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懸賞ハガキで気づいたちょっとした私なりの成長

先日、帰宅すると自宅の郵便受けに小さめの茶色い封筒が入っていた。
送り主を確認した私の手は震え「ヤバイ」を連呼しながら家の鍵を素早く開けた。

部屋に入るとリュックを肩から乱暴にずり落としペン立てに差してあるハサミを手に取りトントンと中身を下にずらし、中身を切ってしまわないように慎重に封を切った。
封筒に入っていたものは予想通り写真だった。美しい顔をした人の写真に直筆と思われるサイン。それは以前雑誌の懸賞に応募したものだった。

数ヶ月前のこと、私は雑誌を購入した。自分の好きなジャンルの雑誌である。最近は雑誌を購入すると置き場所に困るからという理由であまり買わないように心がけているのだけれど、本屋さんで軽く中身を確認するとついついレジに持っていってしまう。
家に帰ってある程度読み終えると最後に懸賞のページがあり、せっかく雑誌を買ったのだしと官製ハガキを取り出してペンを持っている自分がいる。

けれど、ずっとこの作業が苦手だった。名前や住所、年齢と考える必要もない事を書く。もう少しで完成という時に「この本の感想」というところでどうしてもペンが止まってしまっていた。
何か気の利いた事を書けないもんかと深く考えすぎるあまり何を書いたらいいのか分からず、しばらくハガキを本に挟んで放置してしまうことが度々あった。締切近くに思い出し結局どうせ当たんないしまぁいっかと実際ここ数年1度も当たった事もなかったものでピャピャッと適当に書いてポストに放り込む事が多かった。

その意識が変わった事に気付いたのが今回当選したハガキを書いた時だった。いつもは「何書こう、感想なんてめんどくさいな」なんて思うばかりなのに不思議とその時は「何を書いてみようか」とスマホのメモに下書きをワクワクしながら書いていた。そんな自分が自分でも意外で仕方なかった。

その時気づいた。この心境の変化はきっとnoteをやり始めて定期的に文章を書くようになったからだ。と。

その時書いたものが良かったから当選したのではないだろう。そもそも内容を読んで当選者を決めているわけでもないと思う。けれど、今思うと今までと違って前向きな気持ちで書いたのが良かったのかもしれないなんて思う。まぁ、ただの偶然なんだろうけど。

私はnoteを始めて文字を書く事に苦痛を感じにくくなった。それは単に文章を書く事に慣れてきたのかもしれない。毎日書いてるわけでもないしどちらかと言えば更新頻度はかなり低めだ。書くスピードが遅い私だけれど、頭の中は結構な割合で「何を書こうか」という思考で埋め尽くされている。

私が今している仕事は文字を書く事がまずない。パソコンのキーボードを打つ事もない。そもそも文章を考える必要がない仕事。だから書かないと思考が衰えてしまうと思った。実際、文章を書く事が苦手だったし苦痛だったから。

けれど今ではあまりそうは思わない。書いた内容の良し悪しは置いておくとして、とにかく書く事を苦とも思わないしそれ以上に頭の中で自分の中の何かしらを考える時間が増えて少し生活が気持ちの面で豊かになった気もする。

去年憧れだけで購入したノートパソコンが今でも死んだ貝のようにほとんど口を開く事なくデスクに置かれている。たまにパソコンを開いてみるけれど、結局何をするでもなく気づけば画面は暗くなっていて、noteはスマホで書いてしまっている。不思議とスマホの方が頭の中の事を途切れる事なく書ける気がするからだ。でも、ちゃんとパソコンにも向き合いたいって思っている。パソコンに向かうって事は書く事だけに集中するという事だと思うから。ちゃんと貝を生き返らせよう。

文章の全く書かない仕事をしている私だけれど、文章を書く習慣を身につけたお陰で懸賞のハガキぐらいは苦痛を感じる事なく書けるようになった。これはなかなか嬉しい私にとってほんの小さな成長だ。文章で食べていけたらどれだけいいだろうかと、浅はかな私はそう思ってしまう。ようやく懸賞ハガキが書けた程度の人間が何を言うかと思われそうですが、まぁ夢とか憧れみたいなもんって事で。


どんな文章も嫌だとか面倒だとか思いながら書く事よりも、楽しんで「さぁ、何を書こうか」と前向きに書く事が大切なのだと部屋に飾られたサイン入りの写真を見るたび思い出せる気がする。

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