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「腕と女」(川端康成「片腕」の二次創作①)

 カアテンが揺れ、朝の光が瞼に触れた。重なった睫毛が戸惑いながら上下に分かれ、女が目覚めた。

 由宇子が顔を横に向けると布団の上に右腕が転がっていた。指先を動かそうとしたが、ぴくりともしない。
(まだ、体が覚めてないんだわ)
 低血圧の由宇子は目覚めてから床を離れるまでに時間がかかる。その為目覚まし時計も二度鳴るようにしている。
 今朝は珍しく時計が鳴る前に目が覚め、手を伸ばして時計を止めた。それなのに右腕は相変わらず同じ形で転がっている。
「え?」
 身を起こして自分の右腕を見た。左腕を見た。三十路を迎えても色白で瑞々しく、二の腕は嬰児の頬のような柔らかさだ。
 転がっているのは無骨で無愛想な男の腕だった。
「まあ。何処から来たの」
 売れ残りの大根のように、腕だけがごろりと転がっている。
「作り物かしら」
 触れてみた。肌触りも硬い体毛も、なまものとしか見えない。
「忘れ物かしら」
 この三十路女は感覚が尋常ではないのか、少しも怖れる様子が無い。
「ね、お前。どっから来たの」
 突いても反応は無い。
「困ったわね。お仕事も行かないといけないし、お布団を敷きっぱなしにも出来ないし」
 布団を押し入れに仕舞い、畳の上に転がしておくのも可哀想で、腕は座布団の上に置いた。身支度を終え
「お留守番しててね」
と腕に言い置いて家を出た。

「おはようございます」
 挨拶をすると職場の人間が一斉に振り向いた。由宇子はコールセンターで働いている。主任が近づいてきて
「おはよう。今日は体調はどう?」
と訊く。良いと答えると労るような視線で
「何かあったら言ってね」
と微笑んでくれた。
 女ばかりの職場は人間関係が難しいと言われるが、この職場の人たちは由宇子に優しい。朝は素直に目覚め、職場では優しくされ、由宇子は幸せな気持ちで家路についた。

「ただいま」
 帰って腕に話しかける。
「あら。どうしちゃったの」
 家を出る時には指から肘までしか無かった腕が、肩の付け根まで伸びていた。「まあ」
 この時初めて気味が悪くなった。
(もしかしたら毎日伸びるのかしら)
 由宇子の心配は当たってしまう。

 右腕は付け根まで完成すると横に伸びて、鎖骨を形成し左肩が生まれた。
 肩から肘が生えて左の腕が完成すると、今度は鎖骨の下が盛り上がり、ずんずんじわじわと胸部が伸びる。乳首が芽吹き胸毛が生えてくる。
「嫌だわ、汚らしい」
 由宇子の好みではなかった。
 毎日仕事から帰る度に胴体は伸びていた。少し弛んだ腹部が出来たと思ったら、次の日には下腹部に性器が生えて由宇子は悲鳴を上げた。目を逸らしながらバスタオルを掛けた。
「どうなっちゃうのかしら・・・」
 今更落とし物として交番に届ける訳にもいかない。仮に落とし主が見つかって、御礼に一割差し上げますと言われても困る。
 由宇子の心配を他所に、腕から生えた体は日々健やかに成長を続けて足先まで伸びた。
「明日どうにかして処分しなきゃ」
 しかし次の日。帰宅すると部屋の真ん中に首から下が突っ立っていた。
「きゃあっ」
 ゆら、ゆら、ゆらと立ちながら揺れていた男性の首から下が、由宇子の声に反応した。両腕を由宇子へ伸ばした。次に、何かの異変に気づいたようにふらふらと部屋の中を彷徨うと手探りで台所に向かって冷蔵庫を開けた。
「ふぅ。ああ・・・こんなところにあった」
 冷蔵庫から取り出された頭部が首の上に収まり、身震いをする。
「ああ寒い。おい飯を作れ。それから話の続きを」
 由宇子は押し入れから鋸を取り出して振り上げた。

「奥さん、何であんな事したの」
 取調べの刑事は優しく尋ねる。
「あんな事?」
「とぼけても駄目だよ。近所の防犯カメラにはっきり写ってるからね。奥さんが、ゴミ捨て場に捨てる所」
「捨てたら、だめな日でした?」
 分別を間違えたかしら。
「日ってアンタ」
 別の刑事が口を挟んだ。
「奥さん、職場の人に聞きましたよ。旦那さんのモラハラとD Vで悩んでたんでしょ。生活費も渡して貰えなくて、自分のお給料は全部旦那さんに取られて。そりゃあ辛かったでしょう」
「旦那さん・・・」
 誰?
 由宇子の態度に焦れたのか、刑事は写真を出してきた。
「こんな大それたことしておいて、忘れたとは言わせませんよ」
 カラフルな写真が目の前に撒かれる。
「忘れませんわ。細かくするのが大変でしたもの」
 刑事は気味が悪い目で由宇子を見た。まるで剪定した枝のように言うじゃないか。写真には寸断された足や胴体や頭部が燃えるゴミの袋に入れられている。両腕だけは肩の部分から外されて部屋に飾ってあった。
「ほら、この顔。旦那さんでしょ」
 しかし、由宇子の目は石を見るように感情が無い。刑事は焦れて説明した。由宇子と夫が何処で出会い、いつ結婚して、どのような暮らしだったか。それらは周囲から聞き取った事情を合成したものだったが、由宇子の記憶より余程確かだった。何処か夢の底から浮かぶ物語のように、由宇子は自分の過去を聞いていた。
(ああ、そういえば)
 やっと由宇子は思い出した。夫との出会い。結婚生活。崩れていく愛情。あの人も、初めはとても優しかった。彼の腕枕が大好きで・・・
 不意に由宇子が涙を流した。
 刑事はそれを悔恨の涙と見た。腕組みをして由宇子を見下ろし、
「じゃあね奥さん。最初から話を聞こうか」
と優しく言った。

「奥さん。何であんな事したの」
 新しい取調べの刑事が言った。由宇子は白い拘束衣を着せられている。
「あんな事?」
「俺より前に話をした刑事が居ただろう」
「ああ・・」
 由宇子は不思議な目で刑事を見た。
(こんなに理屈の通ったことが、何故分からないのかしら。警察なのに)
「その前に、何でご主人にあんな事したの。離婚とか考えなかったの」
「だって、離婚は・・・私、あの人好きでしたもの。あの人の腕枕が・・」
 由宇子は遠くを見る目をした。
「殴ったり怒鳴ったりしても、最後にあの腕に抱かれたら、もうそれで良かったんです。私たち、うまくいってました。でも・・・他に女の人が出来たんですって。私、嫌だったんです。誰かに盗られるなんて」
「ご主人を?」
「枕」
 取調室に沈黙が流れた。由宇子がまた、口を開いた。
「どうしても別れるなら、慰謝料はいらないから腕だけ下さいって言って。それで別れました、あの人とは」
「別れた?」
「気づいたら居ませんでした」
 また、沈黙が流れる。刑事が口を開いた。
「あの、じゃあね・・俺の前の刑事には、何であんな事したの。もしかして・・」
 由宇子の頬が赤く染まる。
「だって、あの・・とても、タイプっていうか・・ごめんなさい、失礼ですね」「タイプねぇ・・それで?」
「それで、鋸があれば良かったんですけど、見当たらないし・・幸い、歯は丈夫なものですから」
 由宇子が薄く口を開くと、歯に血と肉片がこびりついている。刑事はゆっくりと尋ねた。
「じゃあ、奥さんは、あの刑事から、新しい枕を貰おうとしたんだ」
「そう!そうなんです。良かった、分かって頂けて」
 由宇子は明るく微笑む。刑事の中で話が繋がった。この一見か弱そうな女が、屈強な刑事の腕に齧り付きもぎ取ろうとしたその理由が。人間の三大欲求は食欲、色欲、睡眠欲と言われる。
(この女はどの欲求を満たそうとしたんだ?)
 全てだろうか。
 黒髪に白い肌。華奢な体。拘束衣がよく似合う。
 艶のある唇をもぐもぐと動かしている。歯に挟まった肉片を咀嚼している。
 ごくりと飲み込んでしまうと、物足りなさそうな顔をした。
 視線を動かして何かを探している。きょろきょろと・・・
 由宇子の視線が一点で止まった。刑事の顔よりも下の、ある部分。由宇子の頬がうっとりと蒸気する。
 刑事が席を立つ。視線が追う。刑事が少しずつ距離を取って動いても、視線は執拗に追ってきた。狭い取調室の何処までも何処までも・・・


                         (了)


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