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落語「子ほめ」について

一 噺の話

なにはさておき、そもそも「子ほめ」とは何なのか。いきなり大枠の部分から論じてゆくことにする。基本的に、まずもって言えることというのは、「子ほめ」というのは、古典落語の演目のひとつであるということである。よって、それ以外の「子ほめ」については、ここではひとまずおいておくことにする。ここでいう「子ほめ」とは、実際の子育ての方法や子供の褒めかたや叱りかたとは、何も関係がない。つまり、落語の噺のひとつであるところの「子ほめ」について考えたいというだけのことなのである。
噺というのは、話(はなし)と同音同義である。落語家が高座の座布団に座って喋る、ひとつのまとまったストーリー(お話)のことを、噺という。そして、その噺を喋って聞かせる(口演する)人のことを、落語家や噺家という。この二つにも違いはない。噺の話者が、落語家と噺家のどちら名称で自分のことを呼ばれるのが好きか、といったぐらいの差でしかない。落語家と呼ばれると、社会の落伍者のような扱いを受けているようで、あまりいい気持ちはしないから、どちらかというと噺家と呼んでくれ。といったぐらいの違いである。
大抵の場合、寄席の高座の座布団の上が、落語家や噺家の喋る場所である。高座とは、座ったままで喋る落語家や噺家の噺方や仕草を、観客が見物しやすいように少し高いところに座らせることから、そう呼ばれている。また、落語家や噺家というものは、少し高いとこに持ち上げてあげるだけで、すぐに気分が良くなってぺらぺらぺらぺらと調子よく喋るようになるので、とりあえず高座にあげておくようにする。別に偉いから高い所に座っているのではない。落語家や噺家というものは、ただそこに座らせられているだけなのである。

江戸の街に寄席というものが出現したのは、十九世紀初頭ごろのこと。落語、講談、歌、踊り、音曲などの演芸の興行を専門に行う小屋を寄席という。見物人を集客(人を寄せ)して、(席につかせて)演芸を見せて楽しませる場所(小屋)のことが、まずは(人)寄せ場と呼ばれるようになり、そこから寄席という名が派生してきたといわれている。寄席以前の噺家たちは、古くから存在する大道芸の芸人たちと同様に、主に寺社の境内などで行き交う人々を相手に、すぐにオチがきて瞬間的に笑いがとれる短い落とし咄を中心に披露する喋り専門の芸人であった。そこに十七世紀末あたりからは鹿野武左衛門などの最初期の噺家たちによる、葦簀張りの小屋(葦簀で四方を囲った小さな喋り芸専用の占有スペース)を設けて、そこに寄ってきた聴衆の足を止めさせ腰を据えて落とし咄を聞かせる形態が現れ始める。すると、この小屋掛のスタイルは、元々の寺社の境内を離れて、町内の四辻や橋のたもとなどにもあふれ始める。一応は小屋掛しているので、見たところそれはもはや大道芸ではない。そうなると、またたく間に町内の人気スポットとなってしまった、その小さな葦簀張りの小屋が、より多くの聴衆を集客することのできる(人)寄せ場の小屋、つまり定席の寄席(初期には、そこそこ広い町屋や料理屋の二階の座敷などが芸人が興行を行うときだけ寄席として使用されていたようだ)へと発展していくのは、時間の問題であった。

文化四年(1804年)、寄席での演芸興行が、町奉行によって公認のものとなる。それまでは、乞胸と呼ばれる非人格に近い扱いの階級(実際の扱いは準町人であり非人ではない)に属していた大道芸人や芸能者は、乞胸頭山本仁大夫から鑑札を受けることなくしては、寺社の境内などで見世物を行うことはできなかったのである(乞胸ではない非人の大道芸人や芸能者は、非人頭の車善七の配下に置かれていた)。だが、そのうちに町屋や料理屋の二階の座敷などで噺家が小咄や落とし噺を話して聞かせる、寄せ場での興行が静かなブームとなり始めてしまった。すると、演芸の興行を専門に行う定席の寄席も各町内に出現しだして、もはや乞胸頭とそのスタッフの世話人たちだけでは、芸能者の管理が手に負えなくなる事態が生じていた。そして、この演芸興行をめぐる急速な情勢の変化を確認した町奉行の沙汰によって、寄席興行と乞胸頭仁大夫とは正式に切り離されることが決定されたのである。これには、乞胸頭配下の旧来型の大道芸人的な芸能者(準町人格)とは異なる、市中に住む町人格の噺家の増加ということも決して無関係ではなかったであろう。もうすでに、噺家による専門性のある芸能の様式が、こうした初期の寄席の高座においても芽生え始めていたであろうことは、容易に想像がつく。演芸のホームグラウンドである定席というものを持ち始めた噺家には、それまでの辻乞胸とはもはや同じ芸能ではないという高座に上がる芸人としてのプライドのようなものもあったのではあるまいか。いわば、このころから寄席芸能とその文化は、今へと連なる自由な発展を開始したのである。

古典落語とは、その名の通り古典的な落語のことである。これに対して、さほど古典的でない落語をさしていう、新作落語というものがある。新作落語とは、その名の通り新しく作られた落語のこと。現在を基準として比較的古い時代に作られた落語の演目が古典落語で、比較的最近に作られた落語の演目が新作落語だということになる。要するに、それが古いか新しいかを聞き比べして、一応の古典か新作かの区別をすればよいのである。また、より大雑把に、落語の噺の登場人物が江戸のころの人なら古典で、東京の人なら新作だというような区別の方法もある。だがしかし、ずっと一つ所に固定されているものではない現在を基準にしてしまうと、厳密にはそれはそう簡単に区別できるものではないのである。今は古典落語といわれている落語の演目も、それが作られた当初は新作落語であったわけで、今はまだ新作落語といわれているものも、それなりに年月を経れば古典落語といわれる演目となるはずだから。そういう意味では、すべての落語の演目は、どれも一度は新作落語といわれるわけなのだし、どれもそのうちに古典落語といわれるようになるのである。そうなると、そう簡単に新旧だとか江戸だ東京だとかいうところで区別できるものでもなくなってくる。そして、新作落語といわれているものが、どれぐらいの年月を経て埃や手垢にまみれれば古典落語となるのか、きっちりとした決まりがあるわけではない。そこそこ長い歴史をもつ落語でありながら。

だが、そこにひとつの区切りの目安を形作るような、落語のルネサンス的なムーヴメントが、かつて確かに存在していたことは決して忘れてはならないだろう。それが、明治三十八年(1905年)三月に発足した落語研究会である。時代が明治になると(封建的身分制度が崩壊し、人々を旧来の共同体に結びつける紐帯が緩んだため)全国の様々な地方から様々な人々が、旧江戸である東亰・東京へと上京し、手っ取り早く楽しめる娯楽を求めて寄席にもやってくるようになった。すると、そうした新しい観客・客層向けに作られた、新時代に合った伝統や因習に捉われぬわかりやすい笑いを提供する新しい落語が人気を博すようになる。中でも、ステテコ踊りの三代目三遊亭園遊、ヘラヘラ踊りの三遊亭萬橘、ラッパの圓太郎こと橘家圓太郎、郭巨の釜掘りの四代目立川談志が、寄席四天王と呼ばれ、江戸期の噺家のイメージを打破するような珍芸で時代の隆盛を極めるようになる。それまで寄席において一般的に使われていた江戸言葉・江戸ことば、いわゆるべらんめえ口調は、一種の東京の下町を中心とした旧武蔵国の方言であって、地方から上京してきた人々にはまったく耳馴染みがなく、噺家がぱあぱあぱあぱあ喋ってもさっぱりウケなかったという。それゆえのリーサル・ウェポンとしての珍芸でもあったのだろう。だが、これに対して、それ以前の寄席に当たり前のようにあった江戸前の落語を、古典的かつ伝統的な様式や形式として保存してゆかなくてはならないという、反動的かつ反時代的な動きもまた生じてきたわけである。そして、そうした古典派たちの新時代の動きに抵抗する活動の牙城となったのが、この落語研究会なのである。

江戸の文化と東京の文化の間に切断線を引く動きが顕在化してきたことで、明らかにひとつの古典と新作の間の区切りがつけられたのだともいえる。明治三十八年の第一次落語研究会の時点で、主に江戸が東京になる以前の寄席で口演されていたような、その当時は絶滅が危惧されていた伝統的な寄せ場・寄席スタイルの落語が、いわゆる古典落語となったのである。現在でも、そこを基準とした演目のまとめ方自体は、おおむね支持されている。時代が明治になってから初代三遊亭圓朝がグリム童話を元に創作した演目「死神」は、その基準に照らし合わせて、あまり古典落語の演目に数え入れられることはない。そして、新作落語とは、落語研究会が古典だと認めたもの以外のすべての演目のこととなった。明治以降の新しい落語のスタイルを取り入れて創作された落語の演目は、すべてその区分にあてはまった。さらに、第一次落語研究会が古典と新作の線引きをした以降に作り出された演目もまた、現在に至るまでかれこれ百年以上すべて新作落語とされている。

だが、一般的に時代物や髷物といわれる、登場人物が髷を結っている噺であったとしても、それらがすべて東京が江戸だったころに作られた古典落語であるかというと、決してそうではないという点は、注意しておいた方がよいだろう。明治維新で文明開化してざんぎり頭になった人物が登場する噺だけが、新作落語ではないのだ。時代物や髷物の様式や設定を取り入れている新作落語というものもある。また、俗に大圓朝ともいわれた落語中興の祖である初代三遊亭圓朝の弟子、三遊亭圓左が興した第一次落語研究会の発足から、すでに百二十年ほどの年月が過ぎていることも、やはりもはや無視のできない問題を生じさせてきてもいるのである。長く歴史を重ねてきた新作落語の古典は、いつかは普通にただの古典落語と呼ばれるようになるべきものなのである。しかし、今も高座で人気の「代書屋」や「ぜんざい公社」、「新聞記事」といった古くからある新作落語は、ともすると古典的新作落語とでもいうような、実に中途半端な扱いとなっているのが現状である。新たに線引きをするべきなのだろうが、あまりにも落語研究会というものの存在が、その歴史性をともなって大きくなりすぎたきらいもあり、そこにあらためて触れることがなかなかできなくなってしまっているのである。おそらく、落語の世界に革命的な大事件が起こらない限り、そうした区切りの線の公式な更新ということはありえないのではなかろうか。

このように、古典落語と新作落語の境目というのは、やはりいろいろとややこしいものなのである。であるからして、この境界が、とてもややこしいものであるということは、とりあえず覚えておいて損はないであろう。

二 子ほめの話

古典落語である「子ほめ」は、いわゆる時代物の噺である。ただ、ある特定の事件や場所や人物や出来事などの歴史的な背景と直接の関わりがある噺ではない。よって、すべての「子ほめ」が髷物として口演されているとは限らない。つまり、時代の設定を現代や未来に置き換えたとしても、基本的には成立する噺なのである。場所を長屋にしたり、ご隠居を登場させると、大抵は江戸・東京の下町を舞台とした噺になる。さらに、場所を特定しない噺の内容から、それが江戸の町を舞台としているのか、明治期の東京の街が舞台なのか、はたまた大阪の街が舞台なのかを、話者が前段でことわりを入れておく必要は、まったくない。

元々の噺の原型は、寛永五年(1628年)に京都誓願寺の住職、安楽庵策伝が完成させた、古今東西のおもしろい話をまとめた笑話集「醒睡笑」(全八巻)に収められていた短い小咄であったとされている。しかし、「醒睡笑」そのものも策伝の聞き書きであることを踏まえれば、噺のネタとしてのルーツはさらに古く、室町後期から安土桃山時代に大名に仕えた御伽衆が語っていた笑話・小咄などに遡ることは可能なのではなかろうか。そうしたものを原型として、ゆっくりと時間をかけながら「子ほめ」は次第に古典的な落語の噺へと発展していったのである。

結城少将松平秀康の孫にあたる江戸時代初期の大名、松平直矩が、約三十八年間に渡ってこつこつと書き続けた日記「松平大和守日記」というものがある。その中の元禄七年(1694年)五月八日(直矩は五十二歳で他界しており、これは死の前年にあたる)の記録に、屋敷の料理の間にてお座敷ディナーショーを催し、小咄を専門にする芸人(喜作)をブッキングして、たっぷり十一のおもしろネタを楽しんだ、という私的な演芸鑑賞会のことが書かれている。このときに喜作が口演した演目の中に、もうすでに「子ほめ」は含まれている。松平直矩は、日記にその題目を「子のほめそこなひ」と記録している。そのまんま、生まれたばかりの子供を誉め損なう小咄を、大名家のお座敷に呼ばれて喜作は語ったものと思われる。付け焼き刃の知識で子供を褒めようとするが大失敗してしまう男のずっこけエピソードだ。かつて御伽衆が戦国大名を小咄で笑わせたように、この日の喜作も松平大和守をたっぷり楽しませたのであろう。そして、いまだこの時点では「子ほめ」も現在のような落語の噺とはなっておらず、策伝の「醒睡笑」にあった小咄の原型を多くとどめる形式の簡単な笑話であったはずである。

「子ほめ」が、現在のような江戸落語の演目のひとつとして確立されるようになったのは、ぐっと時代が下がって幕末から明治の頃のことのようである。明治の後期、落語研究会の頃、まだ古い時代の小咄の伝統を受け継ぐ演目が数多く残っていた上方の落語を江戸様式の落語へ移入する事業を進めていたのが、三代目三遊亭圓馬(立花家左近、七代目朝寝坊むらく)であった。新時代の笑いや珍芸の勢いに押されていた古典的な江戸落語を、古くからの伝統を受け継ぎ続けている上方落語を手本として参照することで、再生・復活させていったでのある。圓馬の代表作のひとつが「愛宕山」である。元々の京都を舞台にした上方の遊びを題材としていた噺を、圓馬は江戸言葉を話す大店の旦那や幇間が登場する江戸前のスタイルの噺に鮮やかに翻案してみせた。そして、現在ある「子ほめ」の形式もまた、この当時に圓馬たちが作り上げて行ったものが基本的な直接の源流となってる。だがしかし、この落語研究会期の源流に至るまでに、「子ほめ」はもうすでに三百年近い長い時間をかけて、笑える小咄から落語の噺へと、さまざまな試行や錯誤を積み重ね、多くの聴衆の耳によって鍛え上げられ、噺家の頭の中で熟成されてきているということもまた確かなのである。

名人八代目桂文楽に厳しく稽古をつけ、基礎から芸を仕込んだことでも知られる三代目三遊亭圓馬が、第一次落語研究会の準幹部であったことは、実に象徴的である。伝統ある古典落語を研究・探究し、多くの若手の噺家に稽古をつけ後進の育成にも尽力した三代目圓馬。「子ほめ」は、そんな三代目圓馬がいたからこそ、今もまだ古典落語としてしっかりと生き残り続けている。時代の移り変わりとともに消えていってしまった古典的な演目も少なくはない中で、江戸時代初期の大名が聞いて笑っていた小咄と同じネタの落語で、二十一世紀に生きるわれわれが笑っているというのは、なんとも不思議な感じがする。そういった近世・近代の日本人の笑いの歴史の重みを考えるならば、おそらく「子ほめ」とは古典の中の古典といってもよい古典落語なのである。

歴史ある由緒正しき古典落語の演目「子ほめ」であるが、一般的には前座噺として分類されることが多い。前座噺とは、前座の噺家が稽古をつけてもらう真っ先に覚える噺のことである。前座とは、噺家(真打)の師匠に弟子として入門したものが幾許かの見習い期間を終えて、正式に落語修行を開始したばかりの最も駆け出しの身分のことをいう。そのような、まだ落語の素養の乏しいものであっても、何度か稽古を重ねればひと通り覚えることができる、シンプルでわかりやすい落語らしい基本のきの字の落語が、前座噺なのである。一番太鼓が鳴り寄席の木戸が開いたばかりで、まだ観客がほとんど入っていない時間帯に前座や二ツ目が高座に上がって、寄せ場・寄席の空気をあたためておくために話すのが、「子ほめ」のような前座噺となる。

前座から二ツ目、二ツ目から真打と、噺家の身分や格付けが上昇してゆくにしたがって、なかなか前座噺を演る機会というのはなくなってゆく。二ツ目だから、真打だから、前座噺をやらないのではなく、正しくはそういう噺を口演するチャンスが減ってゆくのだ。前座に前座噺があるように、二ツ目には二ツ目らしい噺というものがあり、真打にも真打が演るべき噺、もしくは真打が口演を客席から期待されるような噺というものがある。

だが、真打であっても、それを許す状況や機会があれば「子ほめ」のような演目を演ることはある。寄席で自分よりも前に高座に上がった演者が誰も「子ほめ」を演っていない場合などは、真打がたまにはいつもと趣向を変えてと「子ほめ」を演る絶好のチャンスである。大抵は、昼席や夜席の浅い時間に「子ほめ」のような、毎度お馴染みの前座噺は誰かが高座にかけているものなのだ。また、真打が自分の独演会などで(最後に渾身の大ネタが控えている場合などは特に)一席目に演る軽めの噺として「子ほめ」などをさらりと演ってせるというようなことは往往にしてある。

前座時代に誰もが最初期に必死になって覚えた噺であるから、そう簡単には忘れないだろうし、演ろうと思えばいつだってできる。ただし、シンプルでわかりやすい落語らしい落語なだけに、下手をすると大怪我のもとにもなりかねない。それは、いわゆる前座がやる型通りの「子ほめ」ではなく、真打ならではの味のある「子ほめ」でなくてはならないからだ。しかし、シンプルでわかりやすい落語らしい落語ほど、ちょっとした違いや深みからくる妙味を出すのはなかなか難しいものであったりする。

ただし、時として、あえて噺家としての格の差を示そうとするかのように、真打が「子ほめ」を演る場合がある。落語立川流家元立川談志などには、多分にそういうところがあった。一点の澱みもなくさらさらっと「子ほめ」を語りきって、「どうだい、まいったか」とマウント・ポジションをとる。落語界の反逆児と言われた談志であるからこそ、そうしたちょっと子供っぽいことをしたとしても、どこか無邪気さがあってかわいいなと思えたりもするのだが、普通は見ていてあまり気持ちのいいものではない。真打が丁寧に丁寧に「子ほめ」を演ってみせて、はにかみつつ「まあこんなもんです」というぐらいの軽みがあった方が見ていて清々しい。

そういう意味で「子ほめ」とは、なんとも小難しい演目なのである。噺の内容そのものは、シンプルでわかりやすい落語らしい落語なのだが、その分だけ演り方に十分に気を使わなくてはならないようなところがいろいろある。呑気な粗忽者が、ちょっと知恵のあるご隠居から、ためになる話を暇潰しに聞いてきて、その付け焼き刃の知識を早速そこら中で試してみるものの、頓珍漢なために片っ端から失敗する、というストーリーは、落語の噺の中では日常茶飯事的に起きるおうむ返しと呼ばれる形式である。飼い主がおうむに言葉を教え込もうとしても、ちらっと二、三度やったぐらいでは覚えきれずに、教わった通りにうまく喋れなかったり間違った言葉を喋ってしまったりする。ただし、おうむは飼い主が言っている言葉に興味をもち、それを覚えようとしても中々最初は上手に真似ができなくて失敗しているのだが、長屋の八っあん熊さんの場合には、折角ご隠居が何かの役に立つだろうと知恵をつけてくれようとしても、最初からそれを飲み込もうという気がさらさらないのだから始末がわるい。基本的に、人でありながらも最早おうむ以下な有り様なのである。よって、結局みんな付け焼き刃でちっとも使いこなせずに終わる。こうしたおうむ返しを落語国の人々は、ずっと繰り返しているのである。

三 シンプルでわかりにくい

しかしながら、形式的にシンプルでわかりやすい落語らしい落語だからといって、「子ほめ」が内容の面からいってもものすごくわかりやすい噺なのかというと、特段そうでもない。長い歴史と伝統をもつ演目であるがゆえに、たくさんの人が手を加え、付け足したり削ったりと非常にたくさんの紆余曲折を経て現在にまで至っている。よって、「子ほめ」には、非常に細かい部分にまで、噺の構成やくすぐりのヴァリアント(変型/異同)が多々存在するのである。中でも、そのもっとも大きな部分で言うならば、「子ほめ」のサゲに関しては、特にこれと決まったものがあるわけではない。さまざまなパターンの、さまざまなフレーズの、サゲが存在している。このあたりが、一般的には前座噺とされている「子ほめ」が、決して一筋縄でゆかぬ所以でもある。

いろいろなサゲのパターンがあるのは、元々は簡単な短い小咄であったものに、落語的なドラマやストーリーを加えて噺化させてゆく過程で、いろいろなくすぐりのパターンやフレーズが生み出され、それと連関させたようなサゲのフレーズも形作られていったためなのであろう。それは、つまり、もっと噺をおもしろくしようとするための数多の改善がなされた痕跡なのだともいえる。しかし、そうした多くの話者が、それぞれに良かれと思ってやったことが、後々になって余計に物事をわかりにくくさせてしまう収拾のつかなさそのものは、実に落語らしい流れではある。だだし、そういうちょっと面倒な部分の中でもかなり厄介なのは、この数百年の間に何らかの意図をもって誰かが付け加えたくすぐりやひねりの類いが、その後もずっと中途半端な形で形式的に残り続けている点であったりする。

生まれたばかりの子どもを褒めにきた呑気な粗忽者(愚者)が、実際に赤ん坊を見て「まるで、人形みてえだ」というくだりがある。子どもの誕生を純粋に喜んでいる父親は、これを「まるで人形のようにかわいいなあ」と褒められているのだと思い込み、素直に喜んで、そうとまで言ってくれる友人に対して感謝の念を抱きそうになる。だがしかし、よく見てみれば、実際は赤ん坊の腹をぐいぐい押すと「きゅっきゅっ」と泣くから人形みたいだといっているだけだったことがわかる。褒められたと思って喜んだのも束の間、「赤ん坊が腹を痛めてしまう、殺す気か」といって烈火の如く怒り出す。生まれたばかりの子供にそんなことをされたら本当に危険だ。死んでしまうかもしれない。まかり間違えば傷害致死事件だ。誰だって怒り出すだろう。

かつての日本の家には、箪笥などの家具とともに市松人形が飾ってあることが多かった。わたしの祖母の家にも小さい子供ぐらいの背丈の人形が飾られていた。真夜中になると着物姿の人形がガラスのケースの中から出てきて、家の中を歩き回っているのではないかと想像して、ひとりで怖がっていた記憶がある。それぐらいに精巧な出来栄えの今にも動き出しそうな人形だったのである。
今では、市松人形というとガラスケースに収められている高価な置物という印象が強い。だがしかし、こうした人形も、かつては普通に子どものおもちゃとして身近に親しまれていたのである。大きさなどもさまざまで、実際の人間の赤ん坊と同じぐらいの大きさの市松人形もあったという。細密な作りの市松人形であるから、それを使って本物の赤ん坊の世話をするかのようにままごと遊びをしたり、紐で背中にくくりつけて赤ん坊を負ぶう真似事をするのによく使われていたのだろう。
また、かなり上等な市松人形ともなると、腹のところを押すと「きゅっきゅっ」と音がして泣き声をあげる細工がしてあるものも存在したようだ。おそらく、これは、ままごと遊びの最中に、自分で市松人形の赤ん坊の腹を押して「きゅっきゅっ」と泣かせてから、それを合図に赤ん坊を抱き上げてあやしたり、お腹が空いているのかと推察してミルクを飲ませたりする、遊びの中でリアルさを追求するための仕掛けとして装備された機能だったのであろう。
こうした往時の子どもの遊びの中において普通に使用されていた、「きゅっきゅっ」と泣く市松人形の存在を、まったく知らない世代の人々にとっては、生まれたばかりの赤ん坊の腹をぐいぐい押して「きゅっきゅっ」と泣かせている「子ほめ」という落語は、完全に弱者虐待を楽しんでいるような内容にしか聞こえないのである。

そんな赤ん坊の腹を押して泣かせるくだりの直前には、粗忽者が前もって「たいそう大きな赤ん坊だ」と聞いていたことを思い出して、すぐ隣に寝ていた赤ん坊のおじいさんを「なるほど、こりゃでけえや。しかし、ちょいとでかすぎるな」などといって赤ん坊と間違える前段がある。しかし、よくよく見てみれば、額に頭痛膏を貼っているので、これは赤ん坊ではなくおじいさんなのだと気がつく。そこで「道理で、でけえわけだ」なんてことを言いつつ、そのすぐ隣で寝ている赤ん坊を(ようやく、初めてちゃんと)見るわけである。そんなやりとりがあった上でなお、今度は赤ん坊を「きゅっきゅっ」と泣く人形と間違えているわけなのである。

生まれたばかりの赤ん坊ならば、普通は誰だって見ればすぐにわかりそうなものなのに、男がここで粗忽な勘違いを非常に迂闊にも重ねているということをわかっていないと、このくだりはちっともおもしろくないのかもしれない。だが、どうも最近は、赤ん坊とおじいさんを間違えるくだりは、それはそれとしてあり、そのうえで唐突に赤ん坊を虐待するように「きゅっきゅっ」と泣かせて、それに対して「何やってんのよ、駄目じゃん」と苦笑するような形になっていることが多いようにも思える。古典落語の演目を現代の高座で演るときに、ひとつ大きな難点があるとすれば、このように噺が時代とともに形式化していってしまうようなところにある。細かい内容が伝わらなくなってゆくことで古来からのくすぐりの積み重ねが、有機的につながって作用することなく形骸化したものになってしまうようなところもあるのではなかろうか。

「子ほめ」そのものは、長年の風雪を耐え抜いてきた非常によくできた噺であるので、ひとつひとつのパートをきっちりと演じて、粗忽者に頓珍漢な失敗を繰り返させてゆけば、ばっちりと笑いをとれる噺にはなるのである。特に終盤をテンポ良く畳み掛けてゆけば爆笑噺となることも必至だ。ただし、その分だけ、細かなくすぐりの意図や演奏記号でいうスラーで要素と要素が繋がってゆく部分などに関しては、目を瞑って突っ切ってしまうこともあるようだ。立川談志の「子ほめ」ように、とにかく終盤は勢いで一気呵成に押し切って、聞くものを力づくで薙ぎ倒してゆくようにサゲで落とす、というスタイルも間違いではない。だが、そういうものとはまた一味違った「子ほめ」というものもある。いや、「子ほめ」とは、もっともっと味のある噺なのではないかと思ったりもするのである。

四 子ほめとそのサゲ

ここであらためて「子ほめ」という噺について、簡単にその内容をざっと振り返っておくことにしよう。

愚者の職人(名前は特に決まっていない。演者によって、熊五郎だったり八五郎だったりする)が、暇つぶしに近所のご隠居(すでに仕事をリタイアしているご隠居は、自分も毎日これといって特にすることもなく過ごしているため、近所の暇人たちの相手をよくしてくれる)の家を訪れる。ご隠居のとこに贈答品の酒があるらしいという噂を聞きつけて。しかし、一杯飲む気満々で来たものの、無芸な上にお世辞のひとつもいえないようではまるっきり駄目だと、逆にご隠居に諭されるはめに。それでも、優しくて教えることが大好きなご隠居は、他人に酒を奢ってもらうには、お世辞をいって相手を褒めればよいのだと、その方法をいくつか伝授してくれる。

通りかかった商人が真っ黒に日焼けしていれば、商売上手でさぞかし大繁盛なのだろうとお世辞をいう。また、実際の年齢よりも若く見えるといって褒める方法もある。このおだてで、どんな人でも気分がよくなる。だが、その方法では、まだ年若い子どもや生まれたばかりの赤ん坊を褒めようとしても、その見た目以上に若いとおだてることはちょっと不可能である。では、どうしたらいいか。とても優しい隠居は、ここで生まれて間もない赤ん坊を褒めるためのある決まり文句を教えてくれる。ここに、よく知られる「栴檀は双葉より芳し、蛇は一寸にして人を呑む(蛇は一寸にしてその気を現す)」というフレーズが登場する。

あれこれ懇切丁寧に教えてくれた優しい隠居が、せっかく遊びにきたのだから一杯ぐらい飲んでゆけよと愚者に酒を振る舞おうと水を向ける。のだが、当初の訪問の目的が果たせるにもかかわらず、肝心の愚者の頭の中はというと、もう早く誰かにお世辞をいってまんまと酒を奢らせたくて、うずうずしてしまっている。そんなはやる気持ちを押さえきれずに、隠居が言っていたことを全部生半可に聞いただけで通りに飛び出していってしまうのである。教わったばかりの新しい知恵を今すぐ実地で試したくて仕方がなくなるというのは、どこか子どものような無邪気さがあってよいようにも思える。しかしながら、ちっとも人の話をまともに聞こうとしないという男の性質は、この時点で非常によく表れてもいる。

愚者が通りに出ると、早速よく日に焼けている男が向こうから歩いてくる。そこで、隠居に教えられたお世辞を言ってみる。だがしかし、それがまったく顔見知りではない男だったので、急に顔色が真っ黒だなどと言われて、通りすがりに変な男から言いがかりをつけられたと思い込み、いい気分になって酒を奢るどころか逆に怒らせてしまう。失敗である。今度は、よく知っている伊勢屋の番頭が歩いてきたので呼び止める。隠居に教えられた通りにお世辞をいって褒めようとするものの、付け焼き刃の知識なので間違ったことをいってばかり。それに対する番頭の返事もまた隠居が凡例として示していたものとは、全然違っていたため、どんどん会話が噛み合うことなくずれてゆく。愚者が褒めるつもりで言っていることが、みんな失礼な物言いになってしまう。やがて、番頭は怒りだす。またしても失敗である。

これに懲りて、愚者は通りで誰かに酒を奢らせるのは簡単なことではないと、すぐに諦める。そして、今度は子どもが生まれたばかりの家に赤ん坊を褒めにゆき、長屋の付き合いで徴収されたお祝いの二分の元が取れるくらいにその家で酒をご馳走になってやろうという作戦に切り替える。隠居から教わったことを、ここでもあれこれ試してみるのだが、やっぱりうまくゆかない。基本的に付け焼き刃な知識なので、何を言っても、必ずどこか言い間違えている。赤ん坊を褒めるためのお決まりのフレーズも、間違えてばかりで頓珍漢なことを口走ってしまう。新しい家族が増えた家に満ちている幸福に「あやかりたい、あやかりたい」と言うところを、「蚊帳吊りてえ、蚊帳吊りてえ」と言い間違える。これでは何のことだか、さっぱり意味がわからない。最後の手段で、年齢を尋ねて実年齢より若く見えるという(本当は生まれたばかりの赤ん坊に対して使うものではない)、鎧袖一触のはずの褒めを繰り出すことにする。だが、相手はまだ生まれて七日目の子どもで、隠居とてそんな年若い人を褒める方法を最初から教えてはいない。そこで、お七夜だといっているのを初七日といってしまって、相手の気分をさらに害してしまう。生まれたばかりの赤ん坊は、数え年では一歳である。これを褒めようとして、苦し紛れに「一つにしては見た目がお若い」という。すると、「じゃあ、いくつに見えるんだ」と逆に聞き返される。そこで、答えに窮した愚者がいうサゲのひとこと。「どう見てもタダだ」となる。

大まかな噺の流れは、こんなところである。愚者が、ただの通りすがりの人、顔見知りの番頭、隣家の赤ん坊の父親八公を相手に、それぞれにどこでどういう頓珍漢なやり取りをするかという部分、細かなくすぐりの内容、最後のサゲのフレーズには、いくつものヴァリアントがある。しかし、そのすべてのパターンは、この「子ほめ」の噺の構成の基本路線を外れることはほとんどない。サゲのフレーズのパターンには、「どう見てもタダだ」のほかに「どう見ても半分だ」や「どう見ても明後日ぐらいだ」、「まだ生まれてないみたいだ」など様々なものがある。

三代目三遊亭圓馬が江戸落語の演目へと移し替える以前の元々の上方落語ヴァージョンの「子ほめ」には、寝ている赤ん坊の枕元に誕生祝いの歌が届いていることを端緒とする愚者と八公のやりとりが存在した(中世以降の新興の都市である江戸には赤ん坊の誕生を祝う歌を贈るというような風雅な習慣があまり根付いていなかったせいなのだろうか、圓馬はこの部分を割愛している)。赤ん坊を褒めにきた愚者が、目ざとくその枕元に祝いの歌が届いているのを見つける。八公も薄々嫌な予感はしていたのだが、愚者がこれに下の句をつけてあげようと要らぬことを言い出す。そして、そこに勝手に下卑た下の句を付け足して、八公を閉口させるというくだりがあるのだ。おそらくは、この上方版の祝いの歌のやりとりを受け継いだものであろう、通常の赤ん坊の年齢にまつわる褒め損ないのやり取りをやった後に、珍妙な歌のくだりを付け足してサゲにするというパターンも存在する。歌の内容でオチにする形式であるから、こちらのスタイルにも様々なヴァリアントを生み出してゆくことが可能となる。

大正五年(1916年)に出版された初代桂小南の落語集「小南の落語」に収められている「子ほめ」を読むと、最後にあらためて赤ん坊の年齢を尋ねて、「まだ生まれたばかりだから一つだ」と見ればわかるだろうという調子で返され、至極あっさりと「お一つとは、お若う見えます」といってサゲる形式となっている。もう、ここまできてしまうと「タダだ」だの「半分だ」だのと、くどくど往生際悪く何か言ったりはしないのである。それまで散々に褒め損なっていて、失礼な言い間違いで相手に嫌な思いをさせてきた愚者が、遂にここにきて何も言えなくなってしまうのである。妙にとぼけたサゲだけれども、これはこれでありなのだろう。最後の最後に、子供の褒め損ないまでをもし損なうというのは、なかなかに落語らしい落とし方ではなのではないだろうか。

初代桂小南は、明治十三年(1880年)に東京で生まれた。その後、大阪に移り、十一歳で二代目桂南光に入門し、上方落語の世界で修行を積んだ。その後、師匠とともに上京し、東京に活動の拠点を移した。明治十五年(1882年)に大阪で生まれた三代目三遊亭圓馬とは、ほぼ同世代である。圓馬はもうすでに七歳で高座に上がっていたというから、小南も圓馬もともに子役出身の噺家である。また、上方で落語の基礎を学んで、それを東京にもってきている点も非常に似通っている。上方と江戸の、どちらの落語にも精通しているという共通点をもつ二人だが、明治三十八年の第一次落語研究会に参加した圓馬と参加しなかった小南では(当時、二人ともまだ二十代前半から半ばぐらいの若手噺家であった)、やはり少しばかりその後の江戸古典落語との距離の取り方に違いがでてきたようにも思える。

落語集「小南の落語」を見てもわかることだが、桂小南の落語は言葉遣いが大阪弁のままであり、基本的に上方落語そのものなのである。一方、圓馬は上方落語をベースにして、それを東京の寄席向けの噺へと改作していた。上方落語の言葉遣いや内容を江戸落語へとがらりと変えて翻訳した圓馬と、上方落語の素材の味わいを活かして東京人向けのアレンジは特に意識しなかった小南。そのため、「小南の落語」にある「子ほめ」は、元々の上方落語の演目として継承されてきた「子ほめ」の要素を多く残しているものと考えられる。おそらくは、非常にあっさりとした、それ以上にもう何も付け足さないサゲは、より古い型式の上方の小咄的な「子ほめ」のスタイルを踏襲するものでもあるのだろう。

(追記)
BS-TBSの「落語研究会」で放送された柳家喬太郎の「子ほめ」は、最後に赤ん坊の誕生祝いに届いた短冊の歌のくだりがある形式のものであった。通常の「子ほめ」であれば、「どう見ても半分だ」とか「どう見てもタダだ」というサゲのフレーズがくるオチの部分では、「どう見ても厄そこそこだ」と少し前に通りで伊勢屋の番頭を年齢より若く言おうとして失敗したフレーズを何の脈絡もなく赤ん坊を褒める状況でも繰り返し、軽くずっこけさせるだけでそこでオチになるのを回避する。そして、すかさず赤ん坊の枕元に短冊を発見して歌のくだりへとつなげてゆくのである。このあたりの喬太郎の話芸の押し引きや間の作り方は、かなり絶妙である。本来は終わるべきところで終わらないという形式というのは、なかなかに難しいものがあるだろうから。

噺の設定では、赤ん坊の父親の名は、竹さん。その子どもの誕生の祝いに横町の先生が詠んでくれたのが、「竹の子は生まれのままに重ねきて」という歌。竹さんの子どもと竹林に生える竹の子とをかけた、ちょっとベタだが気の利いている歌である。これに愚者が下の句をつけると言い出して詠むのが「育つにつけて裸にぞなる」というもの。最初は着てたものが、そのうち裸になるという歌だが、竹の子になぞらえれて考えれば、最初に生えてきた時は何枚も竹の皮を重ねて着ているが、それがちょうど育ってきて食べ頃になったときには全部皮を剥いて裸にする(そして、料理されて食べられてしまう)ということをいっている。しかし、最初は着ていたのに裸になるという下の句は、そのうちに身ぐるみ剥がされ裸で身ひとつの一文無しになるという意味にもとれるのである。これは、赤ん坊の誕生を祝う歌としては、非常に不適切であるし、全くもって縁起でもない。ただし、これも取りようによっては、愚者が最初に赤ん坊を見たときに、その想像以上の小ささに驚いて素直に「育つかなあ」と漏らした一言に、実は少しかかっているのではないかとも思えて、ものすごく駄目な下の句なのだけれどもちょっぴり気が利いているのだ。

最初から心配していた通り、愚者が酷い下の句を詠んだので父親の竹さんが、せっかくの祝いの歌をめちゃめちゃにしてしまいやがったなと怒り出すのが、元々の上方落語にあった噺の中での愚者と竹さんのやりとり(「小南の落語」では愚者のつける下の句は「成身すれば裸体にぞなる」)。喬太郎は、そこの部分を抜き取ってきて、愚者がつけた非常に失礼で無茶苦茶な下の句を一応のサゲのフレーズにして、竹さんが声を荒げて怒ったところで噺の締めにしている。しかし、いかなる形式であれ、サゲに歌の文句をもってくるパターンというのは、その歌の内容云々に関係なく、とてもおさまりのよいものであることは確かである。喬太郎の「子ほめ」も、とてもきれいな終わり方となっている。サゲで「半分だ」だの「タダだ」だのと言って、聞き手の頭の上にはてなマークがついてしまったり唖然としたままになってしまうよりは、今の時代には、こちらの形式の方がもしかすると合っているような気もする。

五 圓馬と小南

桂小南の「子ほめ」にあって、おそらく三遊亭圓馬の「子ほめ」にはなかったであろうもの。上方落語を東京でそのまま演るか、江戸落語へと翻案するかの違いが、噺の中で大きく浮き出てきている部分がある。それが、冒頭に登場する「灘の酒」なのである。灘の酒とは、酒造が盛んであった摂津国灘地方の生一本の灘酒のこと。良質な清酒の産地が地理的にほど近かった上方の落語では、愚者が隠居(甚兵衛)の家にふらりと遊びにくる理由が、それなのである。噂でタダの酒があると聞きつけた愚者が、隠居のところにやってくる。タダで飲める酒があると聞いたなら、これは行かない手はない。つまり、元々は甚兵衛の家に灘の酒があるという話であったものが、元来の粗忽さゆえにタダの酒だと聞き間違えてやってくるのである。

昭和四十八年(1973年)に出版された、興津要が編纂した文庫版「古典落語」シリーズの「古典落語(続々)」に「子ほめ」が所収されている。こちらの「子ほめ」には、冒頭に灘の酒をタダの酒と聞き違えて愚者がやってくるくだりは一切存在しない。江戸の町では庶民が上方からの下り酒、良質の清酒を飲むような機会はほとんどなかったのである。大抵は、灘の生一本はほかの粗悪な酒とブレンドされ、さらに水で薄めた加工酒、俗に言うむらさめを、安くがぶがぶ飲むのが当たり前の飲み方であったようだ。よって、その部分は江戸の町の風俗を考慮して割愛したのではなかろうか。ただし、サゲは「どう見てもタダだ」である。ということは、冒頭の灘とサゲのタダが掛詞になったオチではないということなのである。おそらく、この形式の(サゲだけにタダが出てくる)「子ほめ」が、明治期以降の東京型の「子ほめ」の最大公約数的な基本形であったのであろう。

初代桂小南に入門し、三代目三遊亭圓馬から厳しく稽古をつけられた逸話でも知られるのが、昭和の大名人八代目桂文楽である。師匠の小南は上方落語しか教えられないというので、当時まだ前座であった文楽(桂小莚)は、上方の噺を江戸落語へ意欲的に翻訳して持ちネタにしていた圓馬から、数多くの噺を仕込まれた。その中には、きっと「子ほめ」も含まれていたはずである。おそらくは、圓馬の属していた第一次落語研究会からの流れを汲む、興津要も「古典落語」シリーズ用に参考にしたであろう東京型の「子ほめ」を。

BSよしもとで再放送されている「花王名人劇場」で、昭和五十年代後半に国立演芸場で収録された番組が時おり放送される。そこには、三代目笑福亭仁鶴や六代目桂文枝(当時は三枝)、桂文珍などの上方の人気噺家が華々しく出演しており、当時の上方落語の絶大な勢いを目の当たりにすることができる。また、BS-TBSなどで放送されている「落語研究会」(第五次)では、解説の京須偕充が、かつては国立劇場小劇場の落語研究会にも上方の人気噺家がたくさん出演していた時期があったと、折にふれて語る。昭和の大名人、六代目三遊亭圓生が亡くなったのが、昭和五十四年(1979年)のこと。この大きな転換点を挟んで、1980年代以降は吉本興業が中心となった漫才ブームの到来などもあり、とにかく笑わせることに特化したサーヴィス精神旺盛な上方落語が爆発的な盛り上がりをみせ、落語界に新しい風を吹かせていた。

このころ、伝統的なスタイルを継承する古典落語を中心とした伝統芸能化への方向へと大きく傾いていた江戸落語は、昭和の落語界をリードしてきた文楽、志ん生、圓生といった大看板が次々と高座を去り、新しい時代の笑いの風にも押され気味になり、かなり下火になりかけていた。ただし、この時期に、上方落語がメインストリームに躍り出たことで、江戸落語の若い噺家の間にも上方落語的な外連味の無いくすぐりによる笑いが取り入れられて、新たな時代の落語を拓いてゆく東西の笑いのミクスチャーが一気に進んだ。

江戸落語の噺家であっても、ごく普通に「子ほめ」の冒頭で、タダの酒のくだりを入れて、サゲは「どう見てもタダだ」で落とすようになったのは、この頃からなのであろう。しかし、立川談志の「子ほめ」には、それ以前からタダの酒のくだりはあったように思う。これは、基本的に師匠の五代目柳家小さんの「子ほめ」を聞いて覚えた形であったはずだ。つまり、それは、上方落語の古典を東京に移入することに熱心であった三代目柳家小さんからの流れを汲む「子ほめ」なのである。

五代目柳家小さんといえば、昭和十一年(1936年)二月二十六日に起きた二二六事件に参加していたことでも知られている。当時、陸軍歩兵第三連隊の二等兵だった前座の落語家、柳家栗之助(後の小さん)は、八重洲の警視庁占拠の作戦に加わっていたのである。最初のうちは演習の一環なのだろうと思っていたが、気付いた時には自分がクーデタ側の反乱軍の一員となっていて、大元帥である天皇の意に反する行動をとってしまったことに、大いに落胆する。事件から二日も経つと、連隊の若い兵士たちは事の重大さに慄いていう、一様に塞ぎ込んでいた。そこで上官が、栗之助青年に仲間たちの前で一席演るように命令する。少しでも場を和ませるために。そこで、前座の若手落語家らしく前座噺の「子ほめ」を演った。だがしかし、誰もくすりとも笑わない。取り返しのつかないことをしてしまって後悔している青年たちが、散々に失敗を繰り返すだけのダメ男の話を聞いたって、おもしろいと感じるはずがない。ただし、この時の柳家栗之助の「子ほめ」にも、きっとタダの酒のくだりはあったはずだ。

事件から十四年後、師匠の四代目柳家小さんが急逝したことを受けて、二ツ目の柳家小きん時代を挟んで九代目柳家小三治を名乗っていた栗之助は、三十五歳の若さで五代目柳家小さんを襲名することになる。このとき、若くして師匠を失った五代目小さんは、八代目桂文楽の門下へと移籍している。初代桂小南の弟子で三代目三遊亭圓馬の話芸に心酔していた八代目文楽と、第一次落語研究会の発起人のひとりであった三代目柳家小さんの孫弟子となる五代目小さんが、ここに師弟という形で交わることとなったのである。

やはり、すべては小南や圓馬や三代目小さんが上方落語を東京にもってきて翻訳したりアレンジしながら噺の移植の作業を進め、第一次落語研究会が落語の伝統と未来を見据える活動を行なってゆく中で、柔軟に歴史と伝統のある上方落語の噺を古典的な江戸落語の範疇に取り入れていったところから始まり、小南の「子ほめ」の形や圓馬の「子ほめ」の形が東京の地で混ざり合い、さらに昭和の終わりには空前の上方落語ブームがあって、よりごた混ぜになるミクスチャーが進み、現在あるような「子ほめ」が形作られていったのであろう。

だがしかし、江戸前の落語では考えられなかった形である、噺の冒頭とサゲの両方にダダが出てくる形式が当たり前のものになってくると、やはりどうしてもサゲのタダの意味は、かつての定型の江戸落語の「子ほめ」とは違ってこざるを得なくなってくる。同じ「どう見てもタダだ」というフレーズが、同じ意味ではなくなってくるのである。

六 まるでタダ

サゲのタダの意味は、それぞれの噺の中でどう違ってくるのであろうか。まずは、ただサゲの部分だけで「どう見てもタダだ」というだけの(灘の酒もタダの酒も出てこない)形式について、少し考えてみる。これは、どちらかというとシンプルでわかりやすい落語らしい落語だといえる方の「子ほめ」である。しかし、そのシンプルさと、すとんと腑に落ちるようなわかりやすさとは、また別物であったりするのだけれど。

生まれたばかりの赤ん坊がいくつに見えるのかと聞かれて、愚者が何を思ったのか唐突にタダだと答える。これはちょっと、あまりにも脈絡がないタダである。自分の頭の中で考えている年齢を聞かれているのに、それに対してあまりにもまともに回答をできていなさすぎる。ただし、それまで散々に失敗を繰り返してきた愚者が、いかにもいいそうなまともさからはズレきっている頓珍漢なフレーズではあるけれど。しかし、(実際のところ)あまり気の利いたサゲにはなっていない。ぽんぽんと笑えるくすぐりを連発してきた後で「どう見てもタダだ」では、笑うに笑えない(だろう)。おかしな物言いが、すべて笑えるとは限らない。そして、気の利いていないサゲも、あまりサゲらしくはない。

ここで愚者がいっているタダというのは、たったこれだけ、僅かこれっぽっちという意味のタダである。このタダという言葉は、僅かこれだけということを意味する「たった」という言葉から派生したものといわれている。赤ん坊の父親は、生まれたばかりだから数えで一つだというけれど、だがしかしこれをさらに歳若くいって褒めようとするのは、かなり無理がある。一より下の年齢はもうないからである。そして、苦し紛れに口をついて出てきた言葉というのが、「まるでタダだ」であったということ。父親は生まれたばかりで一つだといっているけれど、少ないながらも僅かにではあるがあるという程度のお若さだと褒めた(褒め損なった)一言が、「タダだ」になったわけである。このとき愚者は、褒めるべき対象がほんの僅かにではあるが(実際に、生まれたばかりの小さな赤ん坊は、すぐ目の前に存在しているのだから)そこにあるのを、その目で見ていたことになる。

だがしかし、冒頭にタダの酒のくだりがあって、サゲが「まるでタダだ」となっている構成の噺では、このときに愚者の目に見えているものは、またちょっと違ってくる。冒頭での灘の酒の「灘」と聞き間違えている「タダ」とは、一銭も払うことなく無料で(タダで)飲める酒という意味でのタダなのである。そこに酒はある、だけどおあしは(料金は)かからない。このタダは、無でありゼロであることを意味するタダなのだ。すると、サゲの「まるでタダだ」の「タダ」も、落語の噺というものの性質上、自然に冒頭のタダを受ける形のタダということになる。よって、「まるでタダだ」のタダは、そこに赤ん坊はいるけど無でありゼロであるという意味をもつタダだと受け取られる可能性がでてくるのである。

赤ん坊の父親に、あんたにはこの子はいったいいくつに見えるのかいと問われて、最後の最後に愚者は、目の前に生まれたばかりの小さな赤ん坊が実際にいて、それを見ているにもかかわらず、これは無だゼロだまだ生まれてないくらいだなどと受け取れるようなことをいっていることになる。これは、実にすさまじい(落語的な)ナンセンスである。この家に赤ん坊が生まれたことを前もって知っていて、わざわざ自分から足を運んでそれを褒めにきているにもかかわらず、たとえ苦し紛れであったとしても、それはまだない無だゼロだと言い切ってしまう。まさに駄目押しのとんでもない頓珍漢さだといえよう。

赤ん坊の年齢を答えるべきところで、その質問すらをも否定して無化してしまうような「まるでタダだ」とまったくズレた言葉を返してくる、この不思議なおかしさとは、あるのにない不思議を感じさせるものである。まだそこにこれっぽっちもない、ゼロなものを「まるでタダだ」と褒めているのだから。なぜ生まれたばかりの赤ん坊が存在するのか、そこにはむしろ無があるのではないかと言っているようにすら受け取れる。ここまでくるともう、まるでマルティン・ハイデガーの「形而上学入門」である。いや、ウィリアム・シェイクスピアの「ハムレット」のあの有名な台詞「世に在る、世に在らぬ、それが疑問ぢゃ」であろうか。あるけれどない不思議を問うようなサゲをもつ「子ほめ」という噺は、かなりとんでもないところにまで突き抜けてしまっている噺だといえるかもしれない

ただし、どこかに突き抜けるにしても、それ以前にひとつ大きなハードルが存在していることだけは、決して忘れてはならない。そして、それこそが「子ほめ」という噺の実は最も大きな難点でもある。つまり、現在では、もう生まれてすぐの赤ん坊を、数え年で一歳ということは、ほとんどなくなっているのである。昭和二十五年(1950年)に公布された「年齢のとなえ方に関する法律」によって、戦後の日本では満年齢での数え方が推奨されるようになり、数え年という年齢のとなえ方は公には使われることがなくなってしまったのである。ということは、もはや日本人の大部分は、生まれた時から満年齢で育ってきているということである。

そういった状況が、現実に確固たるものとしてある中で、子どもを褒めるときにそこに数え年での年齢のとなえ方が採用されていて、それが噺のサゲにも絡んでくるとなると、これはもう相当にわかりにくい落語だということになりはしないだろうか。どんなにタダだ半分だなどといったところで、実際の今の人の感覚からしたら、生まれたての赤ん坊はまだゼロ歳なのである。それが常識的な現代の年齢感覚なのである。よって、半分もあったり、たったこれっぽっちでもあったりするというのは、実年齢のゼロ歳よりもまだ全然多くいってしまっていることになっているわけで、ちっとも褒めにはなっていない、のである。この部分、噺の最も肝心なサゲであるのだが、かなり感覚的にズレてしまっているものがあり、本当ならばなかなか笑うに笑えない、のではないか。

しかし、そうした状況を踏まえた上で、さらに逆に考えてみるとするならば、もうすでに七十年以上も前に使われなくなった数え年という年齢のとなえ方を、まるで今もまだそれが当たり前のことであるかのように噺の重要な部分に組み込んでいる「子ほめ」という落語が、ほとんど昔のままの伝統的な形式や構成を保ったままで、普通に今も生き残り続けているということは、よっぽどに不思議なことであるのかもしれない。赤ん坊の父親は「今日は、お七夜だ。だから、まだ一つだ」などと、今も平然といっているのだ。そこで、「いやいや、まだ一歳の誕生日が来てないから、まだゼロ歳ですから」なんていうつっこみを入れる人は、まずいない。

このアナクロニズムこそが落語なのである。といえば、まあ、その通りではある。しかし、遅かれ早かれそうした感覚的錯誤のずれは大きくなりすぎるほどになり、誰が聞いても噺が珍紛漢紛になってしまうのではなかろうか。そうしたら、そのようなアナクロニズムも本末転倒ではあるまいか。

七 子と母

数え年というものは、もはや時代にそぐわぬものとなりつつある。だが、「小南の落語」の「子ほめ」を見てみると、そこにはさらにもっと今の時代にはそぐわないくすぐりが多々あって、かなり驚かされることになる。大正時代の始め、今から百年以上前のことではあるが、現代の感覚からすると、これで本当に笑えたのだろうかと、とても不思議な気分になってくるようなことが、結構平然と高座において語られていたようなのである。

小南の「子ほめ」で、やはりまず気になるのは、前述した赤ん坊の腹を押して泣かせるくだりである。しかし、それに輪をかけてひどいと感じられるのが、当の周囲の人々から褒められるべき赤ん坊を生んだ母親の扱いである。小南の噺の設定としては、愚者が赤ん坊を褒めにくる前日にお産をしたばかりで、母親は髪を結う暇もなく疲労して布団に横になっている。産褥熱で発熱しているらしく、頭に布を巻いている。これを見た愚者が、「お前の嫁さん、向こう鉢巻で髪振り乱して今から喧嘩にでもいきそうな勢いだな」なんてことをいう。無事に出産という大仕事をなしとげたことを労うような言葉は、ひとこともなく、発熱して具合が悪くぐったりと横になっている人に向かって、とんでもない無茶苦茶なことをいっているのである。

未開の古い社会において、女性の月経や妊娠・出産といったものを、人間の力や人知の及ぶ範疇を越えた猛然たる自然の力の下にあるものとして、禁忌しタブー視することはよくあることである。「子ほめ」が、ちょっとした小咄から落語の噺へと発展していった江戸時代や明治時代においても、出血があり胎盤や汚物(胞衣(えな))の排出をともなう出産の行為が、新たな命の誕生という喜びに付随した汚穢的な不浄なる現象として忌避されていた部分は、やはりまだ色濃く残っていたのではないか。

赤ん坊の父親も、そこに寝ている出産を終えたばかりの母親を、自分の嫁さんだとか赤ん坊の母親だとかはいわない。どういうわけか少し突き放すように「あれは産屋人や」などといっている(産屋とは、穢れをともなう現象である出産を行うための特別な小屋または部屋のこと。落語に出てくるような裏長屋の狭い家では、そんな特別な部屋は設けられなかっただろうが。しかし、産婦のことを呼ぶ名称としては残ったのであろう。そこには、本来ならば産屋に隔離されてしかるべき穢れた存在だという意味が、まだ強く込められているようにも思われる)。出産や産婦を穢れのあるものとして見る、古くからの風習や伝統のようなものは、近代以前の日本の社会にも根強くあったことは確かである(より正確にいえば、近代以降にも女性を卑下し蔑視する古くからの風習や伝統のようなものは根強く残り続けている)。そのことを、小南の「子ほめ」は、とてもよく伝えているように思える。

昨日までは、何もなかったところに新しい命が誕生し、この世界で当然のことのように生きてゆこうとしている。そんな今日の世界の有様は、明らかに昨日までの世界とは、まるでがらりと変わってしまっている。新しい生命の誕生とは、そうした恐るべき力を内にひめている現象なのだ。無限ではない世界に人というものが新たに一人増える現象である出産とは、何か得体の知れないものが地の底から湧いてくるような、とてもおぞましい力がはたらくものと考えられていた。そうした畏れの感情や現象を忌避する部分というのは、人間が人間となったばかりのいにしえの時代よりずっと存在し続けてきたものなのであろう。

英国BBCが制作したドキュメンタリー番組「灼熱の50℃を生きる」に興味深いエピソードがあった。気候変動の影響によって、深刻な干魃被害に悩まされているナイジェリア中央部のキランクワでは、新しい井戸を地下八メートル以上も掘っても、ちっとも水が出てこなくなってしまった。これまでにこんなに深く地面を掘ったことはないと作業中の男性はいう。そのため、毎日祈りながら井戸の掘削作業を行なっているというのである。まずは、早く水が出てくることを神に祈る。そして、次に穴の底から悪魔が出てこないように祈る。空の上にある天国は神の住む場所だが、地下には悪魔の住む地獄がある。だから、あまりにも深く地面を掘りすぎると悪魔の怒りを買って、作業員は呪われてしまうというのだ。ゆえに、作業の無事を祈りつつ日々井戸を掘ってるのだという。

このような地面の下はおぞましいものが住む場所という考え方は、日本の神話にも見ることができる。死したイザナミ(伊邪那美)が下った黄泉の国とは、地の底にある死の国と考えられる。そして、地上のすべての罪や穢れもいずれそこに下りて行くと考えられていた。古くから出産の際に排出される胎盤などの胞衣のたぐいを、すみやかに地中に埋めて処理する習わしがあったのは、こうしたイザナギやイザナミの神話や黄泉の国と結びついていたと考えられよう。太古から汚穢に対する禁忌からくる穢れたものを地中に返す儀式が繰り返され、それが長い時間をかけて慣習化していたのであろう。そのような日常の中から悪魔的なものやおぞましきものを遠ざけようとする心性が、産屋というものを作り出し、赤ん坊を生んだばかりの母親を産屋人と呼ぶ、日常的な(日常からの)距離感となって「子ほめ」という噺にも表れているのである。

八 子と仏

「子ほめ」という噺の基本的な構造として、褒めと貶しというふたつの言表を対比させ、それぞれの両極端を行き来する滑稽さをおもしろみの軸としているようなところが多分にある。褒めも貶しも方便で紙一重のようなところがあるのだが、ひとつ間違うと、まったく元々の狙いとは違った真逆の結果をもたらすことがある。そこにできるギャップや落差、バランスの崩れ具合を、ばかばかしい笑いにしてゆくのが、「子ほめ」という噺である。方便の嘘であるお世辞をいわれて褒められて、素直に人はいい気分になる。逆に、嘘のない真実をいわれて、出し抜けに人は貶されたと腹を立てたり怒ったりもする。

こうした褒めや貶しに対する人の行動や反応を笑いに変換してゆく中での、極端に褒めたり極端に貶したりする極端な会話が、「子ほめ」という噺の中には何重にも積み重ねるように取り入れられている。そうした落語的会話の最も過激なものが煮詰められてゆくことで、小南の「子ほめ」のような形となっていったのであろう。それは、褒める貶すの会話からくる笑いを過激に追求した噺として往時には抜群の切れ味を誇っていたのだろうが、あまりにも極端すぎて今の時代にはちょっとそぐわない部分ももつ。明治や大正の頃にはまだ、古くからの風習や習慣が色濃く残っていたであろうから、小南の「子ほめ」でも「何もそこまで言わんでも」などといって笑えたのかもしれないが、現在では数え年が伝統としてほとんど残っていないように、生活の習慣そのものが当時とは大きく変化してしまっているのである。よって、あまりに極端すぎる褒めや貶しでは笑えないのである。ぎりぎり笑いになる極端さが求められているという意味では、今の笑いの方が昔の笑いよりも極端に難しいものであるのかもしれない。

生まれたばかりの赤ん坊は、まだ話すことができない。これは常識である。だが、その常識が、愚者には通用しない。赤ん坊の父親が、まだ生まれたばかりだから喋れないと説明しているのに、愚者が「物言わんかい物言わんだら唖かい」と返すくだりがある。唖(おし)とは、さまざまな障害が原因で発声や発話ができなくなってしまっている人のことである。今では、あまり使われなくなった言葉だ。話すことや喋ることが不自由になってしまう要因や原因には、さまざまなものがある。身体的障害によるものや精神的障害によるものなど、それは人によってそれぞれ異なる。しかし、それらすべてを、唖のひとことでまとめてしまうというのは、非常に乱暴で配慮に欠けた物言いであるといわざるをえない。また、赤ん坊がちっとも喋らないから短絡的に唖だと決めつけるのも非常に乱暴である。生まれたばかりの赤ん坊に対しても、実際に障害をもつ人々に対しても、礼を失した言い方だ。
噺の中では、愚者が「子のほめそこなひ」をして(図らずも)他者を貶すような極端に乱暴で失礼なことを言ってしまうのが、落語的にはおもしろいのかもしれない。だが、障害のある人や弱者を(それがそうと意図したものでなかったとしても)殊更にあげつらい揶揄するように受け取れてしまう言葉というのは、やはりもう時代にはそぐわないのである。配慮に欠けている。ちなみに、唖は、現在はテレビやラジオの放送では使えない言葉である。

大正十五年(1926年)に出版された和辻哲郎の初期論文集「日本精神史研究」に、「仏像の相好についての一考察」という一文がある。ここで和辻は、生まれたばかりの赤ん坊の寝顔を見ているときに、思わず「まるで仏像のようだ」と言いそうになって、愕然として口をつぐんだというエピソードを書いている。これは、日本人が日常において人に対して仏という言葉を使うときは、それは死人を意味する言葉であるためであった。つまり、生まれたばかりの赤ん坊に対して、そのような縁起の悪い死にまつわる言葉を言いそうになってしまったことを、和辻は条件反射的に恥じたのである。だが、それからもふとした拍子にかすかに微笑んだり、湯に入って手足を元気にばたつかせている赤ん坊の姿を見れば見るほどに、和辻はそこに神々しい仏の姿に近いものを感じずにはいられなかったようだ。そして、その直感を敷衍化してゆくことによって、白鳳天平時代の仏像の作家たちも嬰児の清らかな美しさを(和辻と同じように)見ていたからこそ仏や菩薩の像を創作しえたのだろうと確信するにいたる。

和辻哲郎のいう通り、生まれたばかりの赤ん坊には仏像のような清浄な美しさがあり、仏像にはふくよかで柔らかでにおやかな生まれたばかりの赤ん坊のような美しさがある。また、通夜や告別式の席でよく、故人が「まるで赤ん坊のよう」に安らかに眠っていたという言葉を聞くこともある。仏になっている死人もやはり生まれたばかりの赤ん坊のような清浄で神々しい姿に戻ってゆくものなのだろう。そう考えると、生まれ出ると死に行くとは、とても近いもののようにも感じられる。人は、「まるで仏像のよう」な赤ん坊として生まれ、「まるで赤ん坊のよう」に死んで仏となる。何もなかったところに、ひとつの命が誕生し、死して命の火は消えて、また何もない無に戻ってゆく。そんなことを考えていると、どこかから「どう見てもタダだ」という「子ほめ」のサゲが聞こえてきそうな気もする。

また、「子ほめ」の最終盤の赤ん坊を実年齢より若くいって誉めようとするくだりで、愚者に「この赤ちゃんのお年齢はおいくつで」と尋ねられた父親が「きょうはお七夜だ」と答えるやりとりがある。ここで、愚者が「ああ、初七日か」と、お決まりの縁起の悪いことをいって返答をする。ただの聞き間違いなのか言い間違いなのかはわからないが、相手が言っていることとは真逆のことを言って、相手を褒めていい気分にするどころか立腹させてしまうというお決まりのパターンである。だがしかし、医療技術や環境が発達した今現在の感覚でいうと、お七夜と初七日は遠く離れた真逆のことのように感じるが、その昔の時代にはこの二つが重なるということはそう珍しいことではなかったのではなかろうか。

近代以前、経験値の高い産婆は各町内に一人や二人はいたであろうが、それでも出産の直後に母親が亡くなってしまうケースは決して少なくはなかったはずである。そうなると、赤ん坊のお七夜と母親の初七日は同じ日になることも、ごく普通にあったのではないか。愚者は、新しく赤ん坊が生まれた家には、そうした不幸がないわけではないことを踏まえて、縁起でもない褒め損ないをしているのだとも考えられる。実際、「子ほめ」に出てくる母親は出産後にのぼせたようになり産褥熱で寝込んでいる。感染症を患っている恐れもなきにしもあらずだ。ならば、もしかすると、この家でも赤ん坊のお七夜と母親の初七日が同じ日になっていた可能性は、実はゼロではなかったのではないか。

生と死は、それほど遠く隔たっているものではない。和辻哲郎が不謹慎だと口をつぐんだところで、愚者はただ思った通りのことを正直にいってしまっただけなのかもしれない。

九 タダの念仏

空念仏という言葉がある。空(くう・から)の念仏のことである。仏様の説く法(仏法)や相を、人がその内面において念ずることを念仏という。しかし、仏教について少しでも学んだり知識をもっていないと、心の中で(正しく)仏様を念ずることは難しい。ちゃんとした念仏というものは、普通の人にはなかなかできるものではない。下手にやると、それこそ空の念仏となってしまう。そこで、仏教についてあまり学んでいないものであっても御仏の功徳に与れるようになれるような念仏、仏の有難い御名前を念ずる(口称する)だけで、ただそれだけで念仏だと認められるものとする、念仏の改革開放運動というものが起こった。それが浄土教であり(主に日本においてのみ発展した)念仏宗である。

鎌倉時代、この新興の念仏を重んじる宗派は、混迷をきわめる時代の中で救いを求めていた多くの人々のために、その念仏の教えを急進化させていった。そして、仏の名を念じ、それを口に出して・声に出して唱える行為、すなわちただ称名をするだけで救済され浄土に渡り成仏すると確言し、庶民の間に念仏宗への信仰を広めていった。この浄土信仰からくる開かれた念仏は、法蔵菩薩・阿弥陀如来の名を唱える「南無阿弥陀仏(ナムアミダブツ)」の六字のみからなっている。法然の開いた浄土宗においては、その他力本願の思想から、称名は念ずれば念ずるほどに有難いと思われるよになっていった。親鸞の開いた浄土真宗では、その信仰は急激に先鋭化し、たった一回の称名の重みがより増して、親鸞は一念で十分だといっているにもかかわらず、真宗の熱心な信者であればあるほどに四六時中ずっと念仏を唱えているという事態が現出してくることになる。

そんな、ぶつぶつぶつぶつ独り言のように何か日常の作業や別の用事などをしている片手間に念仏を唱え続けている浄土宗の信者の姿を見て、それを全く心のこもっていない薄っぺらなこれっぽっちも意味のない念仏だと揶揄する用語として、空念仏という言葉が用いられるようになった。念仏は念仏でも、ただ口癖のように四六時中ずっと口をついて出てきているだけで、ちっとも中身のない空っぽの念仏だというわけである。念のため、空念仏という言葉を辞書でひいてみても、「心がこもらず、口先だけで唱える念仏。転じて、実行の伴わない主張。」とか「仏を信ずる心もなく、ただ口先だけで唱える念仏。」となっている。空念仏という言葉の意味は、そのようなものとして一般的に定着してもいる。それは、ただナムアミダブツナムアミダブツとぶつぶつ言っているだけで、何の意味ももたないというわけだ。完全に空念仏の負のイメージばかりが膨れ上がってきてしまっているのである。

しかし、他力本願の浄土教念仏宗の信徒の観点からいえば、そのイメージは真逆に反転するのである。いや、元々の意味を反転させてしまったのが、現在の辞書に載っている一般に流布している意味なのだとする方が正しいのだろうか。その元々あったハードコアな阿弥陀信仰からくる空念仏というものについては、昭和三十年(1955年)に出版された「南無阿弥陀仏」などの鎌倉仏教(法然、親鸞、一遍)の信仰や仏法・思想についての著作を幾つか残している柳宗悦が、様々な文章の中で度々触れている。空念仏というのは、何度も何度も繰り返し称名を唱えて念仏しているうちに、日常生活の中で無意識に念仏が口にのぼっている状態のことである。実際、これは本当に口先だけで心もこもっていない念仏なのである。しかし、絶対的な他力本願である念仏宗においては、この空念仏状態というのは称名念仏ですらをも自力の道を捨ててしまっている絶対的他力状態とみる。それは、もはや自分の意思で言っているのではない(迷いや雑念のない)空っぽの念仏なのである。称名し全てを阿弥陀如来にお任せしてしまっている自分は、もうすでに空っぽになっている、ということなのだ。自力で念仏をしているうちは、そこに如来への信仰の迷いが常につきまとう。自力の行に等しい念仏は捨てられなくてはならない。口先に自力での念仏がのぼってこなくなるくらいまで繰り返し四六時中念仏することで、空念仏の境地にある念仏にまで如来に引き上げてもらうことができるのである。そこには自力もなければ自分もない。完全に絶対的他力によって念仏される念仏(念仏が念仏する念仏)が、空念仏なのである。

空念仏とは、それはもう念仏そのものが念仏しているようなものである。仏が仏を念じている念仏である。そこに自分はなく、空っぽなものだけがある。称名している人はいるが、そこあるのは仏が仏を念ずる空念仏だけなのである。空っぽであることは、ちっともないことであるし、ゼロである。つまり、「子ほめ」でいうところの「まるでタダだ」なのだ。また、空であることは、迷いがなく寂静の境地に入っている状態でもある。つまり、タダなものは、ないけれどあるものである。寂静の境地に空っぽのままあるのが、タダなのだ。そして、そうしたタダのことを、唯識ともいう、法性ともいう、それをまた悟りともいう。悟りとは、生滅を越えていることである。悟っている人は、寂静の境地にあるタダの人であり、不生の人である。空っぽで、そこにいるけどいない、有るけれど無い、無いけれど有る、不思議な状態である。また、生滅を越えた不生には、立川談志が「子ほめ」のサゲで使っていたフレーズ「まだ生まれてないみたいだ」を思い起こさせる部分もある。不生とは如来の異名であることを踏まえると、この立川談志のサゲは、さらに深い。

柳宗悦は、浄土教の称名念仏の思想には千鈞の重みがあるという。つまり、どう見てもタダな空念仏には、千鈞の重みがあるのである。タダには、空であるがゆえの重みがあり、生滅を越えた迷いのない軽みがある。どう見てもタダな空念仏は、どう見てもタダな悟りなのである。

一〇 愚者と正直者

立川談志という噺家は、「子ほめ」を聴衆を爆笑させる滑稽噺とは、もしかするととらえていなかったのではなかろうか。それは師匠の五代目柳家小さんの「子ほめ」を継承している部分を多分に残した形式であったが、談志の「子ほめ」にはそれに輪をかけてクールな感触があった。

よくある丁寧に笑いに笑いを積み重ねてゆく展開を、ことさらに避けようとするかのように、談志の「子ほめ」は終盤に向けてぐんぐん勢いをつけてスピードアップしてゆく。愚者が失敗を重ねて大変なことになってゆく子ほめの場面を、まるでブレーキの壊れた車が猛スピードで次々と障害物に突っ込んでゆくように捲し立てるのだ。褒め損なわれる側にしてみれば、それは災難に次ぐ災難、大惨事である。よって、そのやや暴走気味の速度にも絶妙な臨場感が備わることになる。

そして、談志の中には、このどうしようもない愚者を、どこか突き放して冷ややかに見ているような視点が、(その業を肯定しながらも)確実にある。生まれたばかりの赤ん坊に長命の相があるので「あやかりとうございます」とお世辞をいわなくてはならないところを、愚者はいうべきことを失念し「どうかこういうお子さんに蚊帳吊りてえ、蚊帳吊りてえ」とわけのわからないこという。ここで談志は、さらにもう一歩踏み込んで「首吊りてえ、首吊りてえ」というフレーズを「蚊帳吊りてえ」の後に付け加えるのだ。ここまでくると、もう本当に不謹慎である。そして、この縁起でもないフレーズは、思わず漏れ出た談志の心の声のようにも聞こえるのである。こんなどうしようもない噺、もうやってらんないよ、いっそのこと俺も「首吊りてえ、首吊りてえ」といっているかのように。

この無茶苦茶な噺を口演しながら、その腹の中では、こんなにひどく人を貶す噺で爆笑するなんてのは、実に品のないことだと思っていたのかもしれない。やはり、何といっても「子ほめ」は、常にまくらの冒頭で語られる、人間なにごとも付け焼き刃ではダメという、そのひとことに尽きるのではなかろうか。噺そのものがどうしようもない内容なのは、そのまくらの頭でお伝えした最も重要なことを際立たせるためなのかもしれない。そういう意味では、「子ほめ」は滑稽噺などでは決してなく、人の生き方を説く教訓譚であるのではなかろうか。

おそらく、そのまくらで言ったことは、立川談志から立川談志に向けての戒めの言葉でもあったのだろう。付け焼き刃の芸では、噺家とはいえない。また、それと同時に、それは、どんどん軽薄で中身のないものになってゆく世の中に向けて発せられた諫言であったのかもしれない。だから、談志は「子ほめ」を聴衆の顔面に向けて、マシンガンでもぶっ放すかのような勢いで口演していたのではないか。落語を聞いて笑いにきている聴衆に向けて「みなさん、これねえ本当にもう笑いごとではないんですよ」とでもいうかのように。「ねえ、あなたがた、いつの間にか、知らず知らずのうちに、この噺に登場する愚者のようになっていやしませんか。頼むから、ちゃんと目を覚ましていてくださいよ」と。

しかし、ひとたび高座を下りれば、立川談志という人は、「人生、成り行き」といって憚らない一流の芸人らしい芸人でもあったのだけれど。

お世辞という方便の嘘を、うまく使いこなすことのできない愚者は、もしかするといたってまともな正直者なのではなかろうか。覚えたての付け焼き刃の知恵だから、失敗してしまうところもあるのだろうけれど、そこには根が正直だから方便の嘘もうまくつけないという部分も、もしかすると大きく関係しているのかもしれない。実際、少し貶すところのあるようなひどいものこそ、嘘でもお世辞をいって褒めてあげるべきものなのである。一応の建前として。だから、わざわざ褒める必要のないものに、お世辞をいって褒めるというようなことはないのである。

愚者は、一杯お酒を奢ってもらいたい一心で、他人をどうにかして褒めようとしてあれこれ試みるのだが、元々が嘘をつけない性格であることもあり、うまく褒めようとすればするほどに、墓穴を掘って大失敗してしまう。最初から見るからに褒めるとこしかない(ほとんどの)ものには、方便の嘘であるお世辞なんてものは使えないのである。よって、愚者は、何とかそれを褒めようとするそばから貶していってしまう。どこか貶すところが目についてからでないと、そもそもお世辞を使うことはできないのだから。

とにかく、正直であるということは、よいことだ。自分に正直であれば、一生幸せに暮らせる。無理に方便の嘘やお世辞をいう必要はない。いつだって、正直であればよい。結局、タダの酒というのは、正直なものにこそ振る舞われて然るべきものなのではなかろうか。

一一 永遠のほめそこなひ

起源を辿れば中世のころからあった粗忽者の「子のほめそこなひ」をおかしがる小咄から、長い年月をかけて噺へと発展してきた古典落語の「子ほめ」。そして、そのどこにも最終的な完成形が出来あがらなかった噺の形態は、とても古い伝統を持ったスタイルと時代に合ったわかりやすい形式を模索してゆく工夫の数々が、常に混ざり合うことで、様々な変異箇所をもつ「子ほめ」を生み出し続けてきた。これからも、時代に合わせて少しずつ新しくなってゆく「子ほめ」もあれば、多少わかりづらくても伝統を守りつづけてゆく「子ほめ」もあって、それぞれがことあるごとに混ざり合い、ゆっくりと「子ほめ」という噺は更新されてゆくのだろう。そして、いつまでもいつまでも「子ほめ」には、決まったひとつのサゲがつくことはないのだろう。それは、いつだって最も古くて最も新しい落語であって、まるで生き物のように流動し続ける。そういう意味では、古典落語でありながら、本当は永遠の新作落語でもある。だから、いつまでも「子ほめ」は、不思議におもしろいのである。

ホルヘ・ルイス・ボルヘスが「古典について」と題されたエッセイを書いている。この一文の中でボルヘスが、古典を定義づけている箇所がある。

「古典とは何世代もの人々がさまざまな理由からひもとき、読む前からすでに読みたいという気持ちになり、理解しがたいほど忠実に読みふける書物のことである。」

ホルヘ・ルイス・ボルヘス「古典について」『ボルヘス・エッセイ集』(平凡社ライブラリー)

このボルヘスが書いたことに倣えば、古典落語とは何世代もの人々がさまざまな理由からひもとき、聞く前からすでに聞きたいという気持ちになり、理解しがたいほど忠実に聞きふける落語のこととなるだろう。またさらに、これを応用するならば、古典以外のものも定義づけることは可能だ。新作落語とは人々がさまざまな理由からひもとき、聞く前からすでに聞きたいという気持ちになり、理解しがたいほど忠実に聞きふける落語のことである、という具合に。何ということはない、これは「何世代もの」という部分があるかないかの違いだけなのだ。つまり、それぐらいの違いしかないということなのである。そこにはやはり大した違いは存在していないのか。違いは、ないようで、あるのか。ただし、古典落語と新作落語の違いなどは、見ようによっては「まるでタダだ」なのかもしれない。

(2022年、2023年改)



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