2022年8月11日

 今日は甲子園を聴いた。家にテレビがないから、ラジオで楽しんだ。ここ数年、甲子園を見ていると(今年は聴いているが)思うことがある。自分の年齢的な成長だ。甲子園は、記憶がないほど昔から見ていた。というよりも決まって家で流れていた。幼稚園生や小学生の頃には、高校生なんて「立派な大人」だった。そんな人たちが一生懸命ボールを追って汗を流して、全力で叫んで、買って喜び負けて泣き、校歌を正々堂々と歌っている。幼い僕の中のカッコいいものの代表だった。

 それが今では、大学生で、22歳で、電車で乗り合わせた高校生の会話を聞いて「あぁ、青春だな」と思っている(お前も青春真っ只中だぞとツッコミはよく大人からされている)。月日というものは恐ろしいものだ。ついこの前までおじゃる丸やしんちゃんと同じ年齢だったような気もするし、カツオくんやのび太くんのような年頃であったような気もする。妹が4歳の時と自分が14歳の時はちょうどこの時期に放送された『火垂るの墓』を見て号泣したものだ。高校生でその原作小説を読み絶句してしまったこともつい昨日のようであるし、懐かしくも感じる。

 そのように強く感じるのは、今『九十歳。なにがめでたい』を読んでいるから、その影響も少なからずあるだろう。芸術作品というものは、それに触れている間、鑑賞者の中で強く生き続ける。特に彼女(佐藤愛子氏)は、今の世の中に対し、若者に対し、懸念することをこのエッセイで綴っているし、その気持ちは僕もわかる部分が多く、会ったことはないし、失礼ながら彼女の作品には初めて触れたがとても近い感覚があった。これはシリーズ化していて幾つかあったから、他のも読みたい。

 今月に入って読書時間が増加した。僕個人としては良いことである。だが、触れるコンテンツが、映画と本しかないため、ラジオを聴きはじめた。この歳になって、ラジオの良さに気がついた。それが遅いのか早いのかはわからないため、その事実だけを書いておく。なにがいいというのは、一番は実際に聴いて感じてほしい。僕個人として思うのは、甲子園をラジオで聴くと、どういう選手が今打席に立ち、どういうピッチャーがどういう球を投げて、など耳から得られる情報を頼りに想像できる点である。試合の様子を実際に目にすることはできないが、想像できる点が僕としては何よりも大きい。本読んでいるような感覚に似ている。なぜもっと早くその魅力に気がつけなかったのかと思ったほどだ。これから色々とお世話になることだろう。今まで趣味という趣味がなかったように感じていたからとても楽しみである。

 話を戻すと、今こうして今日明日を必死にもがいている時間も、数年後には、同様に過去になって、懐かしくもつい昨日のようにも感じるのだろう。それが人生というものの美しさなのだろうと思うが、まだ若いからかとても恐ろしく感じることでもある。

 この夏休みはびっしりアルバイトづくしで今にも死にそうな毎日だが、そういうことができるのも今だけなのかもしれない。そういう人生を望んだわけではないが、選んだ道の延長線上に存在したものだから乗り越えるしかない。今までも何度もそうやって、死んでしまうかもと思いながらも、なんとか生きてこれた。そういう自分の生命力を信じて、明日も明後日も生きていきたい。恵まれて入学できて、苦労して戻ってきた大学なのだから、卒業は最低限したいし、6歳から夢見ていた世界・業界だから昔の自分のためにも実現したい。そんな思いで、アルバイトだらけの夏休みの合間を縫って縫って、編集の練習をしていきたいし、これからはラジオを楽しんで、もっと本も映画も摂取して、成長していきたい。次はどんな有名キャラクターの年齢に追いつき、追い越していくのだろう。

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