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死者と食器。


私の家には食器が多い。住んでいる人員に比してやたら多い。食器棚に収まらないものは物置にしまってある。少しずつ誰かに譲ったり、メルカリで売ったり、燃えないゴミの日に捨てたりしているはずなのだが、一向に減る気配が無い。


買わなければいいじゃないか。そう思うかもしれないが、私たち家族は自分の意志で食器を買ったことがほとんどない。気づいた時には食器に埋もれていたからだ。その食器の中から、それぞれ自分の好み、というよりは諦観を以て、自身の使う食器を選び、使ってきた。


そんな体たらくが長く続いたために、私も含めて家族全員が、自分の為に好きな食器を買うという、ごく当たり前の価値観を欠如させたまま今に至っているように思う。たまに誰かがご飯茶碗などを、気まぐれで買ってくることもある。ところがそれを使い始めて間もないうちに、たいてい勝手に割れてしまうのだった。


夜中に、ぱりん、と、唐突に割れる音がして行ってみると、なんとなく柄が気にいって買った私の茶碗だけが、食器棚の足元で割れていた。食器棚の扉は半開きになっていて、茶碗を収める棚には、そこに直前まで収まっていたであろう茶碗ひとつぶんの空隙がある。なぜ落ちたのか、よく分からない。昔からある他の食器に落とされたのかもしれないなと思う。


家に溢れる食器の大半は、すでにこの世にいない人間のものだ。我々の家系の特徴として、あまり物の整理が上手くない人間が多い。生前整理など眼中になく、皆、死の直前まで使いきれない物に囲まれて暮らしているわけだ。毎度、遺品整理は大仕事で、生存している一族が皆でやってきてなんとかする。たいていの物は処分するが、処分しきれないものは持ち帰る。その受け持ちが、私の家では毎度食器であった。嵩張るものだから皆持ち帰りたくないものを、我々に押し付けられた形になる。


「死者の器」という有名な小説があるが、そういうことで、うちはまさに死者の器でひしめいている。こないだ棚の奥にあった見慣れない茶碗を洗って使っていたら、母親に、それは死に水取りに使った茶碗じゃないかと言われて気分が悪かった。また、ヨーグルトをよそるのにちょうどいい器を出して使っていると、やはり母親が、それはどこどこのだれだれのもので、亡くなる直前までの詳細な病状も説明され、ちょうどその皿に煮豆かなんかよそって死ぬ直前まで食べさせていた、なんて説明をしはじめる。


器とは、とても個人的な物だと思う。食物があることは生存としての必須であるが、それをよそる器があることは、個人としての矜持といえる。人として生まれれば、それで必然的に人になれるかといえばそうではなく、衣服や仕草、宗教、歌といった、人を人たらしめる媒介があってこそ、人となれるのだ。そのひとつとして食器は存在する。


だから、かつて生きていたその人は、この器で食事を摂ることで、「その人」として存在していた。その人が死に、なかば風化しつつある途上であっても、その器を眺めることで、その人を知る者の心中に、その人は息づくことになる。


だからこそ、すでにこの世にいない人の器で食事を摂るのは、どことなく罰当たりのような気がする。ある聖なる領分に侵入している気がするのだ。それだけでなく、それで食事を摂っている私自身の実感として、それをかつて使っていた死者の一部を、食事のたびに私自身が取り込んでいるような感覚がする。その行為は、なにかしらの危険を孕みはしないだろうか。時おり心配になる。


新しく買ったご飯茶碗が割れてしまったので、また、前から使っていた茶碗に飯をよそっている。この茶碗もまた死者の持ち物らしい。しかしながら、もしかしたらこの茶碗も、私が死んだ後でさらにまた誰かに渡るのだろうかとも思う。そうなる前に、思い切って自分から割ってしまった方が後腐れが無いような気もするが、絶妙な大きさと、手の馴染みの良さ。それがあってどうにも手放せない。

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