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アイドルと物語─菅井友香という紡ぎ手

人は誰でも、自分だけの物語を持っている。

しかし、よほど親しい相手でなければ、
自分がどんな経験をし、そこで何を感じ、
どう変化したかを語ることも、
また他人のそれを知ることもあまりない。

なぜならそれはとても個人的かつ
センシティブな領域であり、
それを知ることは、
人の心のなかに踏み込むことだからだ。

しかし、そんな個人の物語を特に求められ、
そしてコンテンツとなっている人たちがいる。
それが芸能人であり、アイドルだ。

昔から雑誌などにはアイドルの
生い立ちのマンガが掲載されてきた。
もちろんこれは「見せられる範囲」
でのコントロールされた物語である。

日本には昔からアイドルの物語の
鑑賞と消費の文化があったわけだが、
21世紀のアイドルの物語の
構築と発信はあまりにも複雑で難易度が高い。
その理由はいくつかある。

一つ目の理由は、
アイドルのグループ化及び大人数化だ。
グループアイドルは個人の物語の集合体だ。
それぞれの物語が集まり、重なりあい、絡まり合う。

単体アイドルが個人の物語だけを語り、
コントロールしていればよかったのに対し、
グループアイドルでは他のメンバーとの
関係性を含めた物語が求められ、鑑賞される。

自分の物語を紡ぎながら、
他のメンバーとお互いの物語が重なる場所を
どこまで見せるか、
慎重に見極めていく必要が出てくるのだ。

二つ目の理由は、インターネットの発達だ。
誰でも発信できるようになり、
アイドルのあらゆる情報が発信されるようになった。
真偽がわからないものも多く、
それがあたかも事実として認識されていく。

まさに「僕じゃない僕ができあがっていく」状態だ。
それはもはや暴力に近い。

こんな時代を
自分の足で駆け抜けた人。
それが、菅井友香という
アイドルではないだろうか。

彼女の卒業を知った時、
「ついにこの時が来たか」と思った。
予想はできていたのに、
喪失感があまりにも大きかった。
箱推しの私でさえ「菅井友香の物語」に
焦点を合わせて櫻坂を見ていたのだ。

いや、これは半分合っていて、半分間違っている。
私は「菅井友香の物語」に焦点を合わせつつ、
彼女が紡ぐ櫻坂46の物語を見続けていたのだ。

そう、菅井友香はいちアイドルとして
自分の物語を紡ぎながら、
グループの物語を紡いでいたのだ。
それだけではない。
彼女は櫻坂46の語り部でもあった。

彼女は欅坂46時代から語り部ではあった。
しかし、物語の紡ぎ手ではなかったように思う。

私が、彼女を「語り部」だけでなく
「紡ぎ手」として認識したのは、
改名を発表した2020年7月の
配信ライブのスピーチだ。

当時はそこまで思っていなかったが
今振り返るとそうとしか思えないのである。

あの時、彼女は鬼気迫る表情で
「もっと強いグループになることを約束します」
と言い切った。あの瞬間、
彼女は語り部であると同時に、
紡ぎ手になったのだと思う。

もちろん改名の決定も過程も方向性も
えらい人たちが決めたのだろう。
しかし、彼女たちがキャプテンとして
そう断言したことで、
彼女とグループは改名と
その後のあり方を自分事化し、
「主体」となった。
少なくとも、私にはそう見えた。

言葉も佇まいも美しく洗練されているのに、
飾らず率直な言葉に、
改名後も推し続けようと決めた
ファンは多いだろう。

それ以降、彼女はグループの今と進むべき方向を
真正面から語るようになった。
現実を受け入れられないファンもいたし、
彼女の言葉尻を捉えて思いを
ぶつける人もいたように記憶している

それでも彼女は語ることをやめなかった。
その言葉はまるで澪標のようだった。
澪標とは、船の航路を示す標識のことだ。
彼女の言葉はグループ、
そしてファンが向かうべき道を示していた。

彼女は欅坂46、櫻坂46という船そのものを
動かしたり、牽引したわけではない。
メンバーや運営スタッフ、クリエイターなど、
人の集合体としての欅坂46、櫻坂46という
船が進む方向を、
さまざまな人の決定や意見を聞きながら、
自分の言葉で指し示していった。

その澪標があったからこそ、
大勢のファンも、何も目印のない荒れる海で
迷わずに船の跡を追うことができたのである。

しかし、なぜ彼女の言葉は澪標になり得たのか。
一言で言えば、伝える力があったからだ。
では、伝える力とは何か。
そこにはいくつもの要素がある。

一つ目はロジックがしっかりしていること。
欅坂46に関わった方がTwitterで
「菅井友香さんの話はロジカルだ」
といった内容のツイートしていて、
なるほどと膝を打った。
なぜそう思うのか、なぜそうしなければならないのか、
筋が通っている。だから納得するし、伝わる。

二つ目は、彼女の語りの正確さだ。
彼女の話す言葉はまるで書き言葉のように
正確で、スッと頭に入ってくる。

私たちが普段話している内容を文字に起こすと、
かなりいびつである。
しかし、彼女の言葉はそのまま文字にしても
違和感がないくらい、完成度が高い。
もともとのセンスや語彙力もあると思うが、
「メモを片手にM Cを考えているうちに寝落ちしていた」
「ツアー中にホテルで明け方までM Cを考えていた」
というエピソードからは、研鑽の賜物だと窺える。

三つ目は、「何をどこで話すか」という判断力だ。
ファン以外の人も目にするブログやネット記事、
テレビ番組ではグループの
情報を漏らさず伝えるが、
自分のファンがお金を出して購入する
雑誌のインタビューなどでは踏み込んだ話をする。

軽薄な言い方をすれば戦略的なのだが、
グループの代表として、
メッセージを発する立場として、
どこで何をどう伝えるか。
その判断を誤れば、
四方八方から矢が飛んでくる。
そんな緊張感の中で
磨かれていったようにも見える。

四つ目は、感情表現が豊かであること。
雑誌などで彼女が踏み込んで話すのは、
誰かのことではなくて、
たいてい過去の自分自身の感情や状況についてだ。

筋道の通った話をする人は、
言葉の使い方や話し方次第では
冷たい印象を与えかねない。

けれど彼女がそうならないのは、
本人のおっとりした雰囲気と丁寧な言葉遣い、
完璧すぎないからなのだが、
彼女は自分がどう感じたかをサラリと口にする。
だから、客観的になりすぎず、
説得力がある。

しかし、彼女がその時々の感情を
ただ口にするだけだったら、
きっと物語の紡ぎ手にはならなかっただろう。

私が彼女を凄いと感じたのは、
自分の感情を蔑ろにせず、
それでいて衝動的にならなかったことだ。

欅坂46があそこまで人々の心を
とらえて離さなかった理由は、
ファンの数だけあるだろう。

私の場合、メンバーのむき出しの
エネルギーを転写したような楽曲と
パフォーマンスに惹かれた、
という一点に尽きる。

それは技術やスキルも必要だと思うが、
楽曲に自分自身を捧げているようにも見えた。

自分の中にあるエネルギー、
思春期ならではの衝動的なエネルギーと、
その時の感情を丸ごと差し出すような
パフォーマンスだった。

最年長の彼女は、卒業前の女性誌の
インタビューで当時を振り返り、
「自分は黒でも白でもない、
グレーでいようと心掛けた」と述べていた。

また、卒業発表後は、いろいろな媒体で
「自分の気持ちとは別に、
グループのためにはこう言った方が
いいと思って言っていたこともあった」
という趣旨の発言をしている。
そこに私は感動した。

人は、自分の感情を実は
あまり意識していないように思う。

誰かの言葉に傷ついているのに
傷ついていないふりをしたり。

本当は怒っているのに、
怒りに蓋をして相手を優先したり。

悲しいのに、怒っていると勘違いして、
怒りを誰かに向けてしまったり。

もちろん、菅井友香という人が
いつ何をどう感じ、その感情を
どう処理してきたかなんて、
いちファンにはわからないし、
わかったと思ってはいけないだろう。

しかし、
「自分の気持ちとは違っても、
グループのためにこう言ったほうが
いいと思って言ったことがあった」
という言葉からは、
自分の気持ちを確認しながら、
言動を選び取ったであろうことがわかる。

それは、
「嫌なものは嫌だと言おう」
といった欅坂46のベクトルとは、
一見違うようにも見える。
しかし、人は一つの事柄に対して、
一つの感情だけを感じる訳ではない。
グループを守りたいというのも
また一つの感情なのだろう。

一つの強い感情や信念を握りしめる欅坂から、
さまざまな感情や想いから最善の道を
意図的に選ぼうとする櫻坂への変容。
それはやはり、キャプテンが
物語の紡ぎ手となったから、
なし得たように思う。

自身の卒業発表後、
彼女はラジオで、テレビで、雑誌で、
堰を切ったように話した。
物語の紡ぎ手として、語り部として、
グループのためにという
使命感からなのか、
溢れる想いなのか。
それはいちファンには知る由もない。

ただ、その語りの中に、個人としての想いを
語ることが増えたのは感じられた。
それは、紡ぎ手や語り部という役割を手放し、
一個人へと戻るためにも
必要な過程だったのかもしれない。

太い幹のような物語の紡ぎ手であり
語り部である彼女が去った後、
櫻坂はどのように変容するのだろうか。

一人ひとりの物語はもちろん、
グループの物語も続いていく。
それでも、メンバーそれぞれが
たくさんの武器を手にした今、
「物語」以外の何かで勝負するグループに
なっていく未来もあるかもしれない。

多くの人に愛された
初代キャプテンの卒業は、
大きな分岐点となることは間違いないだろう。

ドーム後の気持ちを書いておきたくて
ずらずらと書いたが、
これはあくまでも「いちファン」の目に、
菅井友香という不世出の
アイドルがどう見えたか、
というものでしかない。
ファンに見えるものなんて一部でしかない。
見当違いの部分も多々あるだろう。

書くことは、時に暴力になる。
これも一つの暴力になってしまう可能性だってある。

それでも、やはり私は
彼女から何を受け取ったかを、
書いておきたかった。

菅井友香さん、
今までありがとうございました。

素敵なあなたの未来が、
笑顔と幸せで満ち溢れたものでありますように。






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