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引きこもりこそが"正気"で社会参加は"狂気"だという話

こんにちは。私は昔からある思い込みがあります。目に見える物の全てが私に対するメッセージなんじゃないかと思うのですよね。この世界そのものがビジュアルノベルゲームのように、選択肢を選ぶだけじゃないかと思える時があります。

全ての広告や他人から発する言葉は、何かしらの信号を持ったメッセージだと言えます。五感で感じれることの全ては自己に対するメッセージだと思います。
これは自分がこの物語の主人公であるという自惚れにも聞こえますが、実際の所その通りだとしか言えません。何せゲームのように視点を変えることができませんからね。

斎藤環が以前、"極論を言うと、引きこもりが「正気」で社会参加こそ「狂気」だ"というような話をしていました。
自分が主人公でありながら、客観的に見れば全くのモブキャラだという、矛盾を保ったまま、まともなフリをして生きるという狂気じみたことをしているのが社会人なんだと思います。
逆に言うと、正常である事というのは狂気的な側面と正常な面の2つを持つ事が、正常な状態なのでしょう。

まあでも、来年は働きますよね。そうは言ってもね。


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