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映画『子供はわかってあげない』レビュー

【豊川悦司の海パン姿を日常のひとつとして受け止められるようになる】

 「なんでもかんでも漫画を映画にするなという話ですよ」という作中のセリフに、観終わって「おまえが言うな」と毒づきたくはなくなっていたことが、田島列島の漫画を原作にした沖田修一監督の実写映画『子供はわかってあげない』に対する絶賛に等しい気持ちだろう。それくらいこの映画は漫画『子供はわかってあげない』というものを見事に実写の世界に表現していた。

 キャラクターがそっくりという訳ではない。むしろ似ても似つかない。田島列島が描く漫画はどちらかといえばリアリズムとは反対で、4コマ漫画にでてくるようなデフォルメされた等身の低いキャラクターたちが、簡単な線による表情やポーズの変化によって感情や仕草を表し物語を進めていく。

 それでいて登場人物たちは、極度のアニメオタクだったり母親の再婚相手の父親だったりLGBTでMtFの元兄だったり新興宗教の元教祖さまだったりと、それぞれがドラマ性をもった“濃さ”を持っている。そうした“濃さ”をまるで感じさせず、日常の中にすっと溶け込み誰もが普通に受け入れているような空気感を、田島列島によるシンプルで優しいキャラクター描写が作り出している。

 アニオタだろうが血の繋がっていない父親と仲良しだろうがLGBTだろうが新興宗教の元教祖だろうが普通すぎて誰も気にせずドラマになんてならない。そんな世界が来ることを願いながらも、未だドラマティックに語られがちな現実を、田島列島の漫画表現は乗り越えてみせている。だから、深刻でシリアスでウエットな物語であってもすっと身に入って来る。

 漫画だからこそ描けるともいえるそんな物語を、リアルもリアルな人間の役者たちで演じるなんて不可能だろう。観れば絶対に諸々の思いが浮かんで羞恥心めいた気分に身もだえし続けるに違いない。そんな恐怖に怯えて観るのをためらっている人がいるのだとしたら断言する。沖田修一監督の映画『子供はわかってあげない』は大丈夫だと。しっかりと田島列島の漫画『子供はわかってあげない』というものをスクリーンの中に作り上げていると。

 高校の水泳部で背泳ぎの選手として活動していた朔田美波が見上げた屋上の校庭で、何かを大きな紙に描いている生徒を見つけた。それが何かがすぐに分かった美波は屋上へと駆け上がり、描かれていた美少女キャラクターらしい絵を見て「KOTEKO!!」と叫ぶ。それは『魔法左官少女バッファローKOTEKO』という作品のキャラクター。描いていたのは書道部の門司昭平という同級生の少年で、共にKOTEKOのファンだと知った2人は急速に仲良くなっていく。

 オタク的な趣味のそれも相当に濃いところを語り合う2人だが、周囲に遠慮するようなところはない。屋上から1階へと降りながら背後に卓球部などさまざまな生徒たちの存在を感じさせる中で会話させることで、周囲の異質なものをみるような反応を描かず、オタク趣味であっても日常のひとつなのだと思わせているのかもしれない。そうした描写が、とかく周囲の目を気にしがちなオタク趣味の人たちから羞恥心を取り払う。

 門司くんと仲良くなった美波は、実家が書道家で自身も子供たちに夏休みの間、習字を教えている門司くんの家にパッケージとは色味が違うという「KOTEKO」の録画を見せてもらいにいく。そこで見つけたのが謎のお札。「教祖」という字が見えたそのお札と同じ物が、以前に美波の所に送られてきていた。相手はおそらく美波の実の父親で、5歳くらいの時に母親と離婚したらしく、それ以来会っておらず消息も知らなかった。お札が新興宗教のもので、門司くんの家で代筆していたことを知って美波は父親を見つけられるかもしれないと考える。

 そして父親探しの冒険が始まった物語は、ガール・ミーツ・ボーイのような青春ものからすぐに大きく外れていく。兄が探偵をしていると聞いて出かけた先で会った門司明大が女性のようだったという展開も、それ自体が物語に絡むことはない。明大の調査によって海辺の家に父親の藁谷友充が暮らしていると知った美波は、水泳部の合宿が始まったことを理由に家を抜け出し、合宿にも行かないで父親の元を訪ねていく。

 10年以上を経ての実の父親との再会、それも新興宗教にハマっていたらしい男のところに行くという、これも映画が1本撮れそうなドラマチックな設定でも、田島列島の漫画と同様に映画『子供はわかってあげない』は絶叫や慟哭といったリアクションは見せず、淡々とした演出によって次の状況へと移っていく。そこで父親として登場したのが、何を演じても強烈な存在感を示す豊川悦司という役者であっても。

 これは凄いことだ。横浜聡子監督の映画『いとみち』の中でも女子高生の父親を演じていた豊川だが、前面には出ないまでも娘を思い怒りもする父親ならではの存在感は見せていた。それが『子供はわかってあげない』では、10年間のある意味で凄絶な過去を持ちながらも、すっかりと毒気が抜けた中年男といった風体で、再会した娘と最初はどう触れて良いか戸惑いながらも、だんだんと打ち解け父親らしさをみせようとする男になりきっていた。美波に泳ぎを教えてもらいたいと海パン姿で立つほどに。

 合宿に合流しない美波を心配してかけつけて来た門司くんから、似ていると言われて相好を崩す演技の何という素晴らしさ。こうした豊川の演技力が、『いとみち』では娘を思い陰から支える父親、『子供はわかってあげない』で冴えない中年男が娘との再会で少しだけ自分を取り戻すという設定を見事に演じさせたのだとも言える。加えて、豊川の演技がピタリとハマる空気感、すなわち田島列島の漫画にあるすべてがふんわりとした日常の中に描かれている状況を、沖田監督がしっかりと作り上げていたからこそ成立したものだとも。

 そこまでのストーリーで、美波を演じる上白石萌歌が、オタク趣味を持ちながらも社交性があって明るく前向きな少女であることをしっかりと印象付けていたことも、ドラマチックさに頼らないで、非日常的な出来事であっても日常と感じ取れる空気感の醸成につながった。古舘寛治という見た目と裏腹に何をしでかすか分からない狂気を忍ばれた役者を、母親の再婚相手にして美波以上のオタク趣味の持ち主として描きながらも、異質さを覚えさせないのも凄い。

 それは冒頭でとてつもなく強烈なシチュエーションを繰り出すことによって、映画の世界を観る意識から緊張感を取り除いていたからかもしれない。説明はしないが映画『子供たちはわかってあげない』を観る人は、いきなり始まった展開にこれは何だと驚くだろう。いったい何を観に来たんだろうと戸惑うかもしれないが、それこそが世界を柔らかくして非日常を日常に変える魔法だったのかもしれない。

 海辺の家での豊川悦司演じる父親との日々を経て、戻った朔田の家で少しだけ魔法が解けて、美波がオタク少女であり水泳少女であり本心を笑いに隠してしまう変装の下をのぞかせる。そして屋上でも。ふわふわとして時にコミカルな日々の描写ラストに繰り広げられるそんなシリアスを味わって観客は、リアルな日常へと戻っていくことになる。けれども忘れないで欲しい。オタク趣味もLGBTも脳筋な青春もどんな家族であっても普通で、そして愛おしいのだということを。(タニグチリウイチ)

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