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映画『やがて海へと届く』レビュー

【葛藤と後悔の渦巻く海から浮かび上がるために】

 言えなかったことを悔やんでいる。応えられなかったことを悩んでいる。そんな思いを引きずったままで生きていくことの辛さを、誰だって大なり小なり感じている。

 だからといって忘れてしまうなんてことはできない。無かったことになんてできはしない。どうしたら良い? 歩き続けるしかないのだと、『やがて海へと届く』という映画に教えられる。

 彩瀬まるの原作を、『わたしは光をにぎっている』と同じ中川龍太郎監督が脚本とともに監督した映画。『進撃の巨人』や『王様ランキング』で知られるアニメーションスタジオのWIT STUDIOが製作幹事をしているという点も、『わたしは光をにぎっている』と同様だ。

 そして今回は、ながべ作のコミックス『とつくにの少女』に付いた短編と長編のアニメーションをWIT STUDIOで手がけたアニメーション作家の久保雄太郎と米谷聡美が、ここでも組んで短いアニメーションを作り冒頭に入れ、クライマックスに近いところにも入れて、ある種の幻想と現実との間に観る人を行き来させる。

 ホテルのバーで給仕をしている湖谷真奈という女性のところを遠野敦という男性が訪ねて来て、卯木すみれという女性の荷物を片付ける段取りを付け始める。遠野の部屋にはすみれの荷物がいっぱいあって、同棲していたような印象をまず浮かばせる。けれども、そんなすみれの荷物が真奈の部屋にもあるという。

 真奈と遠野の2人と関係があるすみれとはどういう人物なのか。おそらく死んでしまったのだろうけれど、どのように死んだのかはまだ分からない。自殺? 病気? いろいろな想像を浮かべさせつつ、まずは真奈とすみれとの出会いが真奈の視点から振りかえられる。

 大学に入ってさっそく新入生勧誘の洗礼を浴び、戸惑っていた真奈の横から割って入って来た女子が1人。それがすみれで、2人ともそのまま新歓コンパに参加したものの、社交性に乏しい真奈は酒を飲み過ぎたこともあって気分を悪くしてしまう。そんな真奈をすみれが介抱したあたりから、2人の関係が始まっていく。

 大雨が降る夜、何か理由があって真奈の部屋に転がり込んできたすみれは、やがて遠野と仲良くなって真奈の部屋を出て遠野といっしょに暮らし始める。そんなすみれに少し心を引かれつつ、彼女が選んだ道だからと見送る真奈の態度は、青春の苦さを漂わせる光景のひとつではあるが、それはあくまでも真奈の側に断った一側面に過ぎなかった。

 いつ、どこで、どのようにしてすみれがいなくなったのかが明らかにされて後、今度はすみれの視点から真奈との邂逅とそして同居、それから別々の道を歩み始める経緯がつづられる。そこからは、届かない思いの歯がゆさといったものが浮かび上がって観る側を悶々とさせる。

 どうして言わなかったのか。どうして応じなかったのか。実は向かい合っていた2人なのに、すれ違っていたそれぞれの思いが、どこかでしっかりと絡み合っていたらと思わずにいられない。

 2011年という年を挟んで流れるストーリーのある出来事がアニメーションで描かれるのは、それが実写ではあまりにリアリスティック過ぎることもあったかもしれない。アニメーションという絵によって現実を幻想化させる手法が使われていることで、惨劇の傷ましさよりもぐっと個人に近いところにある離別への悔しさであり悲しさが浮かび上がってくる。

 同時に、幻想の中にとらわれていた真奈や遠野の時間が現実へと戻って動き始める様子を、クライマックスのアニメーションの後に戻って来る現実の光景が伝えているのかもしれない。アニメーションスタジオが製作に絡んでいるからといって、アニメーションが無理に使われているのでは決してない。

 誰にでもある捨てられない気持ちを描き、そこから抜け出す道を指し示す物語。湖谷真奈のあまり起伏を感じさせずに淡々と日々を生きいく姿を岸井ゆきのが演じ、卯木すみれの朗らかそうで内心の苦渋をほのかに滲ませる表情を浜辺美波が見せてくれる。長い髪を次第に短くして、すみれの言葉にできない思いのようなものを漂わせた浜辺の装いぶりには感嘆させられた。

 そんな2人の女優を軸に、無愛想だが無関心ではないコックの国木田聡一を中崎敏、優しいが弱さもあって壁を超えられなかった店長の楢原文徳を光石研といった役者が演じて取り巻き、静けさの中にしみ出てくる寂寥や慈愛といった心情を感じさせてくれる。

 そんな物語に浸り、葛藤と後悔が渦巻く空間へと身を委ねることで共に旅をしてそして見終わった後、流れるエンドロールとともに浮上して私達は歩み始める。

 今を。そしてこれからを。(タニグチリウイチ)

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