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バグれ21世紀

大竹と庵野

大竹伸朗のドキュメンタリー(NHKBSプレミアム「21世紀のBUG男 画家・大竹伸朗」)を観ながら、いつしか庵野秀明のことを考えていた。この二人、どことなく似ているというか、なんとなく共通点がある。いつでも生暖かく時に厳しく見守ってくれている先達や理解者があり、最後のぎりぎりのところで救いとなって歩むべき道に引き戻してくれる伴侶がある。実際の作品制作の活動とは、直接には関係していないが、そうした部分というのは、たぶん結構大きい。そこのあたりまでをも含めて、アーティストのアーティスト的な資質であって、その才能であるということなのであろうか。そういう意味では、二人とも自力には限界があることを身をもってよく知っているのである。それも実人生の経験から身をもってそれを知っているのだ。

偶然と奇跡

大竹や庵野が、今もまだ制作をしていて表現を続けているということは、本当にちょっとした偶然が良い方向に重なっただけの、ただの単なる奇跡のようなものでしかないのかもしれない。いや、そんな幾つもの偶然や万にひとつのような奇跡を全部ひっくるめて大竹であり庵野なのだろうか。考えてみたところで、答えはどこにもない。どこかで制作や表現を諦めてしまえるようであったならば、それはもう大竹や庵野ではないであろうから。もしかしたら、世間からは一切知られることなく、独りでひっそりと驚異的な制作を続けているアール・ブリュットな大竹や庵野も存在していた可能性だってある。しかし、そういったことを全て考えてみたとしても、どんな問いにも一つの決まった答えがあるわけではない、ということでしかない。いや、まず何らかの問いを立ててそれに対して頭の中から何らかの答えを出してくるという以前に、専ら答えを問うということに対しての問いそのものとなっているのが大竹であり庵野なのである。それは際限なく問い続ける問いである。

思考と限界

大竹も庵野も「頭で考えることには限界がある」というようなことを言う。そういう部分も似通っているというか共通している。そこのところを踏まえて、もがきあがき悪戦苦闘して、とにかく新しい表現の領域へと常に挑もうとしている。そして、それをやっている本人が全くおもしろそうじゃないというところも、なんとなく共通している。どこまでいっても、すぐに頭で考える限界が後から後から追いついてきてしまうのだろう。だから、常におもしろくないのだ。
いや、そこに(も)おもしろいはあるのだろう。自らの手が、考えることの限界を越えて作り上げたものが、ついにその姿を現した一瞬だけは、きっととてつもなくおもしろいはずだ。だが、それもほんの一瞬で、せっかく積み上げた砂の山も、常に世界の中に存在している巨大で強力な重力というものには逆らいきれずに、跡形もなく崩れ落ちてしまう。そして、またただのちっともおもしろくない低い砂の山が、目の前に現れるのである。
大竹は「自分でも何やってんのか分かんない」と非常にあっけらかんと語る。しかし、アニメーションを制作する庵野の場合は、そうも言ってられない。自分でも何をやっているのか分からない限界を越えてしまっているものをやると、それはやはりテレビ版エヴァ最終二話のようになってしまうのだろう。それでも、そこから二十五年もの年月をかけて庵野はアニメーションに対して、ひとつの落とし前をつけてみせた。もしかすると、それはただ単に「頭で考えることには限界がある」ことを、さらによく知るためにだけにあったような、全くおもしろくない年月でしかなかったのかもしれないが。

内側と外側

庵野は「やってみなくちゃ何も分かんない」と言う。そう言っては、周りの人を困らせる。庵野が分からないといっているものを、誰も分かるはずがないのだから。しかし、やっぱり頭で考えうることの限界を越えたものを追い求めているのだから、何かをやってみる前の段階では、何が生み出されてくるかなんてこと何も分かっていないのである。もはや、人間が頭の中で思い浮かべたもの、いわゆるアイディア(イデア)を取り出してきて、それに沿って何かを作り上げたとしても、何もおもしろくはないのである。
ただし、そうした理念の限界を越えてゆこうとするものを、庵野はアニメーションという狭い枠の中でやろうとするのである。やってみなくちゃ何も分かんないけれど、自分でも何やってんのか全然分かんないものをそのまま提示すると、テレビ版エヴァ最終二話のようなことになるので、あくまでも商業用アニメーションの枠の中にはおさめなくてはならない。アニメーションを超越するものをアニメーションの範囲内でやる。そんなアンビヴァレントな部分をどっぷりと抱え込んでいながら、とことんアニメーションというものにこだわり続けたところに庵野の表現の特異性があるといえる。
庵野は、壊れたものやいびつなものがおもしろいと言う。これは、何らかの障害があったり不自由であったりする方が、頭で考えるものの限界(健常なるものの限界)を越えやすくなるという風にも捉え直すことができるだろうか。だから、庵野はあえて有限の中で無限を追い求めるような不可能性が渦巻く状況の中へと自分自身を投げ込んでしまうのである。大竹の場合は、東京から宇和島に移ったことで絵画表現の枠の外へと飛び出してゆくことがすんなりと可能となったようなところがある。何も遮るものがないところで、頭で考えることの限界を越える「やってみなくちゃ何も分かんない」ことを、とことんまで追求し続けられるようになったのである。
それとは対照的に、庵野は障害があったり不自由なことは限界を狭めることにはならないということを証明するかのように、とことんアニメーションというものにこだわり続けた。それは、壊れていびつなものが、頭で考えることの限界を越える(有限と不可能性をしっかりと抱え込んでいる)挑戦であったのかもしれない。そして、庵野はアニメーション表現というものの限界の枠を少しばかりでも押し広げようと悪戦苦闘を繰り広げた。二十五年もの長い年月をかけて。
限界の枠の外側の何の手がかりも指標もない場所を手探りで進む(大竹)か、枠の内側で心身をすり減らしながらでも無限と超越に挑み続ける(庵野)か、その立ち位置は全く異なっている。たとえるならば、大竹は縄文人的でありパンクであり、庵野は弥生人的でウルトラマンである。それでも、この二人には、どことなく似ているところがあるというか、そもそもの部分で違っているからこそ同じコインの表と裏のように、なんとなく共通点があるように感じられもするのである。

良いと悪い

大竹は、とてもシンプルに、いい感じかいい感じじゃないかを、自分の中での基準としている。自分でも全く予期していなかったような、いい感じのものが結果的にパネルやキャンヴァスの上にいい感じに出されていれば、それはそれでオーケーということになる。何かの目的をもって作品を制作しているのでもないし、そういうことに自分としては何の意味も見出してはいない。だから、何ができようと自分としては何の責任ももたない。いい感じのものが出ているか出ていないか、そこしか大竹は見ていないのだ。
庵野は、難産の末にようやく完成したアニメーション映画の試写をちっとも見ようともしない。制作の過程でもう嫌というほど見ているせいもあるのだろうが、完成してしまった作品に対しては最早何の感慨も抱いていないような雰囲気である。その証拠に試写会場の片隅でノートPCを開いて、もうすでに次の仕事の準備を始めている。庵野にとって完成した作品とは、もうすでに崩れてしまった砂山にしか見えないのだろう。出来上がった瞬間の高く聳える砂の山のような作品は、ほんの一瞬だけそこにあり、すぐに崩れて消えてなくなってしまうのである。だから、また最初から別の砂を積み上げ始めなくてはならないのだ。
完成してしまった作品は、もうすでにひとつの限界のうちにある。もうそれ以上は、どこにも越え出てゆかないものなのだ。そして、作品を制作している間にも、別の作品のイメージが湧き上がってくることがある。大竹にとって、いい感じのものを出すためには、躊躇している暇は一刻もない。制作の途中であっても、どんどん中から出してゆく。そうやって、適時すっきりさせてゆかないと、元々の作品の制作にも支障が出てきてしまうからだ。いいのが出そうな時には、どんどんそれを出してゆくしかない。庵野もきっとそうだろう。おもしろい発想は、どんどん形にしてゆかなくてはならない。やってみなくちゃ分からないから。その繰り返しの中から、頭の中で考えることの限界を越えた作品が生み出されてゆくのである。そうやって、いいのを出しきったものでないと、自分にとっても、それを見る人にとっても、ちっともおもしろいものにはならないだろう。そして、それは、残念ながら、いつまでも変わらずに、おもしろいと感じられるものではないのだ。だから、大竹も庵野も、すぐに次のその先の限界を超えてけるものを追いかけ始めるのである。いい感じというのは、エンドレスなのである。

有用と無用

作品を制作しながら、大竹は(作品の)総量が変わらないということについて、ことさらに言及をする。総量が変わらないというのは、つまり、パネルに(意図を挟まずに)ぼんぼんと大量に貼り付けていった様々なものを、切り取って(編集して)形を整える(整理する)ようなことは決してしないということを前もって言っているのである。大竹は、制作の途上で明らかに手詰まりになってくると、それまで次々と貼り付けていったものを(おそらく無造作にかつまた試みのために)手で破いたり、カッターで切り取ったりする。そして、その切り取られた部分や作品の破片は、元のところとは別の場所にまた(上下逆さまにしたりズラされたりして)貼り付けられてゆくのである。パネルから剥がされ切り取られた作品の破片は、すぐに再び作品の材料として再利用されるのである。このことを、大竹は作品の総量が変わらないと言っているのである。
一度パネルに何も考えずに貼り付けていったものには、もはや頭で考えてもわからない、そこに貼り付けられた意味というものがたぶん明確にあって、そこに貼り付くべくして貼り付いているのである。それを作者の人間的な判断で簡単に取り除いてしまっていいということはない。編集や整理というのは、多分に意図的なものとなるだろうからだ。だが、制作の延長で何も考えずに切り取られたり剥がされた断片は、また別の場所で新しい意味を持つことが可能になる。頭の中で考えて断片を移動させるのではない。頭で考える限界をさらに越えてゆくために断片は作品内で移動をするのである。やってみなくちゃ何も分からないから、貼って切って剥がしてまた貼り付けるを繰り返す。総量は変わっていないから、そこに編集や整理といった頭で考えるような作為的行為は(基本的に)介在していないことになる。その根底には、大竹の手元にある素材を何でも全て貼り付けてみないと気が済まない姿勢というものがある。そして、それがちっとも塵を出さない、捨てずにとっておいた包装紙や段ボールや木屑なども再利用する、まさに持続可能型のアートを(結果的に)生み出してしまう事になる。

成功と失敗

大竹は、ひたすらにただ貼り付けたり、塗りたくったり、切ったり破いたり剥がしたり止めたりしている。上下逆さまにしたり、粉をふったり、樹脂で固めたりする。何かを意図した、何かを作り上げることを前提としている創作ではないので、作業はおそらく際限なく続けられることもありうる。だが、ある程度まで作品に隙間なく分厚く色や形や物や情報を盛り込んでゆくと、だんだんと取りつく島がそこになくなってくるのだ。常に過剰に動き回っていた大竹の手が、静止している時間が増えてくる。
大竹は、制作作業の終わり、終着点は、勝手に向こうからやってくるものだから、それを待てばいいと言う。何も考えずにずっと制作してきたのだから、どこで終わりになるのかということだって、頭で考えたところでわかるわけがない。自分の考えを挟んで作業を終わらせてしまったら、その最後の意図を介在させた一点があることによって、それまでにやってきたこと全てが水の泡となってしまう。もうそうなってからでは、その作品は自分の中では決して納得のできるものにはならないだろう。
それに、これまでの経験から、感覚的にもうほぼ完成したように見えていた作品に、ちょっと欲を出して色をつけたり何か付け足しをしてしまうと、ことごとく失敗作になるということを、大竹は直感的な経験から学んでいるのである。まだ足りていないところで、ぐっと踏みとどまって、あれこれ思案している状態は、まだいい。しばらくすれば、どこら辺に何を加えるべきかが、ちゃんと見えてくるだろうから。その反対に、欲をかいて過剰になり過ぎてしまったものというのは、もうどうすることもできないのである。
制作の手を止める時というのは、必ず外からやってくる。内からは、決してやってこない。その時が来たら、それを感じればいいだけだ。その外からくる声に従う以外に、作品の終着点を知る方法は、たぶんない。
庵野は、これでアニメーションはもう終わりと言う。全てを盛り込んで詰め込んだ作品を本当に終わらせるまでに二十五年もの長い年月をかけたことになる。それは、やはり遂にそこで、ようやくアニメーションにピリオドを打つ時が来たと感じられたからなのではなかろうか。人間の頭で考えることには限界があるし、全てみなやってみなくちゃ分からない。ひとつの作品の終着点が、ようやく外からやってきた。それを見逃さずに、うまくそこに照準を合わせることができたのだろう。それに失敗していたら、もしかすると作品は今後もまだだらだらと続いてゆくことになったのかもしれない。かなり時間はかかったが、きっちり過不足なく終わらせることのできるタイミングというのが、ようやくやって来たのであろう。あの時に一度逃してしまった終着点が、もう一度ここに巡ってくるまで、庵野はじっと待ち続けていたのである。

手帳とシール

先日、元モーニング娘。の道重さゆみさんが手帳とシールに対する奇天烈なまでにオブセッシヴな偏愛ぶりを吐露するツイートを連発していて、非常に興味深かった。

「新しい手帳、今月から使い始めたんやけど、サンタさんのシール貼りすぎておかしくなっちゃった、ショック」

Twitter

新しい来年の手帳の十二月のページに、大好きなシールを貼って、より十二月らしい可愛いページになるように飾り付けをしようと思っていたのだけれど、どうも思ったような仕上がりにはならず、とてもショックを受けている道重さんである。

「シールは貼れば貼るほど可愛い!って思ってたけど限度はあるんやなぁ」

Twitter

シール貼りも、やっぱりやってみなくちゃ分からない。いわば、出たとこ勝負だ。それに貼れば貼るほど可愛くなるとも限らない。作業の手を止めるポイントを見誤ると、可愛さのバランスが崩れておかしくなってしまう。頭で考えることには限界がある。ただ、何にしても限度というものはある。可愛いのぎりぎりを突き詰めたヴァニシング・ポイントは、内からはやはりやってこない。それは、必ず外からやってくるのである。

「シール貼るの難しい…深い… 」

Twitter

道重さんがやっているシール貼りは、どこか大竹や庵野がやっていることとも通じるものがある。それは、とても「深い」ものである。そして、その「深い」ところに潜り込んでゆけばゆくほどに、人間は明らかにバグってゆく。道重さんも、もうすでにかなりバグっているような雰囲気がある。

俳句と小説

大竹が作品の制作の合間に、机の前へと移動し、少し何かが熟してくるのを待ち、そこから一気に油絵の作品を四点ほど立て続けに書き上げてゆく場面があった。今そこで作業していた作品とは異なる作品のアイディアやイメージが大竹の目の前にもやもやと見えてきたようなのである。そうなると、それまで作業していた作品はしばし保留となる。大竹は、ひとり集中してもやもやと見えてきているものに静かに目を凝らし、小さなキャンヴァスを立てかけて絵筆をとり、一心不乱に描いてゆく。
一気に無言で書き上げて、ようやく大竹が、すっきりとした表情で口を開く。「いい感じに出た」と。作品制作の途上で、もやもやと湧き上がってきてしまった別の作品のアイディアやイメージを、逃げないうちにさっとつかまえてそのまんまキャンヴァスの上に急いで落とし込んだと言う感じか。何となくもやもやっと見えてきていたものを、絵筆をもった手で(いや、大竹の手が従属している絵筆の動きが、か)キャンヴァスの上にすっかり出し切って、視界も心も晴々としたようだ。床の上に無造作に並べられている、描かれたばかりの油絵を見て、「いい感じに出た」と大竹はいう。もはや、それは日常の中の排泄行為に近似したものであるかのようにさえ見える。
大竹にとって、ちょっとしたアイディアやイメージを、ささっと描いて出してゆく作業とは、毎日の日常の中でいくらでも起こる、衣食住といったものとほぼ同列の非常に日常的なことなのであろう。それは、言わば俳人や歌人が、日常の生活の中でことあるごとに俳句や短歌を詠むのとかなり近いものがあるのではないか。頭の中にちらっと思い浮かんだことや、ちょっとした瞬間の感情や心の動きからくるさざ波のような、もしくは一滴の水滴がつくる波紋のようなものを、さらさらっと筆を動かして(いや、筆に突き動かされて、か)十七字や三十一字の歌にしてゆく。そして、自分でも思ってもみなかったような短い詩がそこに浮かび上がってきていたりすると、俳人や歌人も「いい感じに出た」と、まるでちょっと人ごとのように感嘆するであろう。
一方、巨大なパネルを使っての作品制作は、即興で長編小説を書いてゆくような感じだろうか。ひとつひとつの作業を行なっている状態では、まだそれが「いい感じに出た」のかどうかはさっぱり分からない。過剰だったのか不足だったのかも判断できない。ただひたすらに、貼り付けたり、塗りたくったり、切ったり破いたり剥がしたり止めたりしている。どこが終わりになるのかも分からないので、大きい作品は、しばらくそのまま置いておいて、少し冷静に見れるようになってから、ちゃんと(「いい感じに出た」ところまで)出来上がっているかを判断すると大竹は言う。ただし、小説といっても、カフカの作品のように未完のまま終わってしまっているものもある。少し時間をおいて作品を見返してみても、それが完成しているか未完成かは実は大竹にも判断できないのが本当のところなのかもしれない。未完のままでも、もう終わってしまっているものは、そこのところでもうすっかり閉じてしまっているだろうから。それ以上は何も手出しをすることができない。まさに、カフカが小説の結末までを書かずに放置したように、そこにそうあるように存在させておくしかないのである。

練馬から何かをこめて

最後に、「21世紀のBUG男 画家・大竹伸朗」のナレーションのことについて。少しだけ。この作品は、とてもナレーションがよかった。淡々と大竹の制作の現場を追いかけつつ、大竹のこれまでの歩みや人としての来し方を振り返り、そこに厳選された人々による大竹についての証言を絡めてゆく、基本的にただ大竹伸朗そのものをじっと幾つかの角度から見つめ続けてゆく内容であって、映像の温度感ととてもよく合っているそれを見つめる目そのものであるような語り口が非常に印象的であった。客観的事実を適時適量に述べてゆくだけのナレートでありながらも、どこかそこにある現象を優しく見守っているような距離感が常に保たれていて、放っておくとどんどん殺伐としてささくれ立っていってしまいそうな大竹という存在を、かなりフラットに画面上に対象化させて見せてゆくためのポジティヴな機能を大いに果たしていたのではないかと思われる。
最初は、これは吉田羊なのではないかと思っていたが、聞いているうちにどうも少し違うのではないかと思うようになっていった。いい意味で、それほど芝居ががってはいないのである。あまり俳優的な語りには寄っていない語りなのだ。語り手の感情そのものは、そこでほとんど表立って出てはいないのである。そういう意味では、とてもアナウンサー的なナレーションであったのかもしれない。しかしながら、その内的な心性を出すわけでもなく、ちっとも出さないわけでもないという、非常な絶妙なところで語りがなされていたところが、実によかったのである。
最後のクレジットを見て、ナレーションはフリーアナウンサーの宇賀なつみさんが担当していたことを確認する。本当に素晴らしい仕事ぶりであった。蛇足ではあるが、宇賀さんは練馬区大泉の辺りの出身であり、大竹は幼少期を同じ練馬区の谷原で過ごした。距離はさほど遠くない。ちょっとした因縁というか、奇縁のようなものがある。そんなところが、今回のドキュメンタリー作品のナレーションを宇賀さんが担当することになることと何か関係していたのであろうか。見えないバトンを渡されて何かがテンカイしていったのか。しかし、そんなことは頭で考えても分からないことなので、たぶん殆どの人にとっては、どうでもいいといえばどうでもいいことであるのだろうけれど。



追記

「バグれ21世紀」についてフェイスブックに追加で書いたこと
(2023年12月28日)

道重さゆみさんについては、先年に「バグれ21世紀」という一文の中で少しだけ触れていた。その〈手帳×シール×かわいい〉の三要素の完璧な和合に対するかなりオブセッシヴなこだわり具合を、ひとつの好もしい二一世紀的なバグの一型式だとして取りあげていたのであるが、このたび医師から強迫性障害(強迫神経症)との診断を受けたことが発表された。徹底的に独自世界の「かわいい」をとことんまで追求する活動を行なっていた道重さゆみさんだが、しばらくはその活動を制限することになるという。もはやその活動は道重一心なライフワーク的なものにまでなってきていただけに、ご本人もさぞかし残念に思っていることであろう。
この「バグれ21世紀」を書いていたときは、今のこんなように成り果ててしまっている時代においては人間だって少しバグっているぐらいがちょうどいいのではないかと思っていたとことがある(今もそのような思いに基本的に変わりはない)。録画した「プロフェッショナル」をまだちゃんと見ていないのだが、宮崎駿もとことんまで自分で自分を追いつめて、もはや狂気に両足を突っ込んだ状態にまでいって創作をしているという。どうやら「バグれ21世紀」で取りあげていた大竹伸朗や庵野秀明よりも、やはり宮崎駿はさらに一段高いところでバグっている人なようである。
あのとき道重さゆみさんに対しても、そうしたバグってる(かなりやばい)表現者の人たちに、かなり近いものを感じるようなところがあったのだが。そのことは道重さゆみさんにとってはあまりよい方向に向かってゆくことはなかったようである。きっと、とても真面目に物事をとことんまで突き詰めてゆくタイプの人なのであろう。大真面目に自分にとってのかわいいを追求することは、なんら悪いことではない。むしろ、どちらかといえば大変に好ましいことである。しかし、その大真面目な真面目さみたいなものが却って徒となってしまったのかもしれない。
あの徹底的にかわいいのオブセッションと向き合いつづけている姿勢は、それがすぽんとこちらからあちらへ突き抜けてしまうとことまでゆくと、かなりまた違った新しい境地へと出ることになるのではないかと思っていたりもしたのだが、やはり基本的に本当にかなり真面目な人であったのだろう。観念的な部分での抑制がきかなくなったり抑制をきかせすぎたりしてしまってバランスを崩してしまったのだと思われる。究極のアイドル的な存在であること(偶像であること)とバグってる表現者となることは、道重さゆみさんの中では両立しえなかったのだろう。などというと、まるで宮崎駿がまったく真面目でない人のようにも思われてくるのだが、実際のところあまり真面目ではないからこそ、あのレヴェルの高度なバグりまでいけているのであろう。
と、ここまでこれを読むような奇特な人はあまりいないだろうと思い、最後に少しだけ余談を。さゆみさんというと、わたしは真っ先に高校のときの同級生のひとりの女の子のことを思いだす。その同級生が、わたしが最初に目にしたさゆみさんであり、それ以降はひとりのさゆみさんにも出会うことがなく、かなり経ってから二人目に目にしたさゆみさんが道重さゆみさんであった。高校二年の暑い夏の週末にわたしは同級生のさゆみさんと一緒に映画を見にいった。これは忘れられない思い出である。同級生の女の子と生まれて初めて二人きりで映画を見に行くなんてことは、普通ならいつまでも忘れられない甘酸っぱい青春の一頁の思い出となることだろう。だがしかし、わたしの思い出は、あんまり甘酸っぱくはない。むしろ、かなり酸っぱいくらいかもしれない。あの日、わたしとさゆみさんは渋谷のパルコに「ピンク・フラミンゴ」を見にいった。高校二年生にしては、わたしもさゆみさんもかなり無謀なことをしたと思う。わたしは終始身を乗り出して食い入るように映画を見ていた。あれが少しも冷静に見ていられるような映画ではないことは、みなさんもよくご存知であろう。もっとも印象に残った場面は、あの有名な映画史に残るラスト・シーンではななく、ただただひたすらに汚く臭い足の指を舐め合うだけの小さな狭いベッドで繰り広げられる奇奇怪怪なベッドシーンであった。あの場面のこと、あの場面を見ていたあの時のシチュエーションのことを考えると、いまだにかなり頭の中が熱くなってショートして脳がバグりそうになる。いや、もしかすると、あれからずっと脳がバグったままなのかもしれない。

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