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鯨島快斗 35歳 旅ライター・エッセイスト

 鯨島快斗と申します。この名前は文章を書くときのペンネームです。私は年の4分の3は国内外を問わず旅行をしていて、普段はその体験記や土地土地の生活日誌などを旅雑誌に連載しています。
 このご時世で国内の行き来が制限されてから正直生活は辛いですが、なんとか暮らせています。そんな時知人のテレビ業界の方から、何か書いてみないかと言われまして、このままでは文章力も次第に落ちてきてしまうと思ったため寄稿することにしました。
 おととしの夏に起こった出来事をお話しします。一通のメールが私のアドレスに届きました。私はその時、南米ウルグアイに滞在していました。差出人には「楠木八重子」と表示されていましたが、私には心当たりがありません。内容は以下のようなものでした。

「鯨島様
 私は東京都××区に住んでおります楠と申します。「●●(雑誌名)」のあなたの連載をいつも楽しんで拝見しています。伸び伸びした文章を読んでいてあなたのような生き方に憧れてしまいます。目的地はなく思いついたまま自由きままに地球を旅する、あなたのような人を本当の旅人と言うのだと思います。これからも応援させてください!楠木八重子」

 普段私は色々な方とメールのやり取りはしていますが、このようなファンの方からのメールは、ましてや、女性からのメールは(苦笑)珍しかったので、すぐに「ありがとうございます!」と感謝のメールを返信しました。
 その返信をきっかけに楠木さんから頻繁にメールをいただくようになりました。週に1回か2回、多い時は毎日のように何気ない毎日のことなどをやりとりをするようになりました。書いてらっしゃることや文体がまともな方だったので、こちらも次第に打ち解けて、次第に普段人には話さないようなプライベートなことまで話せる関係になっていました。
 楠木さんは30代前半の主婦で、貿易会社に勤める旦那様がいるのですが、ほとんど単身赴任に近いようであまり家に帰ってこず、お子様や同居人もいないので退屈な毎日を過ごしているとのことでした。楠木さんは大学時代旅行サークルに所属しており、夏期休暇や年末年始になると必ず海外に旅行に出かけていたそうです。ですが、結婚してからは新婚旅行以降は旦那さんの家族との付き合いやら旦那さんの会社仲間との時間を優先せねばならず、なかなか旅に出る自由が無くなってしまったそうです。

「最近では、夫は私のことを家政婦か何かだと思っていると思うんです。家族として、ましてや1人の女だとは全然思ってくれなくて、、、」

 そんなことを書かれると、男の私としてはドギマギしてしまって何と返せば良いのかわかりませんでしたが、大丈夫ですよと、慰めにもならない言葉をメールで投げかけていました。
 楠木さんはそれ以降、私に「寂しい」「精神的に病みそう」「生きていくのが怖い」などメンタルの辛さを次々に訴えてくるようになりました。
私はと言えば、その3ヶ月の間にウルグアイを発って、アルゼンチン、チリ、ペルー、ボリビア、ブラジルと南米大陸を半周していたので、そろそろ一旦日本に帰ろうと思っていました。もともとウルグアイから直接帰国しようと思っていましたが、南米の魅力に取り憑かれ数ヶ月帰国を延ばしていたところでした。
 南米の国々での生活は、毎日が大変刺激的でその只中にいる私にとって、日本の1人の主婦の苦悩は、正直現実感を伴わなかったのですが、一方で、世界中を旅していながら主婦の悩み相談を聞いているというのもアンバランスで少し面白くなってきていたところでした。
 日本に帰る予定だと楠木さんにメールで伝えると、すぐに返信が来ました。

「鯨島様。日本に帰ってらっしゃるんですね!お恥ずかしい話ですが、このメールをやりとりしている中で、あなたに是非お会いしたい気持ちが募ってまいりました。私のこの閉塞感に覆われた毎日を救ってくれるのはあなたしかいないと感じはじめてしまったのです。私は旅には出かけられませんが、あなたの海外での体験談やお話を聞いて、心だけでも大空に飛び立ちたいと思います。日本に帰られましたら、是非お会いさせていただきたいと思っているのですがいかがでしょうか?もちろんこんな暑苦しい厚かましいお願いなので、お会いするのにかかる食事代や交通費は私がお支払いします。宿泊が必要でしたら宿泊費もお出しします」
 
 宿泊費と聞いて、私は面食らってしまいました。もしかしてこの人は旅の体験談とは別の何かを私に求めているのではないか。お世辞にも私は見た目が良いわけではなく、文章はともかくお話が特段上手いというわけでもありません。直接お会いして楠木さんが失望することがあれば逆に自分が傷つくだけです。
 しかし、いろいろ考えて返信を送るのをしばらく躊躇っていたのですが、結局のところ私は楠木さんにお会いすることに決めました。困っている人がいて私ができることが少しでもあるのであれば力になりたい、と思ったのです。

「私でよければお話しさせてください。楠木さんの心が軽くなるかどうかわかりませんが、南米のお土産もお持ちいたします 笑」
楠木さんにそうメールすると大変喜んでくれました。

 それから10日後、私は成田空港に着いていました。久しぶりの日本は南米に比べ空気が研ぎ澄まされているような気がして、なぜか少し緊張してしまいました。

 自宅に戻ると、荷物を片付けて、この旅行記を何回分の連載にして、どの雑誌に振り分けるかなどを考えて、その日は早く寝ようと考えましたが結局いろいろが気になってしまい、作業をしているうちに朝方になっていました。

 翌日は、楠木さんと会う日になっていました。できるだけ早く会いたい、という楠木さんの要望でお昼2時に、都内ホテルのロビーで会うことになっていました。私は少し緊張しながら普段は着慣れないジャケットを羽織って、革の鞄を抱えてホテルに向かいました。南米と東京とでは人の多さも車の多さも圧倒的に違います。なんだか人酔いでクラクラしてしまってホテルに着くまでにすれ違う何人かの人と肩がぶつかったりしてしまいました。

 目指すホテルのロビーにつきました。楠木さんはまだ着いておらず、しばらくソファーで座って待っていますと、約束の時間になったころメールが届いていることに気づきました。携帯からチェックすると、楠木さんからで、このように書かれていました。

「鯨島様、もうお着きになっていますでしょうか?先ほどまでいろいろ考えて、やはりじっくりお話が伺いたいと思いまして、急遽このホテルの302号室をとりました。そちらにお越しいただくことは可能でしょうか?」
 
 私の中でモヤモヤしつつあった予感が的中しました。楠木さんは私の体験談や話と言うよりももっと別の何かを欲しているのです。顔も知らない相手に求めるにはかなり恐怖を伴う行為だと思いますが、表に出ている私の文章や行動から人格を判断して、御自身の願望と合致すると思われたのだと思います。引き返すべきだったのかもしれませんが、私もここまで来たのだからと、思い切って302号室に向かうことにしました。

 エレベーターを降り、3階に着きました。廊下を踏み締める一歩一歩に緊張を感じます。そして302号室の前に立つと周囲を見回してフウと一呼吸つき、ノックしました。
 
 しばらくすると、薄くドアが開き女性の顔が見えました。肩まで伸ばした髪が綺麗で、目が大きい女性でした。
 「鯨島さんですね」と聞いてきたので「ええそうです」と応えました。チェーンを外してドアが開きました。
「わざわざすみません…楠木と申します」
部屋の中に私を案内すると、楠木さんは頭を下げました。黒いセーターと深緑のスカート姿で、小柄ながら昔スポーツをやっていたような印象を受けました。
「なんかメールだけでお話ししていたので変な感じですね、、、」
私は頭をかきながら、促されるまま窓際の椅子に腰掛けました。楠木さんは「わざわざすみません」と言いながら、ポットでお茶を入れているようでした。ツインルームでしょうか、そこまで大きい部屋ではないので、自然部屋の中で一番大きい家具はベッドとなり、私は、なるべく見ないように努めていました。しばらく沈黙の時間が流れたので、私は「あ、南米のお土産を持ってきました」と、鞄に手を入れました。

 
 その瞬間です。部屋のドアが突然開いて、2人の男性が廊下から飛びこむように入ってきました。2人ともスーツ姿でした。
 え?え?と私がポカンとしていると2人のうちの年上らしき男が私に名刺を見せました。そこには「関東信越厚生局 麻薬取締部麻薬取締官」と言う文字が見えました。その男は「意味分かりますよね。あなたに大麻所持および使用の疑いがあります。恐れ入りますが荷物を調べさせていただきます」と事務的に言うと、もう1人の男が私の鞄を探り始めました。いつのまにか楠木さんの姿は消えていました。
 
 実は、これは全てが厚生省管轄の麻薬取締部、通称「マトリ」が、約半年をかけて私のことを逮捕すべく行っていた計画でした。大麻が合法化されていたり、規制が緩い南米に渡航歴が多い私を、大麻の「運び屋」と睨んだマトリは、組織ぐるみで私を逮捕しようとしたのです。国内での私の行動範囲の中で大麻の売買が行われていた事実が発覚したとのことでした。楠木さんはもちろんマトリ側の罠で(最後まで誰なのかは教えてくれませんでしたが)、わざとメールのやり取りで心神耗弱な部分を見せ、私が大麻を渡したり売ろうとするのを誘い出したのです。もちろん楠木さん側が運ぶこと自体を示唆することはできないので、楠木さんからのメールの中には一度もクスリやヤクなど具体的な内容は書かれていませんでした。つまり囮作戦によって大麻所持の疑いがある私を誘き出したのです。

 その結果がどうだったか、というと…。
私の所持品や衣類からは、一切の薬物は見つかりませんでした。お土産として渡そうとしたのはカッピン・ドウラードというブラジル産の金色の草でできたペンダントで、帰りのグアルーリョス空港で購入したものです。それ以外は手帳や各地を撮影した写真ぐらいで、鞄の中には他に何も入れてきていませんでした。

 マトリ側としては目の前で物証を見つけて、現行犯逮捕としたかったのでしょうが、何も出てきません。時間が経つにつれ、次第に焦りの色が出てくる取締官たちの様子を見ているのは何だか哀れにも感じてきました。結局、私は本部にも移動し尿検査もされ、自宅の捜索もされましたが何の発見にも至りませんでした。
 身柄の解放が決まった時、私は涙ながらに一連の捜査の理不尽さを取締官に訴えました。取り調べの間仕事もストップし、噂を聞いたクライアントからはなぜ連絡が取れなかったのかと疑いも生じている。一度疑われた人間は例え無実であっても一生疑われ続ける。これはどう責任を取るんだ!と追及し、さらに今回の囮捜査の違法性を糾弾しました。しかし、同席した取締官たちはひたすらに捜査の正当性を繰り返すだけでした。
 私自身、ホテルの部屋まで入ってしまった事実があり、そこに自分でも何らかのやましさがないとは言い切れない負い目があったため、結局、今回は大人しく家路につくことになりました。

 帰り道、私は緑生茂る街路樹に囲まれた道をとぼとぼと歩きました。200メートルほど進むと、振り返って自分が取り調べを受けていた建物を見つめ、ため息をつきました。
 危なかった、と思いました。はじめに楠木からメールが来た段階でもしかしたらと危険性を感じたため、そこから大麻の使用は避けたのが正解でした。尿検査で陰性になるためには90日は必要だったので旅を延長し、抜けた頃に帰国時を定めました。ウルグアイで手に入れた少量の大麻はボールペンの芯の中に入れて運びました。税関では麻薬犬に感づかれそうになりましたが、香水を振りかけてあったためなんとか免れました。帰国後は予定通り、心神が緩くなっている楠木に売りつけようと思いましたが1日考えて絶対におかしいことに気づき、仲間の売人に連絡しました。家に置いておくこともできなくなったので、ホテルに向かう際に偶然を装って仲間とぶつかり、その隙に大麻が入ったボールペンを渡しました、数人にぶつかりそうになっていたのでおそらく尾行していたであろう取締官にも気づかれていないようでした。

 ここにこうやって真実を書いてしまっていますが、もうすでに年月が経ってしまっていますので何の証拠もありませんし、ここに書いたことは全てウソだと言ってしまえばすむことです。
 そして、これを書いている私は、再び日本を離れ、ある国に渡っています。ここでは大麻は合法ですし、アルコールに近い感覚で使用されているので何のおとがめもありません。目下、毎日灼熱の太陽の下でビール飲みながらラリリまくってます。
 法は他人が作るものです。でも真実とか罪は自分一人一人がルールを決めて自分で判断していくものだと思っています。
これからも私は私自身にだけは、正直に生きていこうと思います。

 いい気分になってきました。
 視界がマーブルに微睡んでいきます。

 それでは、皆さんごきげんよう。
 チャオ。



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