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映画『片袖の魚』レビュー

【トランスジェンダーが世界に覚える意識とは】

 新宿のK's chinemaで、東海林毅監督の『片袖の魚』という映画を観た。

 文月悠光による同題の詩を原案にして、トランスジェンダー女性が日々の生活で経験していることや、感じていることを描いた34分の短篇映画だ。制作にあたって、主役のトランスジェンダー女性を演じる役者を、トランスジェンダー女性からオーディションによって選んだということでも関心を集めている。

 結果、選ばれたのはイシヅカユウというモデルなどの世界で活躍している人で、演技が専門ではないけれど、ナチュラルに映画の世界に溶け込んで、映画の中の役を演じきっていた。

 そのストーリーは、今という時代にあっても決してナチュラルな、ポジティブな意味で無関心の対象としてトランスジェンダーの人たちが生きてはいないといった状況を、感じさせるものだった。

 イシヅカユウが演じた新谷ひかりは、アクアリウムを設置してメンテナンスもする会社で働いている。その日も、出向いた取引先で普通に仕事を終え、担当者と普通にやりとりをしたものの、帰りがけにトイレを貸してと尋ねた瞬間、応対していた担当者が躊躇いを見せ、上にだれでもトイレがあると返事をした。

 その瞬間に、ひかりの表情にふっと影のようなものが横切る。あるいは、観ている側にさっと緊張感のようなものが走る。とはいえ、そこで反論などしないひかりは、会社に戻っても特に報告もしないまま、次の仕事として出身地に近い場所にある会社に、設置の見積もりを取りにいく仕事を引き受ける。

 もっとも、そこでひかりが好きな熱帯魚のクマノミの話になって、群れの中で雌が死んだら最も体の大きいオスがメスになると説明すると、相手側の担当者が「ふうん、変な魚だね」とつぶやく。その時にもひかりの表情に戸惑いが浮かぶ。追い打ちをかけるように担当者は、ひかりに「もしかして男性ですか」と尋ねてくる。

 そこに悪気があるようには見えず、次の仕事も約束して分かれるけれど、そんなちょっとした描写の積み重ねが、何かしらの好奇を向けられているか、あるいは向けられているのではと感じざるを得ない、今の社会のトランスジェンダーに対する空気なようなものを浮かび上がらせる。

 ひかりが心に抱いていたある種の意識について、勇気をもって外に出そうと決意をしたところにぶつけられる、無邪気な親切が胸をキュッと引き絞る。やはり配慮すべきなのか。配慮することこそがナチュラルへの移行を妨げる壁なのか。人によって心が到達した段階が異なるだけに、一概には言えない部分だ。

 世間に悪意も好奇もないのかもしれない。心から応援しているのかもしれない。けれども、逆に言うなら、そこに悪意があるとか好奇が浮かぶといった可能性を考慮せざるを得ないくらい、今の世間はまだまだ、トランスジェンダーに対して完全にはナチュラルでスムースでバリアフリーでいられていない。

 『片袖の魚』はそんな状況を、短い中にしっかりと描いた映画だった。

 実を言うとイシヅカユウが言葉も容貌も姿態もスレンダーな女性にしか見えず、最初の担当者も次の担当者がどうして差異の意識を抱いたのかが、少し不思議に思えた。とはいえ、そこで明らかに差異性を人に演じさせることが、映画を通して容姿を土台にした偏見の在処を顕在化させかねないとなれば、物語の中から何となく差異という名の“偏見”が存在することを、感じさせるしかないのかもしれない。
 
 オーディションに参加するにあたってイシヅカユウには、トランスジェンダー女性が過去、メディアの上で担わされていたある種のロールに沿った役柄や演技をさせられるのではないか、といった不安があったとう。映画は逆にそうしたものとは一線を画して、ナチュラルに生きることへの渇望をにじませるものになっていた。

 だからといって、ある種のロールを負わされた人たちへの批判はなく、そうした人たちが登場して踊ったり、酒の相手をする店を出して生き方として称揚している。何にだってなれること。それを誰も好奇と嘲笑の対象にしないこと。大事なのはそこだ。

 未だ途上だけれど、いつかそこにたどり着けるまでの指標として、『片袖の魚』という映画の存在を刻んでいこう。(タニグチリウイチ)

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