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【社会心理学】自由なつもりなだけで全く自由じゃない現代人について
総合的な思考基盤を養うことをテーマに読書した知識を引用・解説していくnote。本稿では「自由からの逃走 著エーリッヒ・フロム」より、精神医学におけるナレッジを紹介していく。
【読んでほしい人】
社会学や心理学、人間の発達に興味がある人。マネジメントで深層心理を勉強したい人
![](https://assets.st-note.com/img/1652278204789-GUqlZOskIc.jpg)
それではみていこう。
#1自由からの自由
昨今「自由」について見直されている。かつて貴族のような有力層を筆頭にトップダウンの組織構造であった頃と比較して、今日では職業選択の自由、婚姻相手選択の自由、言論の自由などなど自由が溢れている。
それは弾圧されてきた層━━━いわゆる不自由だった民間人━━━が声を上げ、血を流し勝ち取ってきたものである一方で、果たしてその緊縛からの解放は正しい選択だったのか、有識者の中でも議論が分かつところである。
個人に安定をあたえると同時にかれを束縛していた前個人的社会の絆からは自由になったが、個人的自我の実現、すなわち個人の知的な、感情的な、また感覚的な諸能力の表現という積極的な意味における自由は、まだ獲得していないということである。
つまり、われわれが敵━━━貴族連中など!━━━とみなしていた伝統的な束縛から自由になったが、新しい束縛に絡まっているということだ。
新しい束縛とは例えば、信仰の自由において、自身の良心に正直に信仰することを許されなかった(キリスト教、国教が絶対!)ことを考えるとそれらからは解放されたが非科学的な信仰━━━いわゆる自分で考える哲学をもつことが難しくなった。
また例えば、言論の自由においてはこのように書かれている。
自分の話している大部分が、他のだれもが考え話しているような状態にあることを忘れている。また現代人は独創的に考える力、━━━すなわち自分自身で考える能力を獲得していないということを忘れている。
外的脅威から解放されて、自由に行動できるようになったことを誇りに思っている。しかしわれわれは世論とか「常識」など、匿名の脅威というものの役割を見落としている。
言い換えれば、自由を妨げる特定の”敵”を除外することに成功したが、
集団的な思想、言葉にするのは難しいけど「こうするのが当たり前」という一般的感覚が新たな脅威
になっている。
その脅威があるせいで、人は忖度をしていまい、本来的な自分の思想を見失っているというのである。
皮肉にも伝統的な束縛から逃れたわれわれは自由だからこそ果てしない広大さに不安を覚えている。
占いや成功者にアドバイスをもらいたくなる、という衝動はまさしく自由からの逃走といえるだろう。━━━誰か私の行く末を占って!
━━━その不安というのはどこからやってくるのだろう?
主観的には、人間が人間をこえた目的のために働き、人間が作ったその機会の召使いとなり、ひいては個人の無意味と無力の感情を生みだすこととなった。
━━━かなり興味深いではないか!伝統的な束縛を見事倒したにも関わらず次の敵がどこにいるのかもわからず、不安となる本質的な原因にも気づかず消耗している。
よくSFストーリーで取り上げられるシチュエーションとしては、ジョージウォーエル「1984年」のような全体主義社会や、アニメ「PSYCHO-PASS」のようなAIの合理的判断が支配するものがある。
「1984年」では、まさに伝統的な束縛といえる、中央集権的な世界観が描かれている。そこでは自宅や社会すべてにカメラが設置されており監視社会がある。
一方で「PSYCHO-PASS」では、人工知能が国民の結婚相手や職業を━━━様々な数値を計算して合理的な判断をもとに━━━決定する。登場人物の中には興味深いコメントがある。
━━━昔は受験などがあって自分ですべて決めていたみたいよ。今ならAIが合理的に決めてくれてすごく楽だよね!
悲しいかな、練習のすえにやっとの思いで巣から羽ばたいた雛は大きな大きな鳥かごに戻ってしまったというのか。なんと哀れだろう。━━━しかもそれに気づいていない!
かれは自由の重荷からのがれて新しい依存と従属を求めるか、あるいは人間の独自性と個性とにもとづいた積極的な自由の完全な実現に進むかの二者択一に迫られる。
***
#2思考の自由がなくなった!
#1では本来的な自由を獲得できていないことについてみてきたが本章では、「思考の自由がない」仮説をより具体的に検討していく。
思考の自由がないというのはどういうことか、まずはこの引用をみてほしい。
人間は自分の精神的行為の自発性を確信しているとしても、じっさいには、それはある特殊な状況のもとで、だれかほかの人間の影響に由来しているということである。
ほかの権威ある意見をただくりかえしているだけなのを忘れ、この意見はかれ自身の考えで到達したものと思い込んでいる。
その「考え」は本質的にうわっつらのもので、経験や欲求や知識の自然的な結合から生ずるものではない。
そうだ。われわれは相対的な世界で生きている。相対的な世界で生きている以上、他者(=自分以外)からの影響を受けないことはあるまい。
完全オリジナルで生きている人間はひとりもいない━━━誰でも自転車の乗り方や箸の使い方を親から学んできただろう?
何もないところから新しい概念が発生することはない。ダイナミズムにおけるビックバンはあっても個人に内在する原子群の爆発により思想は誕生しない。
いやそれでいいのだ。大事なのは相対的な枠組みの中で生きていることを自覚し、自身の考えを再検討し、取り入れることなのだ。
例えば、とある政治家が━━━Aが内閣総理大臣になることは日本国にとって無益だ━━━と発言したとする。
それを聞いた個人は鵜呑みにしてA議員に×をつけるのではなく、
なぜそのように結論づけるのか、またその結論に基づくデータを自身が保有しているかを見直す
ことで本質的な思考が手に入ると私は考える。
少し角度を変えてみよう。自らの求めること、考えること、行うこと、それらは自身の思考に根差したものになっているだろうか。
昨今SNSを利用することが当たり前になってきた。多かれ少なかれ投稿の内容が”正しい”か”受け入れられる”か検討するのではなかろうか。
言い換えれば、
自分がどうしたいかではなく、世間的にどうするのがよいか、が第一判断軸となってしまっている
ということである。
われわれサピエンスは生来的に人との関わり合いを重んじる。
その方が何かあった際に助けてもらえたり、食べ物を恵んでもらえ、生存率があがるからである。人の目を気にすることは本能であり避けることは難しい。その結果、
自己の喪失とにせの自己の代置は、個人を烈しい不安の状態になげこむ。かれは本質的には、他人の期待の反映であり、ある程度自己の同一性を失っているので、かれには懐疑がつきまとう。このような同一性の喪失が生まれてくる恐怖を克服するために、かれは順応することを強いられ、他人によって絶えず認められ、承認されることによって、自己同一性を求めようとする。
その対応法は既に書いた。繰り返す。
>>いやそれでいいのだ。大事なのは相対的な枠組みの中で生きていることを自覚し、自身の考えを再検討し、取り入れることなのだ。
━━━FIN
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