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(父がこの世からいなくなってめちゃくちゃ悲しくてどうにもならないよ)

実際に、もう80歳ですし寿命で順番ですとか、思えば幸せな人生でした、とか言わざるをえない。コロナ禍なのに入院できて幸運でした(事実)安らかなさいごでした(たぶん)、とか。父を知っている人や職場の人たちには大人としてそう言わないといけないと思うんだ。でも本当は、もっと何かしてあげられなかっただろうかという吐き気のような後悔、さいごに父の顔を見たときの体から何か噴き出るようななんとも言えない絶望的な感情を、葬儀から一週間たった今、まだ1時間に1度ぐらい思い出す。お父さんがこの世にいない?そんなことってある?あの声や存在感、気配をまだ感じるんだよ。悲しいというか、恐怖もある、祖父母のときにはそこまで感じなかったけど、自分の人生も半ばを過ぎてやがて終わるんだ、とか、配偶者や母、きょうだいなど親しい人たちもいずれ死を迎えるんだ、というリアリティの圧倒的な感じ、さいごは「立派な大腿骨ですね~」とかの焼き場の骨の品評会、思い出したら滑稽なような気もするけど、これが人生の真実ならば、私が夢中になってやってきた仕事とかこれまで悩んできた人間関係なんて、ほとんど夢じゃないか、なんだったんだ、味気ないものだ、意味なかったよ、という感じ。あと、父の仕事(香道)や着物など、残された膨大とは言わないが資料の整理、そして自分がほぼ無名だった父の仕事を継ぐと約束はしたものの父以上に無名のまま終わるんじゃないか、いや無名でいいんだけどそれなりに満足して楽しんで引き継いでいけるんかという不安。そしてテレビをつければ戦争、地震、停電、怖いよ怖すぎる、生きてゆく自信がない。いや、そんなこと言っても生きていくんだけどさ、死んだら人はそもそもどうなるんだろうという小学生以来の根源的な疑問さえも蘇ってくる。臨死体験は酸欠になった脳の作用だとか気安く言う人もいるけど、いやそんなこと言ったら人間なんてなんでも脳の作用じゃん、量子力学でも宗教でもオカルトなんでもいいから宇宙の大いなる愛とか霊魂とか輪廻転生もしくは解脱とかそういうのが必要です私は。無理です。死んだら無になる、というのは物質的にはそれでいいんだけど、人は死んだら無限の愛に包まれてチェレンコフ光(青い光)を発する!!とでも思わないと無理、というかそうじゃないと生きてる意味とかなくないか。だって父の気配を生々しく感じるんだもん。ひええ。ああでも私はいつまで生きられるのかな。もうそんなに長く生きない気もするし、さいごまで孤独な老婆になってもなんとか耐えて生きているようなイメージもある。高齢化社会って家族を失う経験するひとたちが増える社会のことじゃない?みんなよく耐えているね?しかし「孤独な老婆」ってひどい言葉だよね、なんていうワードか。いや、孤独ってそんな簡単なものじゃないよね、孤独っていうのはさーー。たとえ自分の愛する人が亡くなったとしても、愛の記憶があれば孤独とは違うような気もするしね。
疲れた。ぜんぜん眠れない。こういうことをしゃべれる相手もいない。いないわけじゃないけどえんえんとこんなこと言われても相手も困るやろ。だから書くしかないんだけど。がんばろう。みんなきっとそうなんだよ。noteにこんなに親のみとり、とか高齢両親、とか介護、っていうタグがあるのにびっくりしたんだ。そうなんだ、親をみとる、見送る、みんな。悲しいよね、悲しいよ。夜中にPCカタカタ言わせちゃうよね。考えてみれば誰もが経験する当たり前のことなのに、めちゃくちゃ悲しくてどうにもならないよ。


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