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「スカ論考」とその再考

「スカ論考」

スカ論考(一)

宮沢章夫は「東京大学「ノイズ文化論」講義」(2007年、白夜書房)の「まえがき」で、90年代になり80年代のサブカルは全て「スカだった」ということにされてしまったということを書いている。

「九十年代に入ってすぐ「スカだった」という言葉に代表されるような、八十年代を否定する論調が流布したが、その一部に納得しつつも、それをひとまとめに「スカ」だとすることには異和を感じていた。八十年代が現在にもたらした肯定面があったはずだ。そこに「ピテカン的なるもの」があった。それは健全な批評性として存在していたと私はいまでも考える。なぜなら、あのバブル期の「ジュリアナ東京」に代表されるような醜悪な、唾棄すべき〈クラブ〉とはまったく無縁に、それはきわめて先進的であり、ひどく浅薄な表現を許してもらえるなら、かっこよかったとしか言いようがないからだ。」

「東京大学「ノイズ文化論」講義」

ここで文字通りに80年代を「スカだった」ことにすることに対する、ひとつのファクターとなる契機として、槍玉に挙げられているのが、一般的には広くジュリ扇で知られる「ジュリアナ東京」である。

「九十年代のバブル期にひどくつまらない「クラブカルチャー」として大衆化したと考えられる。――私はそれをまったく知らないが――「ジュリアナ東京」をはじめとする醜悪な「文化」として現象した。」

「東京大学「ノイズ文化論」講義」

つまり、醜悪なるジュリアナ東京的なるものたちが、後から後からぶいぶいと押し寄せてきて、原宿に出現した最初期の東京のクラブ・カルチャーをはじめとして、80年代に生み出された色々なかっこいいものを、全てスカにしてダメにしてしまったということなのである。

90年代前半にバブル景気が(ほぼ完全に)崩壊し、その荒んだ社会の風景の中で、馬鹿騒ぎのように過ぎ去っていった80年代に、目まぐるしく移り変わっていったトレンドの数々は、至極乱暴にもひとまとめにされて時代の〈あだ花〉(のようなもの)にしてしまう風潮は、あの当時確かにあった。

だが、宮沢章夫は実際に原宿という場いた当事者のひとりとして(敢えて)「ピテカン的なるもの」だけは違っていたというのである。ピテカンとは、82年に原宿の明治通沿いにオープンした、正式には「ピテカントロプス・エレクトス」という名のニューウェイヴ・ディスコのことである。
宮沢章夫も「日本で最初にできた〈クラブ〉」と書いているが、今から考えるとピテカンは、東京におけるポスト・ディスコ文化としての「クラブカルチャー」の発祥の地ともいえるような場所であった。
個人的には、ピテカンよりも、その後にできた「クラブD」のほうにより親近感を抱くことができるのだけれど。あの頃にピテカンというと、当時の自分にとっては、中学生の頃から毎月(250円で)買って読んでいた「宝島」に連載されていた、中森明夫の「東京トンガリキッズ」によく出てくる、あのピテカンでしかなかったのである(つまり、ピテカンは、まだわたしが坊主頭の中学生だった頃に、すでに閉店してしまっていたのである)。

いわゆる「ピテカン的なるもの」も、80年代に(主に地下で)起きた諸々のことも、全てが全てスカではなかったのではないか。特に、原宿の「ピテカン的なるもの」が生まれた界隈というのは、何か新しい刺激的なことが起きている場所という印象が強くあった。埼玉でひとり「宝島」を愛読していた中学生にも、そういったものははっきりと感じられていたのである。
とにかく、あの頃の原宿の表参道や竹下通りやその裏通りのあたりには、まさに時代の最先端という雰囲気がむんむんしていたのである。原宿駅を出て少し歩くと、何とも言えない雰囲気の原宿セントラルアパートが、すぐに見えてくる。ただそれだけで何か胸が高鳴るものがあったのである。ここは何かすごい所だ、と。
あの特別なオーラがみなぎる街のムードは、決してスカなどではなく、そこには80年代(前半期)の若者文化(トンガリキッズの文化)の肯定面が凝縮されていたとさえいえるであろう。でないと、わたしが(一応)輝かしい10代を過ごした80年代は、すっぽりと意味のない唾棄すべき時代のあだ花になってしまうような気がしてならないのだ。

だがしかし、あれはスカではなかったけれども、どこか「スカしてる」感じは、実際していたように思う。ダサいダサいといわれ続けていた埼玉に住む中学生には、「ピテカン的なるもの」はキラキラした都会の中心に位置するスカした事象のひとつであるように見えていたのである(宮沢章夫は「ピテカン的なるもの」は、当時の市民社会からつま弾きにされて排除された時代のノイズであったという。だからこそ、眩しいくらいに輝いてかっこっよかったのだ、と)。
そして、今から思うと、「日本で最初にできた〈クラブ〉」とされるピテカンであるが、時代の最先端であるだけがクラブの条件ではなく、もっともっと訳の分からないものたちがダンスフロアに集まるような場所でないと、まだまだ本当のアンダーグラウンドのクラブと呼べるようなものだとはいえなかったのではないかと思えてしまう部分もあるのである。
それは、とても限定的で、やや閉鎖的な性格をもち、その近くにいないものには、微かにしか情報が漏れ伝わってこないようなものであった。その「スカ」した印象は、そういった部分からきている。一般的な市民社会から隠れて、例えば地下深くなどに潜り込むなどして秘密の場所であろうとすることは、創始期のクラブにとっては何も珍しいことではない。ニューヨークのロフトもパラダイス・ガラージも、基本的には会員制のゲイ・クラブであったのだから。
だが、やはり「ピテカン的なるもの」というのは、本当の意味でのアンダーグラウンドのクラブのダンスフロアでは、まだなかったのかも知れないと思うのである。東京のとんがったオシャレな文化の最先端というイメージが、どこか強くあったし、そのオシャレさゆえに妙に敷居も高かったのではないかと、すごく思えるからである。
そのため、本当の意味での市民社会からつま弾きにされて排除された時代のノイズたちたるダンサーを広く受け入れるという本来のクラブ的な場所の姿勢からは、ひどく遠くもあったのではなかろうか。「ピテカン的なるもの」においては、かっこよくオシャレであることが、何よりも最優先されていたような感じがある。それだけ、原宿の表参道あたりのカルチャーは、かなりまだ当時の東京のストリート・カルチャーの中にあっても異質なものてあったのである(突き抜けたかっこよさゆえにノイズや異形のものとして一般的な市民社会のレヴェルからは隔絶されていたということだろうか)。
そうした当時の原宿の局地的な特別さを、宮沢章夫は、ダサい退屈な時代(世間様/市民社会)からかっこよく飛び抜けた場所であり空間であると考えていたのであろう。そこでは、ニューウェイヴの側にあることは、フツーの人々とは異なるものであることであり、オルタナティヴでかっこいいもの/おしゃれなものであった。

しかしながら、80年代のニューウェイヴの世界には、そうした時代を突き抜けたかっこよさとは正反対の、まったくオシャレではないタイプの、救いようもなくネクラなトライブも存在していたのである。周りに誰も同じような音楽を聴いている人がいないので、ひとりでひっそりと(それを誰かに知らせたり報告する必要も必然性もないので)誰にも知られずに、セックス・ギャング・チルドレンやバウハウスやシスターズ・オブ・マーシー、日本のインディーズのオート・モッドやマダム・エドワルダなどのポジパンやダーク・サイケな音楽を、繰り返しカセットテープで聴き込むだけのオタクな層が存在したのである。
その深い谷底のような地点から眺めると、噂には聞こえてきていたピテカン周辺の所謂ギョーカイの匂いのする原宿のシーンのことなどは、どこかとても遠いかけ離れた世界のことのように感じられたものである。それらは、明らかにネクラなオタクの目には、とてつもなく眩し過ぎる感じのする、どこかスカしているムーヴメントのように映っていたのである。

80年代の半ば頃、よくひとりで原宿あたりまで出かけていた。特に何か強くそこでやりたいことがあったわけではなかったが、学校が休みの日などは昼ぐらいからふらりと電車に乗って、気がつくと原宿の駅に降り立っていた。まずはシカゴで古着を物色して、スマッシュなどのパンクやニューウェイヴ関係の雑貨を扱う店を覗き見してぶらぶら歩き、宮下公園か代々木の体育館のあたりで腰掛けて、人間観察をしながらゆっくりタバコを一服して戻ってくる。
埼玉の真ん中たりから出かけていって、それだけでも原宿を満喫した気分になれた。お上りさんの少年が、原宿の表層を(その一角を)プカプカ浮いて漂っていただけだったのかも知れない。それでも、そこにいるだけで何か意味があると思わせるような場所であったのである。あの当時の原宿の表参道や明治通沿い、そして代々木公園の界隈は。
当時、わたしと同じように、そこに何か特別な匂いを嗅ぎとっていた若者が、街の中をずっとゾロゾロと歩き回っていた。原宿駅の改札からは、引っ切りなしに人が溢れ出してきていて、その人の波は次から次へと原宿の街へと飲み込まれていった。
また、原宿から新宿あたりまで、意味もなく歩くことがよくあった。これも何かをするわけでもなく。ただ歩いただけであった。明治神宮の中を突っ切ってゆくこともあれば、千駄ヶ谷の方までウロウロ歩いてゆくこともあった(知らない道をさまよい歩いて神宮球場のあたりに出て千駄ヶ谷経由で新宿に辿り着く)。
そして、新宿に着いたらあちこち回ってレコードを漁ったりした。なけなしの財布の中味を電車賃に使うのがもったいないと感じていたところもあったのだろう。飲んだり食べたりよりも、少しでもレコード代に使いたい時期でもあったのである。そして、それだけ時間も体力も有り余っていたということでもあった。なぜか、暇だけは、嫌になるほどあった。だからもう、とにかくグルグルグルグルいっぱい歩き回った。
ただ、やはり原宿という街は、誰でもとてもディープなところまで簡単にズルズルと降りてゆけるような新宿の街の雰囲気と比べると、かなり異質なものがあったように思われる。そこは一歩でも深く踏み込むと、全く表層とは違う世界が広がっているような街であった。服飾専門学校的な匂いや芸大的な匂いが強くしていたし、それなりの属性のものでないと受け入れないようなムードが、すごく漂ってもいた。
だから、わたしたちは原宿の表層に顕れ出していた分かりやすい原宿っぽさのようなものをつまみ食いするように味わいながら、そこにプカプカと漂っていたのである。ネクラなニューウェイヴ少年の目には、原宿はあまりにもスノッブな街であるように見えてもいた。

90年代の半ば頃、キング・ストリート・サウンズのヒサ石岡社長に用事を頼まれて、原宿のデザイン事務所(タイクーン・グラフィックス)に行ったことがあった。神宮前の裏原的な佇まいのマンションの一室に、ちょっと迷子になりかけながら何とか辿り着いたのだが、あのあたりの細道を教えられた住所を探しながら歩き回っているだけでも、恐ろしく場違いなところにきてしまったように感じられたものであった。同じクラブ・シーンに関係しているものであるはずなのに、やはり何かが物凄く違っていた。
キング・ストリート・サウンズからのリリース作品のジャケットのデザインかプロモーション用のポスターのデータを受け取りにいっただけなのだが、とてつもなく恐縮しまくっていたことを覚えている。おそらく、向こうの人からしてみても、いかにも田舎臭く野暮ったい場違いな若者がオフィスに闖入してきたと思ったことであろう。
その頃のぼくはといえば、パンク~ニューウェイヴ崩れのネオ・サイケとオタクが入り混じったような、よくいえばシアトルあたりで話題のグランジとも受け取れるような、要するに全くオシャレっ気のないむさ苦しい服装ばかりしていたのである。足元はいつだって、踵のすり減った汚れて傷だらけのドクター・マーティンであった(街中を歩き回るには、これが最良の靴だと10代の頃からずっと思い込んでいた)。

ジュリアナ東京的なるものという宮沢章夫もクラブ文化の文脈においてまったく肯定的な意味を見いだすことのできないもののまさに対極に、芝浦のゴールドがあった。そんなゴールドにも、オシャレなファッションで決めたスカしている佇まいの人々は、やはり結構来ていた。そして、ちょっとした有名人などは、これ見よがしに取り巻きの連中と椅子に座り込んだりして、薄暗いダンスフロアで小汚いなりの子供たちがタコ踊りや馬鹿騒ぎをしているのを、どこか突き放すようにぼんやりと眺めていた。
スカした態度や身振りを必要とすることがほとんどない、オシャレであることに基本的にあまり価値のない、アンダーグラウンドのクラブという場所や空間に対して、どう対応するかで、90年代のカルチャーというものへの距離感や接し方も変わっていたのではなかろうか。ファッションや外見を作り込みめかし込み特別なものとなろうとすることに、もはや何の意味も見出さない(作り込んだりめかし込んだりするほどの余裕がない)ガキの集まりの乱痴気騒ぎが(アンダーグラウンドの)クラブであり(ディスコのダンスフロアとは異なる)ダンスフロアだと感じた人々は、そこから早々に離れて(「噂に聞いていたゴールドというクラブに行ってみたけど「スカだった」」と口々に言いながら)もう少し居心地のよい湾岸エリアのMZA有明やインクスティック芝浦、六本木のヴェルファーレなどのハイソなディスコやライヴハウス、DJバーの流れへと流れていったのではなかろうか。
そうした(アンダーグラウンド的な)クラブのダンスフロアには、いわゆる「ピテカン的なるもの」やジュリアナ東京的なるものとはやや流れの異なる、ロフト的またはガラージ的なるものともいえるであろう日本の/東京のクラブの文化における新しい何かがあった。そこではスカしているスカしていないの二元論にとらわれていたのではもはや何も始まらないことが暗黙のうちに了解されていたし、根本的にスカすスカさないという態度や身振りとは無縁でいられる場所であるからこそ、そこから始まる新しい何かが生じていたということだったのではなかろうか。

80年代はスカだったという言説は、あの頃に(地上や地下の)オタクにも「ピテカン的なるもの」にもなれなかった一般的市民社会(世間様)による反転攻勢が拡大してゆくことに従って、ようやくバブル崩壊後の90年代に入って芽生えはじめた過ぎ去った前時代的なものに対するルサンチマンが言わしめていたものであったのではなかろうか。そして、原宿界隈で起きていたことがどこかスカしている文化に見えてしまったネクラなニューウェイヴ少年たちにも、同様の少し捻れたルサンチマンは抱えられていた。
だが、その捻れた怨恨は80年代の全てをスカだったことにするようなことはなかったのである。間違いなく80年代はネクラがネクラであることを許容した初めての時代であり、そこにこそその後の文化にもたらした肯定面を見出すことも出来ていた。そうしたオルタナティヴな価値観や生の様式を育み培ったところに、80年代という時代のあだ花じみた大いなる(隠された/明かしえぬ)意味があったのだともいえる。
また、そうしたオルタナティヴたちは、自分とは相容れないスノッブでスカしているものを殊更に攻撃対象とすることもなかった。それらは、ただただ根本的にスカしているところのない/極めてオープンに誰でも受け入れることのできる/世間様から見向きもされないつま弾きや除け者にされているようなものたち(時代のノイズ)の吹き溜まり、そのものであるアンダーグラウンドのクラブの文化へと向かうムーヴメントであったのである。かつてロフトやパラダイス・ガラージといったニューヨークのダウンタウンのクラブのダンスフロアに、一般的な市民社会からは除け者にされていたゲイ・ダンサーたちが引き寄せられていったように。
そして、当時の東京の街においてロフト的なるものやガラージ的なるものとしてのクラブの機能を果たしていたのが、曲が単調で際立つドラマ性がなく何がよいのか分からないとやや白眼視されていたところもあった、ハウス・ミュージックというダンス音楽を、目には見えない時代のノイズによって要請された信念をもって、地下でめげずに鳴らし続けていたダンスフロアであった。

70年代や80年代の日本のディスコにも、元々はそういう傾向にあったものもあったのだろうが、その流れの中から登場した初期の東京のクラブ(つまり「ピテカン的なるもの」)は、どこか自らで(日本のディスコ的なものからも)自らを聖別するようなスカしているところが多分にあったのである。それは、それがパリやロンドンなどのヨーロッパの都市で業界人の社交場として機能していたディスコ(ディスコティーク)の流れを汲んでいるものだったからなのであろうか(レコードをプレイしてダンスフロアで人々をダンスさせるディスコという業態は、第二次大戦後のパリの街に誕生した)。ニューヨークのダウンタウンのアンダーグラウンド・クラブの文化も、アップタウンのスタジオ54やパラディアムといったスノビズムが香るセレブの社交場としてのラグジュアリーな巨大ディスコの華やかさに対するネガとして出現してきた背景をもつ。
原宿という街の文化と密接に結びつきオシャレであることが重視されていた「ピテカン的なるもの」とは、若きファッション・デザイナー(その予備軍としての服飾専門学校生)や尖ったアーティストたちが挙って訪れる遊び場でもあった。これは、かなり象徴的なポイントなのではなかろうか。そして、そうした「ピテカン的なるもの」の後を受けて、東京という街においてもそうした伝統的なドメスティックなディスコのカルチャー(当時で言えばサーファー・ディスコ)とは対極に位置するような、まさにニューウェイヴでオルタナティヴな、特別でありつつオープンな、ロフト、ギャラリー、ウェアハウス、パラダイス・ガラージなどの流れを汲むアンダーグラウンド・クラブというものが、少しずつ80年代末あたりから登場してくることになる。
だが、スカであり全てをスカにする「クラブカルチャー」は、80年代にスカしていることで特別な場所や文化となりえていたものや、90年代という時代に「健全な批評性として存在していた」アンダーグラウンド・クラブを、いつしか思いきり踏みつぶして、まるで最初からずっとそこにいたかのように我が物顔で、その場所を占有するようになる。かつて一般的な市民社会や世間様とパルチザンとの間で激しい文化的な闘争が行なわれていた古戦場には、もはや見る影すらない。

スカ論考(二)

2017年11月20日の朝日新聞の夕刊に、「ここから生まれる ダンス音楽」という見出しのついた記事が掲載されていた。これは、11月30日から12月2日にかけて渋谷を舞台に開催される第二回目の国際会議「Tokyo Dance Music Event」(以下、TDME)についての紹介文とともに、現在のエレクトロニック・ダンス・ミュージック(EDM)のブームやクラブ・カルチャーの今と未来についてをザッと概観するような形の小特集記事であった。
この記事の中核をなしているのが、国内外から注目を集めているTDMEに、その立ち上げの段階から関わっているソニー・ミュージックエンタテインメントのローレンス・ローズ・コーカーさんの発言である。このコーカーさんは、いかにもソニー・ミュージックエンタテインメント的な発言をする人なのだが、そのダンス音楽やクラブ文化というものの捉え方にはちょっと気になる部分が多々見受けられる。
まず、「楽曲制作手法もロックやポップスに取り入れられており、ダンス音楽の影響力は高まっている」と述べられているのだが、これはいつの時代の話をしているのだろうか。今さらジャンルやスタイルを越境しクロスオーヴァーすることを強調するということに、どれほどの意味があるのかは判然としない。
エレクトロニック・サウンドの使用が、音楽制作の主流となっている現状を考えれば様々な要素が混じりあうことは当然のことであり、もはや常識の範囲内のことなのではなかろうか。それがダンス音楽の影響力の高まりなのか、もしくはダンス音楽の普遍化・敷衍化にともなうジャンルやスタイルの解体や破壊であるのかは、様々な見方があり、一考を要することろであると思われるが。
ダンス音楽の要素を取り入れたロックやポップスの制作ということは、これまでさんざん行なわれてきたことであるし、特に目新しいことでも今ここで殊更に「ここから生まれる」と強調するようなことでもないのではなかろうか。逆に、TDMEというものが、かつてのセカンド・サマー・オブ・ラヴの熱を全く感じることなく今ここに立ち上がっているのではないかと、少々いぶかしくも思えてきてしまう。
また、記事の中には「他ジャンルより、ダンス音楽は言葉の障壁が低く「国境を超えやすい面がある」と語る」という部分もある。これなども、いつの話をしているのだろうかとつくづく思わざるをえない。そんなことは相当前からさんざん言われ続けていることであるのだから。
80年代後半に世界的なアシッド・ハウスのブームが起きたとき、その分裂症気味にサンプリング・ネタをズタズタに引き裂いたフレーズがグルグルと駆け巡るエレクトロニックな反復グルーヴを耳にして、ビート中心の音楽と言語や言葉が完全に決別したことを感じ取り、刺激的なハウスのサウンドやビートだけで世界中のダンスフロアと交感し共感できると感じたダンサーたちは非常に多くいたと思うのだが。今から30年以上も前からダンス音楽/クラブ音楽は、世界の共通言語となっていたのではなかったか。
これは、全くセカンド・サマー・オブ・ラヴを知らない新しい世代(EDM世代)が、TDMEという国際的なイヴェントの中心となってムーヴメントを引っ張っていっているということなのだろうか(それはそれで、喜ばしいことだが)。もしくは、かつては胡散臭いアンダーグラウンドなものを無視していような人々が、今ごろになってその重要性に遅ればせながらも気がついて要点だけかいつまんで拾い上げてきてダンス文化的なものを持ち上げてみせているだけなのであろうか。
今までにあったものは何であったのか。「ここから生まれる」と言うことは、今までにあった全てはまだ何かが生まれる前の遥か遠い記憶でしかなかったということなのか。
また、TDMEの立ち上げについて語られる際に「日本でも昨年、風営法改正で深夜のダンス営業が解禁された。」という発言があるが、これなども法の整備というものをひとつの大きな契機(起点)としてとらえているということの紛れもない表れなのであろう。それによって、初めてTDMEのような国際的なイヴェントが開催可能となったことを強調したいのである。
ただし、深夜のダンス営業/クラブ営業の解禁とダンス音楽文化の発展や成長には、いかなる関連性があるというのだろうか。それが違法・非適法であった時代と比しても、ポジティヴな面ばかりが「ここから生まれる」という訳ではないのではなかろうか(裏を返せば、違法・非適法であった時代にもダンス音楽文化の発展や成長にとってポジティヴな面は多々あったのではないか)。
法改正とEDMブームの相乗効果で、爆発的に市場が拡大し、初めてこのダンス音楽文化の後進国である日本においても輝かしい未来が開けてきたというような語りが、当たり前のようになされている。風営法という国会で審議され承認された法律の下で、深夜のダンス営業が解禁されて初めて(国家が公認した)ダンス音楽文化というものが新たに誕生するということなのか。解禁される前は何だったのか。適法なるものではないと、それは国民が認めるところの文化とはなりえないのであろうか。
法律の下にあって初めて生成し発展できるものなどは、やはりもはや生きた文化というものがもつ得体の知れないダイナミズムを端っから喪失してしまっているスカなのではなかろうか。法の下での健全さや平等を土台として、今ここで新しいスカが生み出されたとしても、それがどこかに辿り着くようなことはまずないであろう。
アンダーグラウンドのクラブのダンスフロアという薄暗くジメジメしたところで生まれたダンス音楽の文化というものは、国際会議のような場で話し合えるような建設的で生産的な(ノイズを排除した美しい国の)文化の未来などではなくて、もっともっと無意味でバカバカしい一瞬の輝き(の純粋持続)にこそ賭けられて然るべき類いのものなのではないだろうか。

スカ論考(三)

今から20年以上前も97年の春に近田春夫は電気グルーヴ「Shangri-La」のCDシングル評において、このようなことを書いている。「テクノはそもそもハウスから派生した。ハウスのルーツはDISCOである。/そんなことは誰でも知っている。」(『考えるヒット』文春文庫)と。ただし、近田はこの楽曲で聴くことのできる「イントロから終わりまでとだえることのないストリングスや、フルートの音の使い方など」が「キチンとDISCOのマナーにのっとって」いる本気度と完成度の高いサウンドを、メンバーのピエール瀧から「とにかく自信作です。聴いてください」と言われて直接手渡されたサンプル・カセットで聴いたせいか、完全に電気グルーヴが全てを飲み込んだ上で(一からきっちりと)制作しているものだと思い込んでしまっているような節がある。CD評では、一度たりとも元ネタであるベブ・シルヴェッティの「Spring Rain」について触れられることはない。
しかし、近田春夫は、その後しばらくしてから「Shangri-La」に元ネタが存在していることに思い当たる。マスターカッツ・シリーズのコンピレーション・アルバム『Classic Salsoul Mastercuts Volume 2』で「Spring Rain」を聴いていたことを(当時のマネージャーからの助けを借りて)思い出すのである。そして、その事の顛末を広末涼子のCDシングル評の冒頭部分を使ってあれこれとおもしろおかしく書いている。それによると、シルヴェッティの「Spring Rain」は「イントロがダサダサのピアノのリズムで始まるんで、いつもとばしてた曲」だというのである。どうやら、近田はあまりサルソウルの(ベタでありながらも先鋭的な)ディスコは熱心に聴いてはいなかったのではないか。それぞれのリリースをマニアックに追っていたというよりは、だいぶ時間が経ってからマスターカッツのコンピレーション盤でサラッと聴き返すぐらいの、軽くチェックするぐらいの聴き方であったのであろう。
少なくともベブ・シルヴェッティの「Spring Rain」に関しては、それが世界的にヒットしていた70年代半ばのディスコ黎明期には、あまり熱心に聴いていなかったのだと思われる。75年にスペインのヒスパヴォックスやフランスのポリドールからシングル盤でリリースされ話題となり、その翌年にニューヨークのサルソウルがライセンス契約して12インチ・シングル盤で再リリースするほどのヒット作であったはずなのだが。まだ、インタネットもユーチューブもなかった時代であるから、縁遠い音楽を耳にする機会というのはほとんどないのが当たり前といえば当たり前なことではあったのだろうけれど。
さらにいえば、90年代半ばにシカゴのカジュアルやリリーフ、ニューヨークのヘンリー・ストリートなどのレーベルを中心に盛り上がりをみせた、過去のディスコ・ヒットをモロに元ネタに使って大胆にそのグルーヴをループさせたディスコ・リコンストラクションやリコンストラクテッド・ハウスの作風(94年、ケニー“ドープ”ゴンザレスがバケットヘッズ名義でシカゴの「Street Player」を元ネタに使った「The Bomb! (These Sounds Fall Into My Mind)」を大ヒットさせている)を、電気グルーヴの「Shangri-La」がキッチリと踏襲してみせているという芸当に直感的に気づけなかった点も実は大きい。
これもまた、まだインターネットは黎明期でユーチューブもなかった時代であるから仕方がないといえば仕方がないのかもしれないといったら、それまでなのかもしれないが。誰でも知っていることだって、時間が経てばすっかり忘れ去られてしまうことがある。しかし、うっかり忘れてしまった誰でも知っていたことも、すっかり忘れ去られてしまった誰でも知っていたことも、それを何もなかったことにしてしまうことは決してできないのである。それを覚えている人はまだどこかにいるのだろうし、それがそこにあったという記録は様々な形(例えば、12インチ・シングル盤のレコードで)で残されているであろうから。かつて誰かが知っていたことは、すっかり忘れ去られてしまったとしても、誰かに思い出されるか新たに知られるかして、いつまでも今ここに残ってゆくことになる。
近田春夫も「Shangri-La」のCD評を書き終えた後(そして雑誌連載で発表された後)に「Spring Rain」のことを思い出した。原稿が活字になってしまった後では、もはや時すでに遅しであったけれど。ただし、電気グルーヴの「Shangri-La」がプレイされるたびに、もはやベブ・シルヴェッティの「Spring Rain」そのものはすっかり忘れ去られたディスコ・ヒットであったとしても、それはもう何度も何度も繰り返し決してなかったことにされることはなくなるということでもあるのである。

(2010年代後半)

「論考」再考

宮沢章夫の死

2022年9月12日、宮沢章夫が他界した。死因は、うっ血性心不全。 まだ65歳だった。
突然の訃報であった。文字通りに、突然のことであった。本当に、不意に宮沢章夫は、この世界からいなくなってしまったのである。その死を報じるニュース記事には、故人の肩書きに劇作家や演出家や作家とあったが、個人的にはどちらかというと「東京大学「80年代地下文化論」講義」の人であった。講義の講師というか、おもしろおかしくディープに八十年代地下文化を語る語り部的な印象が強い。

かつて、宮沢章夫の「80年代地下文化論」か「ノイズ文化論」について、ちょっとした文章を書いたことを思い出した。その時に思ったことを、ぱぱっと書いて、ずっとそのままにしてしまっていたようである。つまり、あの書籍になった講義の中で、宮沢章夫が「スカ」発言をしていたことに対して、それについてあれこれと自分なりに考えてみたことを「スカ論考」として書いていたのであった。
ずっと、ほったらかしにしていた「スカ論考」を、久しぶりにちゃんと読み返してみた。自分でも、読んでわかるような、わからないような、何ともへんてこりんな一文であった。まず、何とも支離滅裂で、頓珍漢なのである。宮沢章夫の講義のことについては、冒頭の方だけで触れられていて、一応は全体の要旨のベースにはされているようではある。しかし、実際には、その後に続いているのは自分の体験や考えについてだらだらと書いたパートであり、「論考」の後半は、さらにそれがあっちへこっちへ拡散していってしまう。そして、とっ散らかったままで終わっている。
一応、何か新しいものが派生して、それがスカにされてゆく現象のようなものに触れているが、ちょっとわかりにくい。その上にまた、わからない展開があって、ごちゃごちゃしてきて、さらに内容がわかりづらくなってしまうのだ。自分なりに振り返って、読み返してみても、これは結構わかりにくい。
かなりすっちゃかめっちゃかな文であるが、宮沢章夫の発言に倣って、全てが全てスカではないということをまずは言い、しかしながら殆どすべてのものはスカにされてしまうのだから、そういう全てをスカにしてしまうものは実は至る所に存在しているものなのである、ということを述べようとしているのだろうけれど、なかなかそれがダイレクトには伝わってこない。
それにまた、宮沢章夫本人はもはや開き直るように全てスカだったと宣言しているのにも関わらず、ここでこのような論を進めていることもまた、非常に虚しい試みであるようにも感じられる。

この五十年ほどを生きてきて、そこそこ物心がついてからも、もう四十年ぐらいが経った。だがしかし、よく考えてみると、何か本当に新しいものというのは、この間に何かあったのだろうか。そこにある何もかもを、全て新しく変えてしまうような、本当に新しいものは、何かあったであろうか。
たぶん、そんなものは、何ひとつ無かったのだろう。そんな全てを変えてしまうような、ばりばりに新しくてかっこいいものが無かったからこそ、いまだにわれわれの生活は、こんな風に理不尽や不条理に満ちた旧態依然としたもののままなのではないか。何か決してカスにもスカにもならないような、すごくかっこよくて全く新しいものが誕生していたならば、もっと違った輝かしい二十一世紀を今われわれは生きているのではなかろうか。

九十年代以降、世界は大きく変わった。携帯電話が出てきて、パソコンを電話線に繋いだインターネットが爆発的に広まり、その両者が組み合わさってスマートフォンが出現した。それらは、瞬く間に普及して、人間の生活そのものを、それまでとは極めて大きく変えてしまった。だが、それは本当に何かが根本的に変わったということなのだろうか。ただただ、それまで以前には、何だかちょっと不便だったことが、ほんの少しだけ技術の進歩によって格段に便利になったというだけのことなのではないか。
最初は光り輝くように革新的であったものであっても、段々と人々の生活の中に溶け込んで行くに従って、ごくごく当たり前にいつもそこにあるものになってゆく。新しさなんていうものは、すぐにスカになってしまうのだ。そういう物事が変化してゆく過程を、われわれはこの数十年間に何度も何度も繰り返して見てきただけなのではなかろうか。何にも大きく変わってはいない。ただ、少しずつ便利なものが世の中に増えていっただけなのである。

最初は、とても尖っていたものも、それが次第に話題になり、段々と広まってゆき、その周りに群がる人が多くなってきて、そのうちに普通の人でも普通に使用したり扱えるようなものになってゆく。とても当たり前にいつもそこにあって、かつてのどこか限定的で特別な雰囲気は、すっかりなくなってゆく。そういう様々なものが現れ発展してゆく過程で、これまでに沢山のスカやカスが生み落とされるのを見てきたわけである。

インターネット初期の頃のわくわくする感覚を思い起こさせるものがあると言われるWeb3とて、そのうちに遅かれ早かれスカになってしまうのである。それが新しい何かわくわくするものに、常に待ち受けている未来であり、ある種の宿命なのである。ただしWeb3がスカにはならず、全く新しい世界を切り拓き(続け)、いつまでも新しいままでいる可能性も決してゼロではない。しかし、初期のインターネットも十分にわくわくするような革命的な何かであったのにも関わらず、結局は今や普通に当たり前のようにどこにでもあるインターネットになっているではないか。それを思えば、Web3とても、その行く末たるや推して知るべし。では、ないか。
九十年代以降のインターネット革命は、新しいデジタルなテクノロジーによって、世界中を少しだけ発展させたと見る見方もある。だが、あれほど全く新しい時代を切り拓くと広く宣伝されていた初期のインターネットは、現在のWeb3などよりもさらに得体の知れないわくわく感があったのだろうけれど、やはりかつて言われていた通りのものではあり続けなかったし、もはやとてもありふれたスカになってしまったと言わざるを得ないところがある。インターネットは、インターネット以前にもあった通信や交流を、便利に使いやすく迅速で手頃なものにしたというだけのことであり、何か全く新しい何かを感じさせるものではなくなっていってしまった。
やはり、ここ五十年ぐらいの間、宮沢章夫が言っていた通り、全てはスカばかりだったのではなかろうか。

実際のところ、何も変わらなかったのではないか。われわれの抱いていた未来への輝かしい希望は、全てが全てスカにされてしまった。
やっぱり、何もかも全てはスカであったのかも知れない。そして、要は、かつてジュリアナ的なものがクラブ・カルチャーを大衆化させてゆき、その後に続いて押し寄せてきた醜悪な現象や趣味の悪いものたちが、全てをスカにしてしまったようなことは、これからも絶えることなく起こり続けるだろうということでもある。
これまでの数十年間にあったこと、それらは全てスカにされてしまった。いや、スカにされるべくして、そこにあったということであろうか。何に対しても醜悪な文化現象としてのジュリアナ的なものが、その後を追いかけて現れるように、全てはスカとなるべくして生み出されるのだし、今もこれからも変わらずにずっとそうなのである。そこには、もしかすると何かすごいことを起こすような素晴らしい可能性を持った芽も沢山ある(あった)のかも知れない。だがしかし、結局のところそれが何かであったとしても、いつしかスカになって何にもならなかったということになるのである。
そのことは、現在もずっと大きく変化することなくだらだらと継続され保持され続けてきている。大量に生産され、大量に消費され、大量に後に残されるスカ。この状況が全てを証明してくれている。

宮沢章夫は、この数十年間のことを、どう思っていたのだろうか。何かをいいと思っても、何を生み出したとしても、何もかも全てスカにされてしまうことに対して、理不尽だと思いながらも、それがこの世界なのだと悟ってしまっていたのだろうか。どこかの時点で、諦めていたのか。全てがスカにされてしまう世界で生きると言うことを受け入れて。周りの全てがスカであるのなら、それはもうどう足掻いたって諦めざるを得なかったということなのだろうか。いや、最初から諦めきっていたので、あの時点でもうスカ発言がすらっと出来ていたのだろうか。

「東京大学「80年代地下文化論」講義」は、2006年に白夜書房より出版された。その後、2015年に河出書房新社より増補版の「東京大学「80年代地下文化論」講義 決定版」が再出版されている。旧版の出版の際に学習院大学中条省平教授が書いた書評が、「バブルとおたくとスカの80年代に対するアンチテーゼ」と題されて、9月20日に宮沢章夫の急死を受けてネットに再掲された。
この書評では、八十年代カルチャー・シーンの内部に存在する三項が、地上のバブル・ジュリアナ的なもの、地下のピテカン的なもの・かっこいい、そして根暗なオタクという形で浮き彫りにされている。そして、06年の時点では、唯一勝ち残ったオタク的なインターネット・コミュニティが、今後どうなってゆくのかと展望するところで終わる。やはり、宮沢章夫は、バブルは宿命的に弾け、ピテカン的かっこいいもオタク(ヒルズ族)に蹴散らされ、今度はオタク(ヒルズ族)が新しいミニ・バブル的なものになったが、やっぱりスカはスカらしく立派なスカにならざるをえないと見ていたのではなかろうか。
「スカ論考」の論点で言うと、この三項をまた少し違う角度から見ていたようなところがある。つまり、もう少し前に時代を遡って、バブルなジュリアナ的なものに対抗するものとしての、新しいオタク層があったことを述べているのである。
早々にピテカンの時代は終わり、バブルも弾けて泡が消えてゆこうとしている時代に、バブルとバブルに背を向けたものたちが存在していた。つまり、終電で帰ろうとするジュリアナの人と終電近くに遊びにやってくるゴールドの人が深夜の田町駅の構内ですれ違っていたように、それらは別々の生息域をもっていたのである。
その反バブル組の中のかっこいいオタク層を、もうひとつの対立軸とした見方を打ち出したのが「スカ論考」である。ピテカン的なかっこいいもの、それをスカにしたバブルなジュリアナ的なもの、それらと対立・対抗する位置にあったオタク的なクラバーたち。

原宿にピテカン的なかっこいいがあり、それがジュリアナ的なものにスカにされてしまったころ。そこに出現してきたのが、暗い地下のダンスフロアでシンプルな四つ打ちのビートで一人で黙々と踊るオタク的クラブ・カルチャーの申し子たちであった。これが、オタク的インターネット・コミュニティとはまた違った、あまり日の当たらぬ、日の目を見ない、地上からは不可視な、明かしえぬコミュニティらしきものを形成していた。
ハウス・ミュージックで踊る、アンダーグラウンドなクラブ・カルチャーの、弱く繋がってすらいないコミュニティである。宮沢章夫が言っていた通り、ジュリアナ的なものは、本当に全てをスカにしてしまったのだろうか。いや、そうしたバブルの香りのする醜悪な大衆化した文化に対抗する、八十年代的オタクとは別種のオタク的なダンスフロアが、そこにはひっそりとだが確実に存在していたのである。

バブルが弾けると、それまで華やかに遊んでいたリッチな人々が街から姿を消して、時代に取り残されてしまったスペースが雑居ビルの地下などにできた。それまでは、会員制のバーや、ちょっと高級なレストランやカフェ・バーの地下階や店の奥の小さなドアの向こう側にあった、限られたバブルな人たち向けのクローズドなダンスフロアが、経営困難になって安く他人の手に渡ったのか何なのかよくわからないが、あちこちで門戸を開放するようになっていた。
そういう隠れた人目につかないスペースで、本当によくわからないウェアハウス・パーティがぽつぽつと開催されるようになる。レストランの地下やバーの奥のダンスフロアが、一夜限りのクラブ形式のダンス・パーティの場になった。そこには、どこからかパーティの情報を聞きつけた、本当に限られたアシッド・ハウスやベルギー産ニュー・ビートが好きなちょっと変わった連中しか集まらず、音楽以外はほとんど何もない薄暗いダンスフロアで、ただひたすらに踊り続けるダンス・パーティが繰り広げられた。
周りにいるのは知っているような知らないような人たち(「あ、また、あの新宿のシスコの店員の人が来てるな」ぐらいの感覚)ばかりで、今から思うと全くもってダンスしていた思い出しかない。そのほかのことは、ほとんど印象に残っていない。ある意味、異常だし、殆ど病気だ。

そういった地下の人目につかない隠れた場所から始まった、新しいダンスフロアの空気感を色濃く受け継いでいる雰囲気が、少なくとも九十年代前半の新しいクラブ・カルチャーの根幹にはあった。それは、まだ何もなかった東京に初めて出現したピテカントロプス・エレクトスがもっていた新しいクラブ・カルチャーの空気感を、少なからず継承したものでもあっただろう。
しかし、そうした地下の新しいダンスフロアのカルチャーも、新しいジュリアナ的なもの、当時の感覚でいうとベルファーレ的なものや、かつてのオタク・インターネット・コミュニティの流れを汲むIT系やベンチャー系の新しい局地的バブル勢の到来によって、みるみるうちに侵食され、地下の独特の空気感は汚染され、ハウス・オタクは駆逐されて、雪崩を打つようにスカ化していってしまう。

今やもう、みんな終わってしまって、どこかしこもカスやスカばかりしか残っていない。そこにサブスク文化という、もはや何が文化なのかわからなくなる文化が登場してきて、本格的に完全に新しいものは生まれない時代になってきている。最初からもうカスやスカになってしまっているものを参照したり引用したりしているのだから、これはちょっと始末に負えない。どれもこれも、どこかで見たことのあるもの、どこかで聴いたことのあるものばかり、である。
すでにスカやカスになっているものの焼き直しや、巧くコピーしたものが、かっこいい。その感覚それ自体は、とても興味深いものではあるけれど。
しかし、そういう潮流が主流になればなるほど、それに対する反動から、そのうちに何か本当に新しいものが出てくることがあるのかも知れない。おそらくは、そういうものとて、遅かれ早かれスカにされてしまうのだろうけれど。
もう何も変わらないのである。同じことを繰り返しているだけ。だから、そういう意味では、遥か昔にスカにされてしまったあれやこれやのものこそが、われわれにとっての最終到達地点であったということなのであろう。

全てはスカだ。ここは、スカしかない世界。みんな全てスカになる運命。自分で生み出したものも、いずれスカになるだろう。いや、スカな世界やスカな時代の一部として、それもまたスカにされてしまわなければならないのである。ならば、もう諦めて、スカだろうが何だろうが可能な限り楽しんで、スカな世界やスカな時代の一部としてスカにされてしまうことも甘んじて受け入れ、生きてゆく、だけだ。
あのとてもかっこいいピテカン的なるものがスカにされてしまってから三十数年、宮沢章夫もそんなスカだらけの世界を生きてきたのである。まだスカにされてしまってはいない、全く新しいスカでないものと共に生きる。本当にかけがえのない瞬間、それこそが全てである。それがあった上での三十数年間と、それがないままの三十数年間では、やはり大違いであろう。
元首相の安倍晋三が凶弾に倒れた時、彼は六十七歳であった。宮沢章夫とは二つ違いである。安倍晋三の方が二歳年上で二学年上にあたる。おそらく安倍晋三は、ピテカン的なるものが何であるかを全く知らずに、この三十数年間を過ごしてきたであろう。そこが宮沢章夫との大きな違いである。

いつかまた全く新しい何かが出現してきたときには、躊躇なくそれに飛び乗ればいいだけだ。それが、本当に新しくてかっこいいものであったなら。だが、そういうものも、すぐにまたスカになる。だが、ピテカン的なものを知るものが言う、全てはスカになったのスカと、それを知らないものが言うスカには、やはりどこか違うものがあるのだろう。だから、宮沢章夫の言うスカには、やはり何かしらの考えるべきものがあるのである。基本的に、ピテカン的なるものの何たるかを知らぬものの言うことには、ほとんど耳を傾けるべきものなどはない。個人的には、そう思っている。そんなものはスカだ。そして、どこまでもカスだ。

このスカのような世界に生きているものが、スカにまみれた言語や思考で生み出したものなんて、スカになるしかないのである。そこは諦めるしか無いのである。ただし、どちらかといえば、宮沢章夫という人は、いい部類に属するスカだった、と誠に僭越ながら申し上げたい。

(2022年)

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