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父のさいご 光のなかで

父が亡くなった。
人工呼吸器をつけて3週間にさしかかるころ。
高熱が出て、脈がはやくなった。夜中に看護婦さんより連絡があり、母と弟がタクシーで病院に向かう。  
私は実家に詰めていたのだが、その夜だけ弟に代わってもらい、自分の家に戻っていた。

眠りについたころに電話が鳴って、鳴った瞬間、あぁ、と思った。
母はもう急いで来なくてもいい、と言う。もうわかっているんだから、と。その後、数時間はうとうととして、朝、始発で出かけた。

母も明け方に自宅に戻り、弟もリモートワークの準備に戻ったが、先ほど病院から再度連絡があり、いよいよだから来てくださいと言う。駅で私と待ち合わせをし、一緒にタクシーに乗る。
病院は武蔵野の森のなかにある。途中でくっきりと富士山が見えた。タクシーの中の10分が、1時間の長さに思えた。

何度か訪れた病室は、夜はとっくに明けているのに薄暗く、カーテンの隙間から淡いブルーの光が射していた。

いつもは事務的な対応の、黒縁メガネの看護婦さんがとてもやさしい声で言う。
「15分くらい前までは心臓が動いていました」。

「さっきと顔色が違うわ、顔色が違うわ」
母が言った。それでも私には父が生きているように思えた、手で背中を触った、じゅうぶんにあたたかい。お父さんはまだここにいる、ここにいる。ほおがこけて痩せてしまって、手がむくんで、一か月前に入院したころとずいぶん姿が違う。喉は管がつながれ、ほおには手術のときについたのか、血の跡があった。
おとうさん!と叫んだ。私がきたよ。おとうさんの娘だよ。
だいじょうぶだよ、よくがんばったね、パパを尊敬する、ありがとう、お父さんのおかげで私たくさんわかったよ、大事なことがわかったよ、ぜったいに忘れないよ、お母さんを守るよ。安心して、安心して、だいじょうぶだから。母も泣いて叫んでいた。ありがとう、ありがとう、50年も愛してくれて、あなた。幸せだったわ。

やがて看護師さんと当直医とともに戻ってきた。死亡診断書に書かれた時刻は3月7日7時25分。

母は、夜に3時間ぐらいそばにいたの、一緒に行った旅行の写真を見せたり、手をにぎってずっと話しかけたのよ、と言った。よかった、じゃあ、お父さんきっとわかっていたわね。

私は打ち合わせ通り葬儀会社に連絡する。母は父に着せるために着物を持ってきていた。お稽古のときに着る、漆黒の絹の着物。着物を着た父に、看護師長さんがきて話しかけた。
「伊達さん、お着物、かっこいいですね。とてもお似合いですよ」
生きているみたいに話しかけてくれるようすを、私はじっと見ていた。
30分ほど遅れて、主治医のH先生もやってきた。
ほとんど白髪なのだけれど、よく見ると私よりずっと若い。小柄で、頼りないような、優しすぎるような。
「おとといは、もう少しよくなると、そう思っていたのですが、急にこんなふうになりまして、驚いております」
先生はそう言って私たちに頭をさげた。
「お力になれず申し訳ありません」
「いえ、とんでもありません。ありがとうございました」
そう言いながら、いっしょに特別らしきエレベーターに乗る。父は白い布にくるまれて、葬儀会社の人たちに担架のようなもので運ばれている。私は、まだ父に意識はあるだろうか、と、ややとんちんかんなことを考えていた。意識、というか、個人の意識を保った、霊魂のようなもの。
あるだろう、いやないかもしれないが、あると思わなくてはやっていけない、としたら、何を感じているだろう、やっとラクになったと感じているだろうか、これで家にやっと帰れると思っているだろうか。
「お父さんごめんね、まだ少し先なんだけど、待っているよ」
父はこれから葬儀会社の安置所にゆくのだ。
H先生は病院の、死者だけが通れる出口にまで来て、父に深く一礼した。

私は先生に聞いた。
「あの、先生、今度は母のことが心配なんですけど、肺炎にならないようにどうしたらよいですか」
「え、そうですね、なるべくワクチンを打って…コロナ、それから肺炎球菌の。でも、お父さまの肺炎は間質性という、特別な肺炎でしたから」
「はい、それはわかっています。免疫性の…」
「原因はなかなか、わからないんです。そしてあの、実は私の母も間質性肺炎だったのですが、四年苦しみまして」
「はい」
「さいごは肩で息をするようになりまして、はい」
「なるほど、はい」
私と主治医は中身があるのかないのかわからない会話をした。そのときわかったのは、同じ病気で親を亡くした者同士だということだった。私のなかで何か腑に落ちた感じがした。

タクシーを呼んだ。母は病院の支払いを気にしていたが、それは二週間後になります、と看護婦さんが言う。私と母は病院を出た。最初に入ってから、2時間以上超過していた。空は青く、タクシーは光でいっぱいの春の森を突っ切ってゆく。私はまだ、父の肉体から離れた魂が、どこで何を感じているだろうかということを考えていた。


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