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看護学生のインタビューレポートから:集団就職とサンゴ

集団就職とサンゴ

年齢:70代後半 出身地:宮古島 関係:祖母

テーマ設定理由
県外に就職したことは知っていてどういう思いで宮古島から離れたのか気になったから。高校卒業後、地元から離れて寂しくてなかったのかなと思ったから。

インタビュー内容
Q県外へ就職したきっかけはなんですか?
A 私は農家の長女として生まれて、両親は朝から夜遅くまで畑で働いていて幼いころから家の手伝い、弟妹の面倒、夕食を作ったりさせられて自由がなく嫌だった。だから宮古島から出たかった。18歳の時、本土から採用担当者が来ていて愛知県へ行った。

Qどこへ就職したんですか?
A愛知県の紡績工場。

Qどうやって愛知県まで行ったの?
A船に乗って、鹿児島県まで行って、そこからはバスで愛知県へ行ったよ。

Q愛知県にいるときは、どこに住んでいたの?
A 寮だよみんな強制的に。その方がお金もかからないさ。

Q 仕事以外に何かやっていたの?
A 12時くらいから保育短大に通ってた。そこで保育士の免許とったわけ。就職の条件が学校に通うことだったから。美容の専門学校に行く人もいたよ。ただなんとなく働かすんじゃないよ。

Q 生活費や学費などのお金はどうしていたの?
A働いたお金で、給料とボーナスから引かれていたね。

Q愛知県に行って1番驚いたことはなに?
A 向こうに(愛知県)に行って一番驚いたことは、温かいラーメンが出てくる自動販売機。冷たいのは出てこなかった。どこから出てくるの!?って友達とぐるぐる自動販売機のまわりをまわったね。あとは、沖縄のお金と大和のお金が違うことかな。

Q まだ宮古島もアメリカに占領されていたの?
A そうそう。宮古島は戦争の影響はそんなになかったけど。大和にいくときは、パスポート。本土復帰したのは、大和(県外)にいるとき。

Q 県外へ行ってよかった?
A行ってよかったよ。部屋は一人一人あって、寮にテレビがあって、寮生活は自由気ままだった。宮古にいるときは、夏場に風呂は入れない、干ばつで夏場に水はない。気持ち悪かった。

Q保育士の免許を取ったあとはどうしたの?
A 愛知県で保育所に就職して、両親に戻って来いと言われて1回だけ宮古に帰ったけど。次女三女は、自由なのになんで私だけって!?って思った。長女にいて欲しかったんだろうね。宮古にいるときは、教育員会の採用面接受けたけど落ちてね、また県外に戻った。宮古は何にもなかった。

Q宮古を出る前と出た後の変化はなにかあった?
A サンゴがとれなくなっていたことかな。宮古島を出た後に規制がかかったみたい。くちべらしっていって、他の集落から、次三男が久松(祖母が住んでいたところ)に奉公にきていたの。久松はね、漁業が盛んだったから、夏はカツオの味噌汁でね、高校生の時からお米が食べられるようになって。普通のお米じゃないよ。お酒に使うような台湾のお米。ここは食べ物があったから、畑を手伝いながら、とにかく食べる物だけでもって奉公にきた人がいたね。その頃は兄弟がいっぱいいたから、お金もないしね。久松にね奉公がいっぱいいた。私のお家にもいたよ。○○男っていうくちべらしの奉公人がいたよ。一緒にカツオ漁にもいったの。カツオ漁の合間にサンゴをとってた。網でとってた。あの時は自由だったの。せりがあった装飾品の。カツオ漁よりもお金になるの。海の生きたサンゴ。大変な価値よ。今はさわってもだめ。取りすぎたのよあのとき。とっても綺麗だった。枝がわーっとなって。


考察
長女として生まれたことでたくさん我慢していることがあっただろうし、県外に行って自由を感じたんだろうなと思った。昔は両親にとって、長男、長女は特別な存在だったんだろうなと思った。宮古島の質問をしたときが1番いきいきしていて、集団就職の話よりもっと宮古島の話を聞けばよかったと思った。

感想
最初はインタビューを断られました。でも、どういう事が聞きたいか丁寧に説明したら承諾してくれて、インタビューをするときは、信頼関係が築けている人でも、言葉や交渉の仕方が大事だと思いました。インタビューで1番心に残ったことは、サンゴを取ってお金にしていたことです。今では禁止されていて、その時代でも沖縄でしか出来ないことだろうから、貴重な経験だったと思います。インタビューを通して今まで知らなかった祖母のことを知れたし、自分の知らない世界を教えてくれた祖母をこれからも大切にしていきたいです。

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