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語り継がれる物語。見える世界、見えない世界。

ゴンドアートというインド中央部のマディア・プラデーシュ州近郊に住むパルダーン・ゴンドという先住民族が描く絵が好きだ。
目を引く色彩とユーモラスで美しいモチーフ。そして、そのモチーフに敷き詰められた繊細なパターン。
そして、これは原画を見るとよくわかるのだけれど、躍動感を感じる立体感は、絵を眺めるというよりも、絵の中に放り込まれるような感覚だ。

別に絵心もないし知識もないけれど、どうにも好きすぎて、何とか自分でも描けないか(なんか描けそうだし、と、ド素人は大胆で恐ろしいことを考え行動する)とネットを見たらYouTubeにhow toみたいな動画が何個か投稿されてる。
なんと家にいながら異国の、しかも少数民族の絵について、モチーフの書き方からパターンの種類、色の付け方…色々な情報が手に入る。便利な世の中になったものだ、と昭和の人間は思う。
それを見ながら、まずは模写。
が、何度も何度も描いてみたけれど、全くお話にならない。
モチーフ自体はそんなに複雑さはなく、近い線を描くことは可能である。パターンも同様。
なのに、当たり前だが、全くお話ならない。

シンプルだからこその、センス、味わいというものはもちろんある。
でも、それ以前に、
私には、彼らの描く絵のような世界が見えていないのだ。
この世界が彼らの描く絵のように見えていないのだ。

5月末におじゃました個展では、ゴンドアーティスト達のインタヴューを収めたVTRを流していた。
「なぜ、絵を描くのか?」の質問に、作家たちの多くは「祖先が大事にし、伝えてきたものをこれからも伝えるため」と答えていた。
ゴンドアートに注目が集まるようになって、周辺地域に住む、ゴンド族以外のアーティストもゴンドアートを手掛けるようになったらしい。
でも、「技術もセンスも優れていて素敵な作品を作るけれど、この物語は描けない」と主催者の方がおっしゃっていた。
きっと、彼らアーティスト達であっても、あの世界は見えていないだろう。

人間は、ものを見るとき、
①視覚から入った情報によって表象(イメージ)を作り出す。
②その表象(イメージ)を対象物に投影する。
この2つを同時に行っているらしい。
つまり、物語(によって作られたイメージ)を同時に見ているのかもしれない。

先祖代々、もう、DNAレベルの記憶に刻まれていそうな、そして、実際に子供のころから聴き続け記憶に刻まれた、数々の物語。
そんな物語を持った彼らの目に映る世界は、同じ物語を持たない人間には見ることができないのかもしれない。

では、私はどんな物語を持っているのだろうか?
この世界を見せている物語はなんなのだろうか?

私には、先祖代々語り継がれた物語が浮かばない。
宗教も持たないし、いわゆる東京の核家族で育ったから、自分のルーツとなる土地(私でいえば両親の出身地である新潟)の空気やそれを語ってくれる祖母との交流も盆と正月の限られた時間だけだった。

自分がこれまで経験してきた一世代きりの物語しかないのだろうか?

でも、その物語の中には、大きなものではないけれど、母や父と過ごした中で、ふんわりとした空気に紡ぎだされていた、小さな物語がある。
それは、祖母と祖父と母が過ごした中での物語、祖母が曾祖母と曽祖父と過ごした中での物語。
徐々に薄まったり、濃くなったり、消えて行ったり、生まれたり…形を変えながら、語り継がれているのかもしれない。

そして、そのふんわりとした物語を通して、私の眼にはこの世界が映っている。

鮮やかな記憶として、物語が語り続けられているゴンド族と彼らが見ている世界。
あまりの美しさにうらやましさを覚えるし憧れるけれど、この私の、現代日本の、ふんわりとした物語とそれを通して見える世界も悪くない。
決して大きくはないけれど、うっかりすると見逃したり見失ったりしてしまいそうだけれど、そんな小さな物語が愛おしくもあり、誇りに思う。

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