を要約させて頂きます。
1、古文書【 東日流外三郡誌 】( つがるそとさんぐんし ) に下記内容が記されている。
「神武天皇に敗れたナガスネ彦は津軽に逃れ、【アラバキ王国】を建てた。」
2、津軽「岩木山」の旧参道に鎮座する神社のほとんどは「出雲系の神々」を祀ってる。
3、青森県の津軽地方にある「五所川原」( ごしょがわら ) 市。ここ郷土史料の中に、下記の様な内容を記した文書がある。
「奥州の豪族【安倍氏】【安東氏】【秋田氏】などの始祖は【ナガスネ彦】である」と。
4、古文書【 先代旧事本紀大成経 】( せんだいくじほんぎたいせいきょう ) には、「塩竈の神は【ナガスネ彦】」と、はっきりと明記されいる。
更にナガスネ彦は「( 竈で ) 塩を焼き、それを民に施した ( ほどこした ) 」との記述もある。
🌻ひょっとしたらこれが「塩竈」( しお かま ) の名前の由来でしょうかね?
5、「塩竈神社」の別宮「志波彦神社」の祀神は「志波彦大神」とされているが、平安時代に書かれた当社の縁起文には、「岐神」 ( ふなとかみ ) 、つまり「【出雲の熊野大社】に祀られている【 クナトノ神 】の祠が、先に当地に立てられた 」との記述がある……等々。
「志波彦神社」の本来の祀神は、出雲「クナトノ大神」かもしれませんね。
🌕ナガスネ彦らは最初に津軽地方に向かい、そこで息を吹き替えし、その勢力を東北地方全域に拡めた様です。おそらくその一部は北関東地方にまで及んでいたのかも知れません。
私の出身地「栃木県」は、県内の神社で「出雲系の神々」を祀っている数の割合が「全国一」の高さです。
🌕そして更に「【出雲神族】と【東北人】との血脈」を受け継ぐ者達が、その後の日本に多大な影響を与えていきます。
⚪「表」に出ず「陰」から支える「出雲族」
時は平安時代。
頭領「阿弖流爲 ( アテルイ ) 」に率いられた東北の一族は、京都から東上してきた朝廷軍を率いる「坂上田村麻呂」( さかのうえのたむらまろ ) と対峙します。東北を基盤としていた「蝦夷」( えみし ) と呼ばれるその一族は、おそらくその血脈、「ナガスネ彦」からの出雲神族の血脈を引き継いでいる一族であろう、と思われます。
そして次に引き継いだのが、繁栄の都を築いた平泉「奥州藤原氏」です。
十三世紀、イタリアの商人「マルコ・ポーロ」の書いた「東方見聞録」( とうほうけんぶんろく ) に記された「黄金の国 ジパング」。これはこの「平泉」の事だと言われています。
また平泉から日本海側の「秋田湊」「酒田湊」を経由して、京の都へ、さらには大陸との貿易ルートを築き、東北地方、越後国を繁栄させます。
更に、その「奥州藤原氏」に仕えていた武将達。
のち源頼朝との戦いで滅ぼされたその武将達は、山形の酒田方面に逃れてそこで商人となり、「奥州藤原氏」が築いた「酒田湊」と大陸との日本海貿易を引き継ぎます。
その中から出てきたのが豪商「本間家」です。
🌸「出雲神族」は長い苦難の歴史の中で、自らが進んで「表」に出ていくと必ず敵対勢力 ( 天孫族 ) に痛い目に遭う、という経験から、あまり「表」に出ない傾向の様です。ですが「日本国」に無関心なわけではなく、陰に回って、後ろから支えます。それで世の中が助けられて来たのは事実です。
○酒田の豪商「本間家」
江戸時代、財政難に苦しんでいた米沢藩「上杉家」。
名君「上杉鷹山」( うえすぎようざん ) により、財政難は解決した事となっていますよね。
ですがそんな生ぬるいレベルではなかったのでしょう。
一つの「大名」の危機ですからね。「金額の大きさ」が「ケタ違い」かと。もし破産したら誰が領民の面倒をみるのでしょうか?「江戸幕府」でしょうか?
当時の幕府にそんな財政的余裕は有ったのでしょうかね?
以下は、飽くまで想像での話ですが。
困り果てた「上杉家」。
ならばどこからかの援助を請うため、家臣達は熟慮し、結果、大坂の大商人に頼み込んだのではないでしょうか。
ですがそこは「美味しい話ではない事」には興味を示さない大坂商人。
「すんまへん。今、忙しいもんで。どうもおおきに」
などと体よくあしわられたであろう上杉家。
ですがもう余裕がない状態。
あまりにも近所であるため、敬遠していた庄内酒田。
色々なひそひそ話、有らぬ話が出てくるのは「百も承知」で、最後に頼みの綱としたのが酒田の「本間家」であった、のではないでしょうか?
実際に、この危機を「陰」から救ったのが「本間家」。
裏側から資金を出し、援助や助言、所謂「経営コンサルタント」の役割を担いました。
そのお陰で「上杉家」は破産せずに、明治時代まで存続出来たわけです。
そして幕末。
戊辰戦争においては「薩長軍」相手に負け知らず、連戦連勝の「庄内藩軍」の活躍は、その当時の最新兵器を大量に購入出来た事に依るもの。それを援助したのも豪商「本間家」です。
「出雲族」と「東北」との関係を引き継いでいたこの名家は、その後も「陰」から「近代の日本」に貢献していた事を皆さんはご存知ですか?
「日本一の地主」と言われた「本間家」の財力は「並」ではありません。
そこに、近代化を成功させるためには「資金」が必要だと、心底痛感していた「薩長明治政府」。喉から手が出るほど「資金」が欲しいかった事でしょう。
戊辰戦争で庄内地方を任されたのは、薩摩「西郷隆盛 」( さいごうたかもり )。
この方が「降伏するなら手荒な事はしない」と提案、戦いを「何とか早くに」「何とか穏便に」終わらせようとしたのはそういう理由です。
明治のなった後、「明治天皇」が直々に「ご機嫌伺い」に庄内にまで来たほどです。
また代表例を一つ。
「蒸気機関車」、所謂「陸蒸気」( おかじょうき ) が東京の新橋~横浜間に開通したのは明治五年 ( 1872 ) でした。
この鉄道の開通に当たり、明治政府からの依頼を受け入れて 、その費用の半分以上❗を捻出したのは、この「本間家」です。
「蒸気機関車」の導入、線路の付設、駅舎の建設等々、すべて「日本初❗」です。( 一体、費用はいくら掛かったのデスカネ?😁 )
そして当時の「本間家当主」に、明治政府は「運輸大臣」の就任を要請しました。
ですがこの話、断ったそうです。
この一連の話、「表」には出て来ていません。
おそらく「明治政府」が自分等の立場上都合が悪いとして、後で「消した」のでしょうね。
これは出雲の祖神であった【クナトノ大神】が歴史から消された現象と同じです。
「表」に出ず「裏」から支える、これが「出雲神族の真骨頂❗」なんだと思います。
🌕ところで。
先程の話、「塩竈神社の元々の祀神は【ナガスネ彦】だ」と言う話が本当ならば、神社は途中で【祀る神様を替えた】という事になりますよね。
皆さんの中には「神社が自ら自分等の【祀神】を替えるなんて信じられない」と思う方がいるかと思います。ですが意外に多い事なんです。
長い歴史の中、神社も自分たちを守るため、存続するためには「時の権力者」に迎合 ( げいごう ) する必要が有ります。
世の中が「天孫族の時代」になっていく時に、いつまでも「敵側 ( 出雲族 ) の頭領」を祀っているのはあまりにも危険デス。
ですから【ご祀神】を替えた。
替えたからこそ「塩竈神社」はその後も存続し、更に「陸奥国一ノ宮」にまでなれた、のでしょうね。
⚪「私の先祖は侵略者の前で抗議の自殺をした」
話を富氏の話を載せた週刊誌に戻します。
この記事の中に、こんな記述が有ります。
……それまで穏やかに接していて頂いた富氏でしたが、ご一緒に「国譲り」の舞台である「稲佐浜」に来た時、それまでの表情が一変し、眉をつり上げながらこう言いました。
「ここへ来ると、血が逆流する。今から二千年前、ここで私の先祖が侵略者の前で、抗議の自殺をしたんだ。ここでだ、ここで…」……
🌕「侵略者」とは「天孫族」、つまり天皇の祖先。
「富家の伝承」はこの「天孫族」との長い闘争の歴史を語っている様です。
ですがこの伝承を世間に公表すれば「皇室批判」ともなり、「富家」、そして「出雲」のイメージが悪くなり、社会問題にも発展する可能性が有ります。
ですので「一子相伝」( いっしそうでん ) 、太古から秘かに富家の中だけで、それも「跡取りの一人だけ」に伝承されて来ました。
また逆に、長い歴史の中で富家の存在自体が危ぶまれる時期もあり、その度に「富」という家名を変えたほどです。その数、十一回。
⚪終わりに
正に苦難の歴史です。
皆さん、富氏の話、どう思いますか?
信じられますか?
少しでも興味を持たれた方は、直接本を手に取り、是非とも読んでみて下さい。
次回はもう一冊の復刻本「復原された古事記」を紹介させて頂きます。
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