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「こゝろほる」(原作:夏目漱石『こゝろ』)

 こつこつと土を掘る音が暗闇に響く。
 堅い地面に穿たれた竪穴の底に、蹲る老人が一人。傍に番人が一人。
 老人はハンマーを握り、傍にたがねが置かれている。
 小さなランプの小さな灯り。周囲を茫洋と闇が包む。
「頑固な方だったようですね」
 番人が言った。

 老人のハンマーは僅かに地面を削るばかり。この穴を老人が一人で掘ったとすれば、その時間の長さは呆然たるものだ。
「深層意識の中から目当てのものを掘り出せる人は稀です」
 番人が言った。

 番人はランプにひょいと小枝を引っ掛けると、周囲の土壁を照らした。
褶曲しゅうきょくや断裂。記憶は独りよがりです。事実の積み重ねとは限らない」
 光に浮かんだ記憶の紋様は、ある所は輝き、ある所は闇へと逃げる。
 番人はランプを置いた。
「お目当ては何です」
 老人は答えない。
 番人はため息をつく。
「あなたも相当に頑固なようだ」
 もっとも、番人は独り語りに慣れている。
 他人の意識を掘ろうとする人間など偏屈に決まっているからだ。

「ご精勤なのはよろしいが、ここへ来られるのは今日が最後ですよ」
 番人が言うと、老人は初めてピクリと反応した。
「・・・まだやれる」
「駄目です。これ以上続けると、意識が呑まれてしまいます」
 老人の吐いた息が白く凍った。番人が見上げる。
「ここまで来られるだけでも珍しいことですが」
 途方も無い穴の底だ。
 老人は掘り出した塊をたがねでカチリと割った。
 断面に薄墨色の影が漂って消えた。
 番人がポンと手を打つ。
「お目当ては示心化石。そうでしょう」
 老人の手が塊を捨てる。
「環境を示す示相化石。時代を示す示準化石。示心化石は心を示す・・しかし、何処に埋まっているか分かりませんよ。特に、奥様があの状態では」
 カンッ
 意地を張ったハンマーの音が響き、番人は黙った。

 老人は番人に背を向けたまま黙々と手を動かし続ける。
 番人は老人の背後に置いてある本を手に取り、無造作に捲り始めた。
「・・随分とご苦労を掛けたようですねぇ」
 老人は慌てて立ち上がり、本を取り返そうとした。しかし長く屈んでいた足腰は固まり無様に転んだ。
「奥様の日記ですね」
 番人が手を貸して体を起こす。そして老人に
「時間です」
と告げた。
 老人の顔が歪む。
「もう少し・・・」
「規則ですから。こちとら雇われの身分なもので」
 老人は尚も食い下がろうとしたが、やがて諦めたのか、項垂れた。
 皺の深い唇から嗚咽が漏れた。

 番人は困ったように暫く頭を掻いていたが、やがてああ、とわざとらしい声を上げた。
「チョイと用事を思い出しました。片付けて来ますからここで待っていて下さい」
 そう言ってトの字の木に跨ると、ふわりと空を飛んで行った。
 老人は番人を見送っていたが、また屈み込むと、涙の沁みた土にハンマーを降ろした。
 長い長い時を掘り続けた。
 ハンマーの先が何かに当たった。

 掘り出された乳白色の塊を見て老人の目が輝いた。塊の中で小さな火がちらちらと動いている。火は見る間に消えてしまいそうで、その脆く頼りないものは妻の心に違いなかった。老人は塊と日記を風呂敷に包んで背中に結びつけ、深い深い穴の、長い長い梯子を登った。

 穴の上に、車椅子に掛けた女の姿があった。
 初老である。虚空を見ている。
 老人の体は精魂尽き果てていた。ふらつきながら車椅子に近づき、風呂敷から塊を取り出すと、女の胸に押し付けた。
 虚ろな目に火が灯った。
「わしだ。分かるか」
 女の目が戸惑う。
「すまなかった・・・」
 女の手に年老いた手が重なった。

「わしは分からなかった・・・お前はいつもおとなしくて。文句の一つも言わないで。それでいいのだと思っていた・・・子どもが巣立って、二人になって。何かお前に話しかけたいと思った時に、気づいた。長い時間をかけて、お前の心が固まってしまったことに。わしは諦めた。年を取った夫婦なぞこんなものだろうと。まさか・・・お前があんなに早く・・」
 涙が零れる。
「お前が死んだ後に日記を見つけた。寂しかったのを知った。辛かったのを知った。本当にすまなかった。何もかも・・・」
 妻の瞳の小さな火が幽かに瞬いた。
「・・聞こえているか?・・・」
 返事は無い。

 夫は瞳の奥に何かを探した。
 許しでも拒絶でも怒りでも、とにかく何かを。
 火は消えつつあった。
「ああ、待ってくれ!」
 妻の体は髪からも肌からも乾いたように色が抜け、石化していく。
 瞳の奥の最後の光が夫を見た。
 何か言いたげに開いた唇も、何も答えぬまま、妻は石像になってしまった。
 夫は泣き崩れ、妻の上に覆い被さる。夫の火も消えようとしていた。
 最後の力で妻を抱き締めた。
「すまなかった・・・」
 老人の最後の息は、白くなり粉雪のように落ちた。
 妻を抱いた腕が。妻を抱いた胸が。灰色に乾き固まっていった。
 
 石像になった夫婦の傍へ、空から番人が降りてくる。後ろに別の番人が付いて来ていた。
「チッ。お前、またやりやがったな」
「すんません」
「だからいつまでも出世出来ねぇんだよ。バカだな」
 もう一人の番人はひどく口が悪い。
「あーあー・・・すっかり地層に呑まれちまって。お前、まさかわざと放置した訳じゃあねぇよな?」
 ジロリと睨む。睨まれた番人はトボけて空を見る。
「人間ってなぁどうしてこう不器用かね」
 付いて来た番人は身なりは良いのに、随分と態度が悪い。
「俺ぁ手伝わねーからな。こいつはお前が責任持って処分しろ。いいかぁ?間違っても近い地層に混ぜるんじゃねーぞ」
 ペッと唾を吐くと、艶のある上等なトの字の木に跨り、スイッと空を飛んで行ってしまった。
 石像と番人が残された。
 
「やれやれ。上手くいかないねぇ」
 番人が寂しげに呟く。
 トの字の木でトン、トン、と像の周りを突いて、地面との境にヒビを入れていく。ヒビが一周して像と地面が離れる。
「よし」
 番人は呪文を唱えると、像と一緒に飛んでいった。

 何処かで波の音が。
 絶え間なく、寄せては返す。
 波は記憶の砂浜に寄せ、沖へ戻り・・・また戻り・・・時空を遡る。

 砂浜で、若い女性が貝殻を拾った。
 一緒に居る男性に見せようと思ったが、相手は背を向けている。
 女性は諦めた表情で貝を捨てた。 

 男性とは見合いで出会った。
 女性は二十代後半で、その時代では遅いと言われる年齢だった。内気な性格を親戚が心配して、強引に縁談を持ち込んだ。
 それがこの、武骨で無口な男性だったというわけだ。
(私も愛想が良い方ではないから、人のことは言えないけれど)
 女性は多人数での会話が苦手だ。考えているうちに話の流れを逃してしまう。
 一対一でも慣れるまでに時間が掛かる。
 言い損ねた言葉を日記につけるのを習慣にしていて、そんな日記を何冊も本棚の隅に隠していた。
(今日の日記も長くなりそう)
 ため息を隠した。
 
 会話が続かない以外は、特段これと言って不都合のない相手だ。
 それはきっと、相手から見た自分もそうなのだろう。
 このまま周囲や雰囲気に押し切られ、この人と無口な家庭を築くのだろうか。
 この人がつけた足跡を辿るだけの人生だろうか。
 振り向けば二筋の足跡が砂浜に続いている。
 足を止めたまま海を見る。
 
 沈む夕日が空と海を染めていく。海の向こうに黒いシルエットが見える。
 その岩には注連縄が張ってあるようだった。
 今日のデートの行き先を決めたのは男性だ。
 岩の謂れを知っているだろうかと、訊くのを迷ううちに男性が振り向いた。

「ところで、このまま話を進めるち言うことでいいでしょうか」
「あ・・はい」
「そしたら、帰ったらお仲人さんにそう言いますが、いいですか」
 夕日が水平線の際まで迫り、空は最高潮に美しい。ロマンチックなひと時と言えよう。だが男性は、特に他の言葉も飾らず、来た道を引き返そうとした。
「あの」
 女性はなんとなしに声を掛けた。
「・・・どうして私にされたのですか」
 何かが胸につかえていた。
「は?」
「どうして」
 男性は、少し口をもごもごさせたが、
「大人しい人だと思ったもんで。黙って付いてきてくれるだろうち思いました」
 それは、嬉しい言葉ではなかった。
 それは、自分が今までに受けてきた評価の全てのように思えた。
 更に
「うるさく言う人は好かんもんで」
 男性は言った。
 
(大人しいという褒め言葉は)
 若い女性は
(私の口を塞いでしまう。いつも)
 立ち尽くす。
(貝のように、生きろというの)
 聞き分けが良く、従順さを褒められる、そんな子どもだった。
 
「どうかしましたか」
 男性は少し先まで行ってから、女性が付いて来ないのに気づいて振り向いた。
 女性は何か言わなきゃと思いながら、言葉は胸に閊えてなかなか出なかった。
 男性は不思議そうな顔をしたが、また背を向けた。その足先に何かが触れた。
「?」
 砂浜から綺麗な石がのぞいている。
 男性は屈むと指先で穿り出した。
 それは蛋白石オパールの原石のように煌めいていた。小さな光が火のようにちらちらと燃えている。掌に置いて眺めていると、女性が近づいて来た。
「綺麗ですね」
「何ですかね」
 顔が近くなった。
 女性の瞳に小さな火が映った。

「・・あの。嫌じゃったら言うてください。おや、田舎もんですし。都会の綺麗なお嬢さんとは釣り合わんでしょうから」
「え?」
「あっ」
 男性が慌てた。
「おやと言うのは自分のことで」
「あ、それは、なんとなく分かりますけど。私はそんな、仰る様な人間ではないです」
「いや、その。上司からいい加減嫁さんを貰えと言われて、見合いを勧められたはいいんですが、こげんきれか人が来るとは思わんで。一回めで断られるじゃろと思たんですが、思いの外今日もこうして一緒に出掛けてくださるちゅうことで。こげな人が毎日傍に居れば良かがなぁて。ああ、すんません。言葉がわからんですよね」
 女性は、今度は呆然と立ち尽くした。
 次に可笑しくなった。
「あ、いえ・・・ずっと無口でいらしたので・・・たくさん喋って下さって、なんだか嬉しいです・・良かった・・・」
「は?」
「あの。良かったら、私も少しお話ししていいでしょうか」
 
 二人は砂浜に腰を下ろした。女性はゆっくり話し始めた。
 少し、話すのが苦手なこと。思っていることをすぐに声に出せないこと。
「皆さん大人しいって仰いますけど、そうでもないんです。黙って怒ってることもあります。滅多にないですけど、積もり積もって癇癪を起こすこともあります。だから、黙ってついてきて欲しいって言われると困るんです」
 男性は慌てて訂正した。
 深い意味はなかったこと。本当に黙ってついて来いではなく、思うことがあれば言って欲しいこと。
「女性の細かいところはよう分からんです。後から怒られる位なら、ハッキリ言うてもらった方がよかです」
 それからこうも言った。男性も、元来もっと喋る方だ。だが仲人さんに、訛りが抜けていないから田舎者に見えると言われたので口数を控えていたと。
「顔が田舎もんなのに今更と思うたんですが」
と首を捻る。女性は思わず笑った。
 
「・・・私、我儘ですね。心の何処かで、言わなくても分かって欲しいと思ってたんだわ」
「そげん言うたら、おいは卑怯でした。自分は田舎もんです。そいを恥じてはおりません。そういう人間ですから。ただ、隠して貴女に気に入られようとしたのは卑怯でした。すみません」
 男性は小さな石を大切に握り締めている。
「私の、祖母の話ですけど・・・もう亡くなってますが・・」
 女性は少しずつ話す。胸に閊えた言葉の数珠をほぐすように。
「物静かな人でした。夫である祖父の、何歩も後ろを歩くような。先に祖父が亡くなって、しばらくして祖母は頭が朦朧となっていったんですが。その時期、毎日祖父の愚痴を言っていたんです。相手が死んでから。不満を溜めていたんでしょうね、何十年も。私子ども心に、だったら生きてる間に言えばいいと思っていたんですけど、このままだと、私も祖母のようになる所でした」
 恥ずかしそうに笑う。
「今日私、たくさん喋ってます。先にそちらが話してくれたからだと思います」
「うちの親も、そげん所があるかなぁ・・あんまり女が口答えをするな、ちゅうような土地なもんで。でも」
 相手に向き直る。
「自分の嫁さんには、我慢させたくなかです。生まれも育ちも違うもん同士です。口に出さんなわかりませんっ・・と、えーと。もう一度確認ですが、その。話を進めてよかもんでしょうか。また会うて貰えますか」
 女性は暫く黙った。男性は不安な顔をした。
「・・・人生の一大事です。結婚については、今ここでは決められません。でも・・あなたとは、また会って話したいです」
 それだけの返事で男性は満足したようだ。
 
「あっ」
「どうしました?」
「あの石が無か。綺麗かったで、磨いてあなたにあげようと思っとったのに」
 男性はきょろきょろと砂浜を探す。石は掌で融けたように無くなってしまった。
「あの石、多分ここです」
 女性が胸を押さえる。
「さっきから暖かいんです」
 言葉に照れたように、少し笑う。
 男性も笑った。
「あの岩が見えますか」
 海を指す。
「あや、夫婦岩です。もしよければ。何回か会うて、あなたがいいと思えば。あの岩のごと、末永く一緒におってください。大事にします」
 二人の姿が重なり、黒いシルエットとなる。

「やれやれ、今度は上手くいきそうだ」
 上空から見ていた番人が飛んで消えて行った。



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