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「二人でお酒を」(原作:中島敦『下田の女』)

 路地裏奥から三番目と言えば、この町の呑み助で知らぬ者は無い。
 ビールや酎ハイで肝臓を誤魔化していたヒヨッコが大人を目指して入る店。
「ちょいとオクさんに会いに行こうぜ」と中年が符丁を使う店。
 小さなバーがそこにある。
 
 カウンターの端で飲む男に誰かが声を掛けた。
「なぁあんた。三姉妹と付き合った話を聞かないかい」
「・・あ・・?」
 男はかなり酔っている。相手がよく見えない。
「まぁ金は取らないから聞いときなよ。まず末っ子だ。二十歳そこそこの可愛い子でね・・」
 相手は勝手に自分語りを始めた。
 
 二十歳そこそこの可愛い子でね。当時は俺も若造だったよ。付き合ったのはその子が初めてだった。俺もイキってたなぁ。舐められちゃいけないってね。
 今思い出せば可愛い恋さ。会って笑って乳繰り合って。世間の苦労なんざ遠くにあった。それで、先に俺が社会に出たんだ。会社勤めを始めて一端いっぱしの大人になった気で居たんだよなぁ。会社の先輩の女に気に入られちゃってね。年上だったから、そりゃもう俺の方がオモチャにされちゃって。
 でね、元々の彼女を振ったんだ。
 私の何処が悪かったのって泣かれてね。
 悪くはないけど物足りないって、俺も偉そうに言っちゃって。
 ああ・・・なんでもっと優しく別れることが出来なかったのか。
 綿飴みたいな恋だった。
 甘くてシュッと溶けちまったよ。
  
 次女の話をしようか。 
 え?会社の先輩?
 アハハ、彼女と別れた途端に何故かポイっと捨てられたよ。
 他人のものを奪いたがる性分だったんだろうね。
 俺もバカだった。・・で、次女の話さ。
 末っ子と別れて一年後かな。偶然居酒屋で会ったんだ。
 席が隣で意気投合してね。待ち合わせして一緒に飲むようになった。
 付き合うまで日にちは掛からなかった。
 心も体も馴染んだ頃にふっと身内の話になって。
 それで、相手があの子の姉だと知った訳。 
 道理で色々と馴染むのが早かった訳だなぁと感心しちまった。
 暫く続いたね、その子とは・・・結婚も考えた。
 でもイザとなると互いに、例の末っ子のことがチラついてね。何せ結婚すれば身内になる訳だから・・結局別れたよ。
 別れた時に彼女が二十六、か七・・・
 当時では行き遅れと言われる年齢だったから申し訳なかった。
 ただまぁ俺と別れた後、すぐに誰か見つけて結婚したみたいで。
 いい女だったからね。
 俺の方が引きずったもんだ。・・おっと、あんたグラスが空じゃないか。
 おーいバーテンさん。こちらにお代わりをね。俺にツケといて。
 あぁいいってこと。俺の話の聞き賃ってことで。
 さて話の〆は長女だよ。もう少し聞いてくんな。
 
 ところで俺、幾つに見える。さぁ、って。まあいいや。五十になる。
 この年で恋バナっておかしいかい?酒のツマミの定番だろ。
 長女と出会ったのは四十過ぎた頃だ。
 独身の俺に上司が紹介してくれた女、それが彼女だった。
 会うまでは億劫でねぇ。相手も相応の年齢だと聞いてたから、今更オバサンと付き合っても、って。自分を棚に上げてね。
 まぁ上司の顔を立てて会った訳。
 でも「あっ・・」てなったよ。ひと目見て。
 ほら、年取っても綺麗な女優さんとかいるじゃない。あんな雰囲気。
 若づくりもせず老け込みもせず、ちょうどいいぬる燗みたいな女。
 相手も始めは俺に警戒しているみたいだったけどね。
 清らかなデートを何度か繰り返すうちに心を許してくれて。
 早い段階で結婚の話になった。間近になって分かったんだ。
 俺が末っ子とも次女とも付き合った男だって・・でも、今度は乗り越えたね。
 二人でよく話し合って、俺は末っ子と次女に謝って。
 長女と晴れて結婚したよ。いいもんだよ、オトナになってから嫁さん貰うってのも。幸せだったよ。幸せ過ぎたな。間も無く嫁さんは事故で死んじまったから・・・最後の恋さ。俺はもう、彼女以上に愛せる相手を探そうとは思わない。
 
 おやあんた、ちっとも飲まないね。 
 俺、しつこく絡み過ぎたかい?すまないね。
 おいバーテンさん、この人の勘定は全部俺にツケといてくんな。
 ああ、ああ、いいって。俺はもう帰るからよ。
 後はゆっくりしてってくれよ。ここ、いい店だからさ。
 俺はもう帰るわ、じゃあな。へへ、あんま飲み過ぎるなよ?
 俺本当は医者に止められてんだよ。へへ。
 ほんじゃま、この辺で。ご機嫌よう。
 
 静かになった店内。 
 衝立を隔てたテーブル席に居た客が立ち上がる。
「ふぅ。ついつい聞きこんじまった。カウンターに移っていいかい」
 グラスを持ってカウンターへ移動する。
「スケコマシの自慢話かと思ったら、切ないオチが付いてたねぇ」
「常連さんですよ。あの方、いつも同じ話をされるんです」
 バーテンは口髭の奥でほろ苦く笑う。
「残った客も帰ったのかい?ずっと衝立で見えなかったな」
 バーテンは黙ってカウンターの隅の壁を指差した。
「え、どういうこと?」
 壁には鏡が掛かっている。
「ずっとお一人ですよ、あの方は。カウンターの隅が指定席で。いつも同じ酒を飲んで、同じ話をするんです」
「ありゃまぁ。盛大な独り言かい」
「ついでにもう一つ種明かし。あの方、三姉妹と交際なんてされてません」
「はぁ?」
「同一人物ですよ。お相手が二十歳の時から、ずっと奥様ひと筋で。会社の先輩の女ってのも架空です」
「・・・・」
 客はキツネに摘まれたような顔である。
「・・は・・・なんで、また」
 バーテンは笑う。
「気恥ずかしいんですかねぇ。ほら、経験人数が多いほど偉いって風潮があるじゃないですか。昔の人は特に」
「そんな奴も居るね」
「でもどうなんでしょう」
 バーテンはキュッキュッとグラスを磨く。
「くっついて離れて、華々しく大勢の相手と恋を語るのと。静かにずっと、大切な一人を守る恋と。どっちが幸せなんでしょうかねぇ・・・」
 カウンターに移った客が壁の鏡を見る。
 少し酔った自分の顔が見つめ返す。
 
「サァどうだろね・・・マスター、酒のお代わり。もう一杯で最後にするよ」
 
 グラスの氷が溶けて小さく鳴った。
 
 

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