誤訳の森 ー 栗原成郎訳『ドイツの歌姫』の刊行に際して

 2023年11月10日、幻戯書房の「ルリユール叢書」シリーズにセルビアの19世紀作家、ラーザ・ラザーレヴィチの作品集が刊行されました。『ドイツの歌姫』他五篇をスラヴ語文献学の博士で東京大学名誉教授、栗原成郎氏が和訳しています。いわゆるマイナー言語であるセルビア語の話者としては非常に嬉しい知らせで、幻戯書房はそのほかにもアンドリッチやニエゴシュなど、セルビア文学の重要な作家を刊行してきました。これからもぜひ応援したいと思います。
 セルビアではラザーレヴィチは誰もが知っているような作家です。ベルリン大学の医学部に留学し、その後はセルビアで医師と作家として活動しました。そのことからよく森鴎外と比較されることがあり、栗原氏も充実した作家解題(330頁以降)でそうしています。文壇においてラザーレヴィチはリアリズム(現実主義)の代表でした。今では小学校から高校まで、セルビアの学校カリキュラムの不可欠な一部になっています。
 そういうわけで、以前セルビア語で読んだラザーレヴィチを日本語でも読んでみたいと思い、さっそく『ドイツの歌姫 他五篇』を購入しました。しかしいざ読み始めると、なんと…

 澁澤龍彦訳のサドは頁に一ヶ所の割合で誤訳があると噂されているらしいです。

 栗原氏のラザーレヴィチ訳は、澁澤龍彦のこの功名をも上回りかねません。

 つまりどういうことかというと、
 誤訳に誤訳を重ねています。

 以下、『父と一緒に初めて教会へ』の一段落(10~11頁)と、『ドイツの歌姫』の一部(209、212頁)を載せ、誤訳を指摘します。
 それ以上載せたら著作権に関わる、と言いたいところですが、実のところ、読むのが怖かったです。これは数頁を拾い読みした結果だけで、読み進めばいくらでも誤訳は出てくるでしょう。この記事を読んでいるスラブ語科の皆様もぜひお試しください。

 では、まず最初の『父と一緒に初めて教会へ』から。やや長くなりますがご勘弁を。

 原文
 Naravi je bio — otac mi je, istina, ali kad sam već počeo pričati, ne vredi šeprtljati -, naravi je bio čudnovate. Ozbiljan preko jego, pa samo zapoveda, i to on jedanput što rekne, pa ako ne uradiš, — beži kud znaš! Osorljiv i uvek hoće da bude na njegovu, tj. niko se nije ni usuđivao dokazivati što protivno njemu. Kad se zdravo naljuti, a on psuje aliluj. Tukao je samo šamarom, i to samo jedanput, ali, brate, kad odalami, od časa se prućiš! Lako se naljuti; natušti se, griska donju usnu, desni brk suče i izdiže ga naviše, veđe mu se sastale na čelu, a one crne oči sevaju. Jao! Da onda neko dođe da mu kaže da nisam znao „alekcije”! Ne znam čega sam se tako bojao, naposletku baš i da me ćuši jedanput, pa šta? Ali ja strepim od onih očiju: kad ih prevali, pa kao iz praćke, a ti, ne znaš zašto ni krošto, ceptiš kao prut!
Nikad se nije smejao, bar ne kao drugi svet. Znam, jedan, put drži on na krilu mog malog bratića. Dao mu sahat da se igra, a moj Đokica okupio pa gura ocu sahat u usta i dernja se iz petnih žila što on neće da otvori usta. Ja i sestra da umremo od smeha, a to se i ocu dade nešto na smeh pa nekoliko puta razvuče malo levu stranu od usta, i oko levoga oka nabra mu se koža. To je bila velika retkost, i eto tako se on smejao kad se desilo štogod gde bi neki drugi razvalio vilice da bi se čulo u Tetrebovu mehanu.
 
(原文の全体はここで見られます https://www.laban.rs/q?a=l&doc=/lib/Laza_Lazarevich/Prvi_put_s_ocem_na_jutrenje.html
 
 栗原訳
 そういう性格だった ― 僕の父は。もう話を始めてしまった以上、回りくどいことは言わないことにしよう。―本当に、性格から言えば変わり者だった。きわめて厳格。命令を下す一方だ。いったん何かを命令したとき、言われたことが実行できなければ、三十六計逃げるに如かず!がさつ者で、つねに自己主張をしたがる。つまり、彼に反対の意見を誰も敢えて言おうとしない。ひどく腹を立てる時は「ハレルヤ!」と怒鳴るのだ。叩く時は平手打ちだった。それもただ一度だけだったが、それを食らって、たたまち(*たちまちの誤り?)伸びてしまった!怒りっぽい ―しかめっ面をする。下唇を噛む。右の口ひげをひねって上へ巻き上げる。両方の眉が額のところで合わさる。そしての黒い目が光るのだ。ああ、こわっ!
 そんな時、誰かが来て、ぼくが「失読症」であることを知らないのだ、と父に言ってくれればよかったのになあ!ぼくが何をそんなに恐れていたのか分からない。結局、平手打ちを食らったのは一度だけだったけれども。でもなぜ?しかし僕はあの目に恐怖を感じる。―その目をかっと見開いたまま睨まれると、まるで投石器から撃たれたみたいになり、なぜなのか、何のためなのか分からぬまま、細枝のように震えるのだ!
 決して笑わないのだ。異界の人でもあるまいし。一度、彼がぼくの幼い弟を膝の上にのせていたのを知っている。父は弟におもちゃ代わりに遊ばせようと腕時計を与えた。すると弟のジョキツァがそれをひっつかんで、いきなり父の口の中に突っ込もうとした。父が口を開こうとしなかったので、弟は大声で泣き叫んだ。ぼくと姉はおかしさに笑いころげたが、このことが父に何か笑いらしきものをもたらした。何度か口の左側を少し引き伸ばしたので左目の周囲の皮膚に皺が寄ったのだ。これはきわめて珍しいことだった。まさしくこのように父は笑ったのだ。その時、たまたまどこかで何かの出来事が起こったらしく、どこかの誰かが旅籠「雷鳥亭」にいる人々に聞こえるほどの大声をあげて笑った。
 
 さて、これはまだオスマン帝国の影響が強い、19世紀半ばぐらいのセルビアの田舎生活の一コマです。厳格な家父長キャラクターと、彼を怯える息子。しかし、ボールドで示したように、このわずか一頁だけで誤訳が4つも出てきます。

 Kad se zdravo naljuti, a on psuje aliluj.
 ひどく腹を立てる時は「ハレルヤ!」と怒鳴るのだ。

 常識的に考えれば、礼賛のときに言う「ハレルヤ」を罵って使うことがありましょうか。ここでalilujは副詞の役割があると思われます。「ひどく腹を立てる時は(私たちに)罵詈雑言を浴びせるのだ。」しかし、これはセルビア語の主要な辞書Matica srpskaには載っていない用法であり、口語に馴染んでいないと難しいです。大目に見ておきましょう。

 Da onda neko dođe da mu kaže da nisam znao „alekcije”!
 そんな時、誰かが来て、ぼくが「失読症」であることを知らないのだ、と父に言ってくれればよかったのになあ!

 一方でこれはわりと不可解な誤訳です。alekcijeというのは、lekcije(英語のlessonと同源、つまり学校の教科)のなまった言い方です(Matica srpska)。つまり、引用符で田舎の訛りをそのまま伝えています。発表当時の読者層だった標準語話者はこれを読んで微笑むところです。しかし栗原訳では大いに想像を膨らませて主人公を「失読症」に仕立てています。そればかりか、Da節の訳も間違っています。文法の説明に入るとさらに長くなるので、訳だけ載せておくと、「もし誰かが父に、私の成績が悪いことを伝えてしまったら…(どんなお仕置きを受けるか!)」。

 Nikad se nije smejao, bar ne kao drugi svet.
 決して笑わないのだ。異界の人でもあるまいし。

 これも不可解な誤訳です。というのも、Matica srpskaさえ引いたら、svetには「世界」のほかに「人々、民衆」という意味もあることが分かります。「異界の人」とはどういう意味でしょうか。正しい意味は単に、「彼は、ほかの人みたいに、決して笑わないのだ。」

 To je bila velika retkost, i eto tako se on smejao kad se desilo štogod gde bi neki drugi razvalio vilice da bi se čulo u Tetrebovu mehanu.
 その時、たまたまどこかで何かの出来事が起こったらしく、どこかの誰かが旅籠「雷鳥亭」にいる人々に聞こえるほどの大声をあげて笑った。

 さて、この「どこかの誰かが」は父を指しているでしょうが(日本語ネイティブではないので違ってたらご指摘下さい)、それでもこの訳は間違っています。肝心なneki drugiが落ちています。「笑ってもそれは珍しいことで、普通の人が『雷鳥亭』まで聞こえる大笑いをするところを、彼はただ小さく微笑むのだった。」実に見事に原文の語意が歪ませられています。
 
 次に、この訳集の最後の『ドイツの歌姫』を引用します。まず冒頭です。
 
原文
 Kad sam se polani vratio iz Italije, došao mi je do ruku ovaj rukopis. Čitao sam ga pod utiscima koji su na me ostavili Pompeji. Kad sam izašao iz Pompeja, pevao sam pesmu „Svja sujeta čelovječeskaja, jelika ne prebivajut po smerti“.
 
栗原訳
 一昨年わたしがイタリアから帰ったとき、わたしの手もとにこの手稿の束が届いていた。ポムペイがわたしの脳裏に残した心象風景のもとにこの手稿を読んだ。ポムペイを去る際にわたしは「人の世の思い煩い、樅(もみ)の森は、死後は残らぬ」を歌った。
 
 この歌の引用は典型的な教会スラヴ語です。確かにセルビア語辞典で「jelika」を引くと「もみ」の意味も出てきます。しかしスラヴ語文献学で博士号を持っていらっしゃる方ならさすがに気づくはずではないでしょうか。正しい意味は「死後残らぬ物はすべて、人の虚栄なり」(本論文を参照https://izdanja.filfak.ni.ac.rs/casopisi/2016/download/1497_3a063126e8aecaa7a76a1ba269492c6b)。ラザーレヴィチはポムペイの儚さ、諸行無常を感じているだけです。樅の森なんてありません。誤訳の森です。

 もう一つだけ挙げるとします。第二手記の冒頭です。
 
原文
Misliš, valjda: ko šta radi – ja se samo njome zanosim? Ne, brate, još u meni đipa pošteno srce, – ta valjda pred tobom smem to tvrditi! Šta imam ja s njome? Ja baš i da sam uveren da me ona – čisto me sramota da kažem – da me ona voli, tim bih se pre povukao s polja ljubavi. Zar da se igram „devojačkim srcem“?

栗原訳
きみはきっと考えることだろう―誰が何をしているのか、ぼくは彼女に夢中になっているのだろうか?いや、そうではないのだよ、兄弟、確かにまだぼくの中では清純な心が躍動している―だからぼくはきみの前でそれを確証しなければならないのだ!ぼくは彼女と何の関係があるのか?事実、ぼくは確信している、彼女は僕を―それを言うのはまったく恥ずかしいのだが―彼女はぼくを愛してくれている。それで以前にはぼくは恋愛の領域から身を退きたかったのだが。「乙女心」をもてあそぶことになりはしないかと思って。
 
誤訳のオンパレードです。まず「ko šta radi – ja se samo njome zanosim?」ですが、「ko šta radi」は常日頃行っている、習わしとしていることを意味する表現です。正しい意味はこうです。「きみはきっと考えることだろう―私は常日頃、彼女しか頭にないのかと。」次のta valjda pred tobom smem to tvrditi!ですが、smemは「することができる、敢えてする」であり、どうやって「なければならない」になったのかわかりません。意味としては「友よ、私はかわらず正直者だ。あなたの前ならそれをためらわずに主張できるのだ!(あなたこそ私を知っているから)」。そして最後は、前と同じく、da節の誤訳ですが、読者にとっては致命的な誤訳です。なぜなら、話の筋を変えてしまっているからです。主人公はまだ彼女の愛を「確信していない」。正しい意味は栗原訳とは逆になります。「これを言うのもなんだが、もし彼女が私を愛してくれたとしても、ますます愛の戦場を退かなければならない!乙女心を弄んでいいものか?」
 
(『ドイツの歌姫』のセルビア語全文 https://balasevic.in.rs/laza-lazarevic-svabica/)
 
 この直後も誤訳が続いていますが、疲れましたのでこれ以上は挙げません。

 セルビアは日本から9000kmも離れている比較的小さな国です。辞書が少ない、参考書が手に入りにくい、などというのはすべて理解できる事情です。しかしここまで誤訳、しかも単純な、基礎的な文法書や辞書を引けば一発でわかるような誤訳が重なってしまうと、疑念を抱かざるを得ません。ノーベル賞を取ったアンドリッチなど、栗原氏の他の訳書はどうなっているか、日本の読者はずっとセルビア文学の誤った理解を持たせられているか、と。ラザーレヴィチには「失読症」や「もみの森」や「異界の人」はありませんが、深い、深い誤訳の森があります。

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