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四十八文字の話『キ』 北関東人が出会った「奈良吉野町」より④ そして【北関東人について】

⚪では北関東はどうなのか?

神社関係者と思われる「その方」は私が「北関東」出身と聞いて「北関東が本来の日本人」と言いましたが、ではその根拠は何か?
話はいよいよ佳境に入ります。

○その方
「そして北関東に関してですが。
これについてもだいぶ前から私なりに調査、研究をしてきました。そしてこれはあくまでも私の見解になります。

北関東はおそらく『水戸学』( みとがく ) の影響が色濃く残っている地域である、と言うことです。その思想性、価値観や生活様式まで影響があると思います。それ以外に原因が見つからんのですわ。」


●水戸学                      【水戸学】というのは、江戸時代前期の水戸二代藩主「徳川光圀」( とくがわ みつくに ) 公が

『日本における古代からの網羅的で、総合的で本格的な【歴史書】を作りたい』


との発案によって、それこそ後に偉大な書物となる【大日本史】の編纂作業を始めます。
完成したのは明治時代に入ってからの明治三十九年 ( 1906 )です。
実に二百数十年❗の期間を要しました。



この編纂作業の過程において、水戸藩の学者 ( = 武士 ) 達が日本国中を廻り廻って集めた古文書、伝説などの情報を蓄積し、日本文化の基礎を成すものを探求しながら形成された学問、思想です。

🌸因みに以前ブログで述べた様に、TVなどの時代劇で放映されていた「水戸黄門」に出てくる「助さん」こと、本名「佐々木宗淳」( ささきそうじゅん ) は本物の水戸藩士です。この人物が江戸時代にこの吉野を訪れたのは、正に「大日本史」編纂のため調査だったと思われます。


天下の「御三家の水戸家」が興したものですから、江戸時代当時の大名達は勿論の事、下級武士でさえも気になる「書物」、「存在」であったでしょうね。
その後幕末の時代に至るまでの一連の出来事に多大な影響を与え、所謂「 倒幕派 ( 吉田松陰、西郷隆盛など ) 」の思想的根拠ともなりました。

なお、令和十三年 ( 2021) の大河ドラマ「青天を衝け」では、その「水戸学」を始めた「徳川光圀」公の後継となる水戸九代藩主「徳川斉昭」(とくがわ なりあき ) 公を竹中直人さんが、また「水戸学」の大家「藤田東湖」(ふじた とうこ ) を渡辺いっけいさんが演じていました。


藤田東湖は正に水戸学における「レジェンド」であり、この方の詠んだ歌に「 文天祥 ( ぶんてんしょう ) の正氣 ( せいき ) の歌に和す」、と言うものが有ります。                      

『天地正大の氣 粋然として神州にあつまる ~』

で始まる、所謂「正氣 ( せいき ) の歌」は、幕末の志士達の気持ちを鼓舞させたのは勿論、その後の明治~昭和時代の軍人達にも詠われた「歌」です。 


⚪『池田戦車連隊』                 少し話がそれます。 

大東亜戦争が昭和二十年 ( 1945 ) の八月十五日終結し ( 正式には九月二日 )、戦争が 終わりました。
ですが戦闘止んだ後にも拘わらず、当時の日本領土である北海道北東部に連なる「千島列島」に不当に攻めこんで来たのが旧ソ連軍 。
降伏した国に対する更なる侵略行為は明らかな【国際法違反】です❗。
この旧ソ連軍は終戦で混乱している日本に乗じての行為であり、その「目的」は千島列島最北端の占守島 ( しゅむしゅとう ) から南下して行き、そして最終的に

「北海道を占領する事❗」だったのです。



当時のソ連指導者「スターリン」の野望は
北海道の北半分を占領する事でした。


千島列島に駐屯していた日本軍はすでに武装解除を始めていましたが事の異変に気付き、列島最北端「占守島」において南下して来たソ連軍に対し、頑強に立ち向かい大損害を与えた部隊がいた事、ご存知ですか?               

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千島列島 「占守島」

ソ連は歴史的に観ても、一度奪った領土は決して手放しません。今でも「北方領土」が返還されてない事実を考慮するば皆さん、分かりますよね。
その狙いを阻み、命を掛けて抵抗し、列島南下を防いだ事により「北海道」を守りきった部隊を『池田戦車連隊』といいます。

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連隊長    池田末男


北海道が現在、日本領土であるのは正にこの部隊の奮闘のおかげなんです。 


そして、この部隊が「占守島」に上陸してきたソ連軍を迎え撃つため出撃する正にその時、自分達を鼓舞するために歌ったのが

藤田東湖の『正氣の歌』でした。

池田少将率いる戦車連隊の隊員達の気持ちは
正に「幕末の志士達」と同じ、だったのでしょうね。


雑誌「歴史街道」


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東京都台東区隅田公園にある「正氣の歌」の碑


話を戻させて頂きたく。
確かに北関東、群馬県 ~ 栃木県 ~ 茨城県はお隣り同士ですから昔から交友関係は盛んです。

更に「水戸学」に関する例を挙げれば
江戸後期の寛政年間 (1789~1801) に「寛政の三奇人」( かんせいのさんきじん ) と謳われた偉人達がいました。その内の二人が北関東の人物です。


⚪尊皇思想家「高山彦九郎 ( たかやま ひこくろう )」
( 上野国  現在の群馬県出身 )
⚪儒学者「蒲生君平 ( がもう くんぺい ) 」
( 下野国  現在の栃木県出身 )

彼ら二人は共に、江戸後期の「水戸学」の重鎮であった「藤田幽谷」( ふじたゆうこく: 先ほどの藤田東湖の父 ) と交友が有りました。

また、「桜田門外ノ変」の二年後、文久二年 ( 1862 ) に起きた当時の老中である「安藤信正」を負傷させた事件「坂下門外ノ変」を計画、実行したのは宇都宮藩士と水戸藩士であった、等々。


神社関係者の方と話してたその当時、私は「水戸学」に関しては幕末期の世の中にかなりの影響を与えた「尊皇論」を述べている思想、とぐらいにしか理解してませんでした  ので、あまり良い反応は出来ませんでした。      ですが、「北関東」の栃木から見ると、遥かに遠い奈良県の吉野町にいらっしゃいます、それも由緒有る神社の方が


「北関東が本物の日本」


と思って頂いている事自体、とても驚き、大変嬉しく感じました。その原因が「水戸学」だろうが何であろうが、そんなのはその時の私にはまったく関係ありませんでした。
そしてこの言葉を聞いた時、私自身も改めて身を引き締めなければ❗と思った次第です。

以上、まったく思いがけく、とても印象に残る出来事でした。

( 終わり )



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