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noteはじめました【浦安・行徳・妙典 東京湾岸千葉情報】


初めましての方もいらっしゃれば、そうでない方もいらっしゃるかと思いますので、改めて自己紹介いたします。

2005年より「浦安・行徳・妙典 東京湾岸千葉情報」というブログを開設しています。

もともとは地元某企業との共同運営だったはずが、いつの間にかほぼ私(たまに相方氏=夫)による運営に成り果てながらも15年間細々と書き続けています。

ブログの派生としてやっているtwitterやInstagramとは視点を変えまとめや雑記的なことも書きたくなり、このたびnoteも始めてみることにしました。
扱うエリアは浦安・行徳・妙典ですが、居住区域の関係上行徳偏重になるのであしからず。

お隣同士の行徳と浦安、微妙な関係の証

さて当アカウントの対象エリアである市川市行徳地区と浦安市は2つの川で陸地と切り離された島になっていまして、自治体こそ異なるものの何かと結びつきが強いお隣同士の関係です。
電車の場合一旦市外の西船橋駅に出なければ市川市内の川向こう(本八幡とか市川とか)へ行けない行徳民にとっては、馴染み深いのは断然浦安市内のはず。

ま、「おっぱらみ」などという物騒な言い伝えの場所が史跡として残っていることからして、昔は両者あまり仲良くなかったと推察されますけどね。
漁村の浦安と天領で製塩業盛んな行徳の利害が一致するわけないのは容易に想像つきますもの。

こちらは浦安市による「おっぱらみ」解説看板。
境川をせき止めに来る行徳製塩民を追い払う浦安漁師たちの武勇伝だそうで。

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なお市川市側はこの説を否定。

そもそもなんで行徳は浦安市でなく市川市なの?

昭和の大合併で(旧)行徳町・南行徳町は市川市に編入され、取り残された形の(旧)浦安町は江戸川漁業被害からの漁業権放棄~ディズニーランド誘致~市制施行と現在の財政豊かな浦安市に向け大激変するわけですが、かたや行徳といえば相変わらず本八幡や市川との結びつき薄く、編入から60年以上経っても市川市になりきれていない感覚はぬぐえません。

ならそのときに浦安と行徳がくっつけばよかったじゃん!という思いになりがちですが、実際昭和の大合併では千葉県による行徳・南行徳・浦安3町の合併案が提案されていました。

しかし最も合併に意欲的だったのは、京葉工業地域誕生のおり工場誘致のために埋立可能な海岸線が欲しい市川市。
当時の行徳町は南行徳町や浦安町に比べ財政的に逼迫していなかったこと、また江戸川放水路により分断されていた行徳町(注:行徳町の町域は大洲・大和田・稲荷木・高谷・原木から伊勢宿・末広あたりまで)では、市川市との合併を望む地区(大洲や稲荷木など)と市川市編入に消極的な地区(本行徳)、さらには船橋市との合併を望む地区(高谷・原木・二俣)に意見が分かれ、必ずしも市川市との合併に積極的だったとはいえませんでした。

合併反対派の町長室乱入騒ぎや町長辞任と荒れに荒れた挙句、結局1955(昭和30)年に行徳町は市川市と合併(翌年には南行徳町も)するのですが、合併に先立って行われた住民投票では合併派優勢の票差がわずか58票だったというから、当時どれだけ遺恨が生まれたか想像を絶するものがあったのではと思われます。

そこから半世紀以上経った今、東西線開通で激変したベッドタウン行徳の光景から昭和の大合併の痕跡を見つけることは難しくなっています。
twitterで定期的にバズる行徳駅ビフォーアフター画像を見ると、時の流れが町の痕跡をも消し去るのだなという気がしてなりません。

もはや行徳はなんで市川市なの?と不思議がられる時代。
浦安と合併するほうがしっくりくると思っている行徳民はごまんといるのでは。
検索したら市議だった頃の現浦安市長内田悦史氏も、ブログとはいえ浦安行徳合併提案してたことあったんですね。
さすがに市長になった現在はそんなこと言及しないと思いますが。

お隣同士の浦安と行徳それぞれの個性を伝えたい

そんなわけで東西線や京葉線沿線同士でもある浦安と行徳。
漁師町浦安と製塩の町行徳も、いまやどちらも超混雑路線のベッドタウン。
ディズニーリゾートのイメージが強すぎる浦安と市川市民の間でも影が薄い行徳も、掘り下げればそれぞれ豊かな個性をもった街なので、地元以外の方にも少しずつ興味持ってもらえればなあと考えながら、ゆるやかにnote投稿していく所存です。
他県からの移住組としての視線もちょっぴり入れ混ぜて。

両者仲良くやってきましょうや!
(写真は浦安・市川市境)

#自己紹介 #はじめまして #行徳 #市川市 #浦安市


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