イヨネスコ先生 2024.5.7

ウジェーヌ・イヨネスコ(1909-1994)、フランスで活動した劇作家。
不条理演劇の代表的作家のひとりです。作品も興味深いですが、ここでは演劇論的な文章を取り上げます。あまりにも人生の参考になるので、イヨネスコ先生と呼びたくなりました。

ふたたび幕あきに戻る幕ぎれ(通常演じられるもの)および、ここに示した二つの幕ぎれ以外に、三十六とおりの幕ぎれが可能であり、そして……考えられる。

『禿の女歌手』あとがき/『ベスト・オブ・イヨネスコ 授業/犀[新装版]』(白水社)より

わくわくする文です。違う結末を選ぶこともできるのは、すべての再演を(広義にせよ)再解釈といえる演劇だからこそかもしれません。2つ以外の候補は戯曲には示されていないから、「三十六通り」の結末がイヨネスコのなかでどれだけ具体的に形を取っていたかはわからないし、具体的に書き出していたわけではないかもしれません。
物語・創作論として魅力的な文章ですが、人生における選択もそうやって捉えていたいな、と思います。なにかを選ぶとき、目の前にあるのは「あれかこれか」くらいだし、現実的なところを思い浮かべてしまいがちです。でも、実現可能かは置いといて、考える分には”三十六通り”、いやそれ以上に可能性があると言えますし、どれを選んでも良いですし、そう思っていたいです。遠い将来については、今の自分には見ることも考えることもできない選択肢も存在するはずで、何がどう転ぶかわからない。だからこそ、今やりたいことをやる、納得できる選択をする、飛び込んでみる、ということが大事なのかもしれません。
わたしはたぶん10通りくらいは夢想しています。最近会った人に「やってみたいことが多すぎる」と話したら「何か始めてみれば他の選択肢は消える」と言われました。どれかひとつを選んで上演する、ということですね。少なくとも「◯歳の自分」はやり直せないから悩むし怖いけれど、えいやとどれかを選んでみなければひとつすら上演できないよなぁ、と思いました。ひとつやってみてしっくり来なければあとでふたつめを試すこともできますもんね。反対に、確固たる将来の目標があって、自分の“幕ぎれ”は1通りだ、と信じられる人もかっこいいですね。

イヨネスコに話を戻します。彼の著作に『ノート・反ノート』という演劇論集があります。『ベスト・オブ・イヨネスコ』の中で引用されていたものが面白かったので、入手しました。まだ全ては読めていませんが、つまみ読みしたなかで心に残った言葉を2つ挙げます。

すべての人がすべての人のために書くことはむろんできない。精神の共通の源泉、普遍的な源泉に到達するのは容易なことではないのだ。自分のために書かなくてはならない、そのようにしてはじめて他人に到達できる。

『ノート・反ノート』(白水社)

書きたい身体に反響する文です。これは、いろんな方のnoteに触れていて実感します。ご自身の境遇や経験、悩みを赤裸々に書いている投稿に出会い、状況が自分と似ている・悩みを解決してくれそうなどと感じると、読みたくなるからです。また、”自分が読みたいものを書く、そうすれば他にもだれか読みたい人がいる”という意味にも取れるでしょうか。

次の文はとっても好きです。

太陽と死はまともに見つめていられないという言葉がある。まだ言葉で表わすことはできるが、言うに言われぬものを言うことはできない。だが文学がそれを言えないとしたら、死が解釈されえないとしたら、言うに言われぬことが言えないとしたら、ではいったい文学がなんの役に立つだろうか?

『ノート・反ノート』(白水社)

これを読んだとき、“言うに言われぬことを言う”文学を書きたい、と感じました。いつか書けたら良いですね。「言葉で表わす」と「言う」が違う意味で書かれていることが興味深いです。「言葉で表わす」は、死は生命の機能が停止することです。とかそういうことでしょうか。「言う」は、解釈と繋がっていると思いますが、飲み込みきれません。作り手の意図だけでなく、受け手の感じ方にも関係があるような気がします。

『ノート・反ノート』は当然のように絶版(一昔前の演劇本あるある)で、図書館にもなかなかないみたいです。すごく面白いのにな。演劇論がほかの全ての芸術に繋がっていたり、創作論の面も持っていたり、というところがとても良いです。演劇に全く馴染みのない人が読んで面白いかはわからないけれど、それでも、演劇好き以外にも通用する内容だと思います。

今後もちまちま読むつもりです。イヨネスコがこんなことを言ってたよ〜と時々書くかもしれません。

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