「Don’t smell ,baby」(原作:田山花袋『蒲団』)
「先生、いい匂い・・・」
若い女はうっとりと呟き、初老の男の胸に顔を埋める。
男は照れ臭そうに笑っている。
「なんかね、元彼には絶対しなかったような匂い。落ち着いてて、頼もしくて・・こういうの、大人の魅力っていうのかなぁ」
「・・君もいい匂いだよ・・」
「あ・・先生・・・」
音声はそこで途切れた。
「あら。ここまで?」
「いえ、その。あまり生々しい音声になるので」
「私は構わないけれど」
初老の女性が事務所を見渡す。
「若い事務員さんもいらっしゃるし、じゃあここまで。写真は撮れまして?」
「ええ。ご主人と若い愛人と。愛人はゼミの学生さんですね」
「あらまぁ。不倫の慰謝料を請求しても、親御さんが払うことになりそうね」
興信所の応接コーナーで悠然とコーヒーを飲み、女性はにっこりと笑う。
「いい香り。淹れるのがお上手ねぇ」
褒められた女性事務員が照れ臭そうに笑う。
女性の応対をしている調査員は
「随分と余裕ですね」
と半ば呆れ顔だ。しかし、すぐ事務的な表情に戻る。
「すぐに離婚請求されますか?弁護士も紹介できますが」
「ご親切に。でももう少し調査を続けて下さい」
「分かりました」
女性が帰った後、若い事務員がテーブルを片付ける。
「まだ調査ですか?証拠は十分なのに」
「様子を見るんだろう。なぁナオちゃん。若い女性から見て、このご主人どうだい。そんなに魅力的かな?」
調査対象の写真を見せる。
「・・うーん・・特別かっこ良くもないけど。まぁちょっと小綺麗でお金は持ってそうって感じ」
「大学の講師だとさ。いいのかねぇ、教え子に手を出して」
調査員もコーヒーを啜る。
「お、ホントだ。美味いねコレ」
数日後。講師と教え子の逢瀬。
「ん?どうしたんだい?」
「えっと・・・なんでも・・」
抱きしめられた女は一瞬変な顔をしたが、若い体に夢中な男は気づかない。
「君は本当に可愛いね・・」
女の態度は何処かぎこちなく、それを恥ずかしがっていると思った男は益々激しく体を貪った。
抱かれながら女は顔を顰めていた。
更に数日後。
「あの、先生。ごめんね。今日はちょっと・・」
「ダメかい?」
「体調が悪いの。ごめんね」
女は足早に去って行った。
また数日後。
講師の姿を見るやいなや、女は踵を返して逃げ去った。
「な、なんなんだ?」
講師は気づいていなかった。他の学生たちも、廊下で行き違う時に顔を顰めていることに。
講師の体に行き場のない性欲が溜まっていった。それなりの夜の店に行けば良いのだが、はたと思い当たった。
(なんだ、ウチにタダのがいるじゃないか)
しかしそのタダの相手にはにべなく断られ、以前から別々だった寝室のドアは目の前で閉められた。
「ハァ・・・まぁいいか。どれ、彼女に何か値の張るプレゼントでも買おうかな」
とネットをポチる。
「ありがとう。嬉しい・・・」
講師が選んだのは5万程のネックレス。バカ高いものではないが、大学の講師といってもそんなに高給取りではないから、妥当な所だ。
「でもね。私やっぱり、こんな関係はダメだって思うの」
「え?何故急に」
男は女の肩に手を伸ばす。
「さよなら先生。思い出を有難う」
若い女は華麗に立ち去った。
ちゃっかりその手にネックレスを握りしめて。
その夜、友人に電話で愚痴る女。
「聞いて〜〜。なんか最近急に萎えちゃってさぁ。あれ?この人こんなにオッサンだったっけ?って」
『言ったじゃーん。てか今まで何処が良かったのぉ?よっぽど上手だった?』
「全然フツー。てかネチこい。好きだった頃はそれだけ愛されてるって思ったんだけどなぁ」
『まー良かったじゃん目が覚めて。一応既婚者だしさぁ。めんどくさいことになる前で良かったんじゃないの』
「かもねー。あ、何これ。ちょっと待って。何この封筒。内容証明?弁護士事務所?え!?」
数日後。興信所の応接コーナーにて。
「参考までに教えて頂けませんか」
「何を」
「女の方から別れを切り出したようですが。奥様、何かされたんですか」
「逆よ。何もしなかったの」
「はい?」
「あの人のケアをやめたの。スーツのクリーニングに匂い取りのスプレー。タバコの口臭を消すマウスウォッシュ。加齢臭予防のボディソープ、頭皮の臭いを消す整髪料、その他諸々。逆にニラとかニンニクとか体臭をキツくする食事をたっぷり与えて。それだけ」
「え?」
「つまりね。ギリギリこざっぱりしたオジサマだったあの人は、元通り頭皮と足が臭いオッサンに戻ったのよ」
「ははあ・・」
「大学にも報告しておいたから近々無職のオッサンね。あの人、家事は赤ちゃんレベルで何も出来ないの。家もゴミ屋敷になるでしょうね。私はもう関係ないわ。親の遺産でマンションを買ったから」
「調査を続けられたので、関係を修復されるかもと思ってましたが・・・」
女性は少し、考えるように首を傾げた。
「迷いはあったわね・・問い詰めて反省させて、態度が変わればと。でもダメだった」
「何故です」
「私を誘ってきたから」
女性は眉を顰める。
「若い子に相手にされなくなって、仕方ないこのババアで我慢するかって顔で求められて、誰が嬉しいの。加齢臭がしようがED気味だろうが、このババアなら文句を言わないだろうって。あの最低な顔、踏んでやれば良かった」
調査員は黙ってコーヒーの深淵を覗く。
女性は優雅な手つきでコーヒーにクリームを混ぜる。
「女として無視される方がマシよ。妥協よりも」
女性はくすりと笑う。
「そうそう、おばちゃんのお節介で言わせてもらうとね。どんなにイケメンでもお金持ちでも、小汚いとか臭いとかはモテないわ。あなた、30代位?もう少ししたら気をつけなさいね。うふふ」
「肝に銘じます」
女性は興信所を後にした。
「ふぅ」
依頼者を見送った後、調査員はソファにもたれる。
「愛情なんて脆いモンだねぇ」
冷めたコーヒーを啜る。
「あの若い子、年上の恋人に随分のぼせてたように見えたけど、加齢臭ひとつで破局とはね」
客用のカップを片付けながら事務員が答える。
「多分、女の子の気持ちも冷めかけてたんですよ」
「ん?」
「冷めかけてたから相手の体臭も嫌になったんじゃないですか?奥さんだって旦那さんに冷めてたから、誘い方が気に入らなかったんです。やり直す気が有ったら受け入れてますよ」
「ほほー。人生経験は俺の方が長いけど、やっぱり女性の気持ちは女性が分かるかね」
「痘痕もエクボって諺があるじゃないですかぁ。加齢臭も香水だったんですよ。付き合ってる間は。アハハ」
調査員・・と言っても小さな事務所だから兼所長は深く頷く。
依頼者には30代と言われたが、若く見えても40代。
事務員は20代。ワンチャンあるかと思っている。
「俺も気をつけるわー、加齢臭でナオちゃんに嫌われたくないからなぁ」
体は若い所を見せようと、身軽にソファから立ち上がった。
事務員は朗らかに笑う。
「大丈夫ですぅ〜。元からナイんで〜」
スプレーを構え、ソファにシュッ。
部屋に漂う森林の香り。
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