目と眼(まなこ)と瞳(ひとみ)と土偶の存在論

今日、眼科通院だった。眼と書いて「がん」と読むのは、不思議だ。 それは、(まなこ)とも読み、目や瞳と、同じ意味である事も、また不思議です。
顔に付いた一つの器官に名前が複数以上有るのは変です。

一つの事象・物には、名前は一つで充分でしょ?

僕は、不思議な事や、分からない事を、分からないままにしておくのが苦手な性分だから、ネットで「目に、眼や瞳と複数の呼称が有る理由」と調べてみたが、ネットでググっても、何も分からなかった。
調べて分からなければ、自分で推測するしかない。僕の憶測(妄想?)では、それは、縄文時代の名残でないか?といったところだ。
その根拠は縄文文化の代表品「斜光器土偶」です。皆さんも学校で習った時、あの異様に大きな目(斜光器?)に、違和感を覚えませんでした?妖しいような、厳かなような、
顔の面積の八割方「目」なんてデザインは、どう見ても不自然だから、それには、きっと何らかの意味が有るだろう。あの独特のフォルムに僕は、信仰の対象としての威風・貫禄を感じます。
縄文人の一族に、目を信仰対象とする種族が有ったとしても不思議じゃないと思います。何故なら、縄文人は、まだ里に降りず、山に近い区域で、狩猟生活をしていたから、獲物を見つけるのも、獰猛な外敵を見つけ、気付くのも「目」の役割だから、当時の人々に目を尊重する風習が有っても不思議じゃない。と考えれば、斜光器土偶の異様に大きな目にも、説明が付くし、そんな信仰が有って、複数の宗派に分かれていたら、「目」の呼称が宗派の数だけ(複数以上)有っても、おかしくない。
前述の通り目は、我々の生活を、命を支えているから、目は我々にとって「最重要器官」ですが、 我々の目が成立させているのは、我々自身の存在や生活だけでなく「世界そのもの」も、また、我々の目によって成立している筈です。
定説では、遥か昔「ビッグバン」という爆発で、宇宙は、誕生したと言われているが、そうして発生した宇宙に、たまたま、惑星が形成され、たまたま、生命も発生し、長い年月をかけた進化の結果、目を宿した者が現れ、その中の類人猿の中に、無駄に脳が肥大した猿達(我々・ホモサピエンス)が見える物全てを「世界」と呼んでいるだけなので、もし、原始の宇宙で生命が発生せず、また、進化を始めず、目を持つ者が居ないままの世界は「存在している」と言えるだろうか?誰にも、それを見たり、知覚されず、そこに何もいない。なんて状態に「世界」とか「存在」なんて概念当てるのは、おかしいでしょ?

たとえば、今、僕の部屋の床下にネズミが、天井裏にゴキブリが居ても、僕には、見えていないから、そのネズミもゴキブリも僕にとっては、存在していないのと一緒だ。
こんな風に、存在とは、認識(される事)に、世界は、知覚(される事)によって成立している。
 つまり、奇跡的な物理現象「ビッグバン」で、せっかく誕生した宇宙に、惑星のひとつも、生命も、まったく生まれなかったら、その状態は、限りなく「無」に近い筈で、そこに発生した生命が進化を始め「知覚」を得て初めて「世界」は成立する概念の筈だ。
だって「そこに何も無い・何者からも知覚されない」←これって、どう考えても「世界」とも「存在」とも呼べない。

 斜光器土偶様の大きな瞳はそんな「世界や存在」と「知覚や視覚」の不思議な関係(世界の仕組み)を象徴しているのでは?

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