長嶋祐成

魚の絵描きをしています。30代も終盤にさしかかり、大切かもしれないいろんな考えごとや記…

長嶋祐成

魚の絵描きをしています。30代も終盤にさしかかり、大切かもしれないいろんな考えごとや記憶がこぼれていくのを不安に思うようになりました。どうでもいいことかなと思いつつここに記す次第です。

最近の記事

ハライチ岩井さんのナタデココと、僕の漢字練習帳

「ハライチのターン」2022年4月28日、岩井さんのナタデココの話が泣き笑いで非常に良い。小学生らしい自他の融通のなさと、そこからくる怯え混じりの落ち着かない感情が自身にも思い当たるものとしてありありと再現された。 よく似た出来事をいまだにはっきりと覚えている。 学校近くの「松本文具店」で指定の漢字練習帳を買ってくるように言われていた小学2年生の僕は、岩井さんと同じようにやはり前日、日曜日の夜になってそのことを思い出した。そもそもその週末は万博公園で開催されていた「花博」

    • ブックマークが自分を作っている

      休憩や作業BGM探しの脱線で、無意識のうちにブラウザのブックマークの中から適当にクリックしたサイトを見てしまう。それもできるだけ高頻度で情報が更新されていそうなものを選んでいる。質の高い情報というのはそう次々出てくるものではないから、結局のところコメント付きニュースサイトやTwitterといったジャンクをボンヤリ眺めることになってしまう。くだらないなと思いながら死んだ目でザッピングしているようなものだ。カエルは動くものに飛びついてしまうが、人間は流れてくる情報に無表情に引き寄

      • 0-100に身を置きたい弱さ

        ある釣具メーカーの動画で、釣り上げた魚の口から針が外れたのを撮影用に掛け直すシーンがあった。笑い含みだったこともあり、案の定「必要以上に魚を傷つけるのはやめてほしい」というコメントが寄せられていた。僕も同意見だし、それ以上にこの程度の批判も予見できない甘さが「趣味の延長でやっている責任感のないメーカー」であることを示しているようで残念だった。 ところで先の「傷つけないでほしい」コメントには、よくあることだが「そもそも釣りは魚を傷つける趣味。そんな偽善を振りかざすなら釣り自体

        • 文化の普遍でなさ

          映画でも小説でも、物語において「対話を拒む」「武力に頼る」のはたいてい間違った道として描かれるのに、世の中には対話を打ち切り武力に頼ろうとする人がいるのはどうしてなのだろう。 映画や小説といった「文化」は人類普遍のものだといつの間にか思い込んでいたけれど、それらは結局のところリベラルな知識人の持ち物に過ぎないのか。 どこに他者を理解する道筋があるのだろう。それを標榜するリベラル知識人がそれをなし得ていない現実に、道は他にあるように思えてならない。

        ハライチ岩井さんのナタデココと、僕の漢字練習帳

          「見ないより見た方がマシ」の欺瞞

          二人の旅行者がバスに乗ってスラムを通り過ぎる。あまりの貧困ぶりやすがりつく物乞いに、一人は「見たくない」と窓のカーテンを閉める。するともう一人が「私たちにこの状況を変えることはできなくとも、見ることはできる」と言って再びカーテンを開ける。 「無知は罪である」あるいは「問題から目を逸らすな」というようなことを意図した小咄だけれど、これに類する物言いを見るたびに要注意だと身構える。というのも、これは「何もしないよりは見た方がマシ」→「見るだけでもえらい」という形に容易に曲解され

          「見ないより見た方がマシ」の欺瞞

          SNS時代の既製品思想

          思想が世の中を少しずつでも前進させることにとても重要な動力源であるということは心から信じている。しかしその一方で思想とは、それをもってすれば簡単に世の中を「理解し、切る」快感を味わうことができるものでもある。そしてそのとても出来のよい既製品が、例えばtwitterのような場所に無料でゴロゴロ転がっている。 その既製品をいくつか見比べて、著名人の「いいね」がついているものを信頼し、手に取って使ってみる。その振る舞いの商品経済との相似はただの笑い話に過ぎないとして、しかしその既

          SNS時代の既製品思想

          闇、身体性を伴う不安

          身体性を伴う不安に身を委ねてみることが、ある類の感覚を鋭敏にし、自身に対する満足度を一時的に向上させる。そのことはもう随分前から自分自身について済んでいる理解だったのだけれど、忙しくなるにつれ「結果のわかっていることを安定的に再現する」生き方になり、その対極にある「身体性を伴う不安」に触れずにいた。 昨日、流星群を見る努力をしてみようと家の外に出た。街灯のない方へ二十メートルほど歩いただけで、もう足下はおろか目の前すべてが灰っぽい闇に完全に閉ざされて何も見えない。電灯潜りに

          闇、身体性を伴う不安

          手にした瞬間から思い込みを生み始める

          高校生の頃から「善い人間」であるためにこれを持てば大丈夫、という「基本思想」を求めていたけれど、ある時期からそんなものはなく、常に手にしたものを疑い続けることでしか「善」には辿り着けないと思うようになった。つまり「根拠のない思い込み」を持たないこと。三途の河畔に石を積んだと思えば蹴り崩される、そのプロセスを自ら延々続けることでしか「善」には辿り着けないと。 レイシズムやミソジニーは「根拠のない思い込み」の塊だが、難しいのはそれに対抗する思想もまた、手にした瞬間から自分の中に

          手にした瞬間から思い込みを生み始める

          批判的精神の発露は必ずしも批判的でなくてよい

          先人の撒いた種による思想的果実を、より多くの人に広める存在は必要だ。それは重々承知していながら、twitterでその錦旗の下「遅れている人間」「啓蒙されていない人間」をダシに自らの「思想」を嬉々として吹聴するのを見るたびここには関わりたくないなと思う。 「より多くの人に広める存在」は、大学卒業時に服飾の道に進んだ時に自らも志したところではあるし、世の中に必要なことも知っている。なのになぜtwitterでそういう人を見るたびに嫌気がさすのか、自分はどう振る舞うべきなのかと悩ん

          批判的精神の発露は必ずしも批判的でなくてよい

          「路傍の果実を手に世の中を斬る」

          何を学びたいという目的もないまま京大に入った1年生の秋、アメリカ同時多発テロがあった。これをきっかけに学内には世界を読み解く思想的議論が渦巻き、それに浮かされるまま現代思想を専攻した。 明確な答えに最短で辿り着くことを是とする受験勉強とはまったく異質な、答えを求める果てしない道のりそのものに真理があるような「大学らしい」学びにすぐに夢中になった。そしてその道のりの傍に実る果実、つまりは今現在それがもっとも正しいとされる結論を摘み歩き、それをもって「世の中を斬る」快感に酔い痴

          「路傍の果実を手に世の中を斬る」

          思想はファッション

          思想は一つのファッションだ。 いまリベラルで知的な雰囲気を醸したければ正解は「ジェンダーと多様性」。たくさんのいいねにきらびやかに飾られたツイートが「これをRTするだけであなたもリベラル」と蠱惑的に流れてくるし、信頼のおける人物のタイムラインを見に行けば「模範解答一覧」が手に入る。 それもいいと思う。かく言う僕だってファッション思想に身を固めている。けれど自分の纏っているものが上着に過ぎないことは理解しておくべきだ。ある一つの思想を本当に理解したければ、過去に数え切れず繰り

          思想はファッション

          真理は揺れ動く中にしか存在しない

          何かの答えは大抵の場合、常に揺れ動く中にしかない。左右どちらかに振り切ったところに分かりやすい正解があればどれだけ安心できるだろう。もしそこに真理に彩られた教義を見出すことができれば、あとは何を考えることも、何を悩む必要もなくそれに従って自己を律してさえいればいい。 けれども現実はそうして楽することを許してはくれない。今日の正解にも、数年後、数ヶ月後、ひょっとすると数日後には綻びや疑いが生じる。仕方なく真理を求めてそこを離れ、じきに正解らしき地点に辿り着く。その繰り返しだ。

          真理は揺れ動く中にしか存在しない

          見返し復讐譚の意地悪い快楽

          どこでどう植え付けられるのか、人は復讐譚が好きだ。胸がすくのだろう。すべては等価交換、人生はどこかで平等に±0である、そうあるべきだ、そうあってほしいという願望や思い込みの表れかもしれない。 ある程度成功した作家が「昔は馬鹿にされたけど」とか「絶対成功しないって言われたけど」と言いたくなる気持ちはわかる。それが努力の原動力として機能するケースもあると知っている。けれどもあまり格好のつくものではなく、公言するようなことでもないと思っている。少なくとも僕は「見返してやろう」とい

          見返し復讐譚の意地悪い快楽

          誰しも等しく背後に死を負う

          死に明示的に直面したからと言ってその人の言葉に特別な意味が生じるわけではない。誰しも等しく背後に死が、ひょっとするとその人よりも遥かに近い距離で控えているという事実を、結局のところ他人事だと侮っているからそんな勘違いをする。 幡野広志さんのことは今回の炎上騒ぎの遥か以前からずっと苦手で、SNS上で彼の名前も言葉も欠片も目に入らないよう気をつけていた。 ありがたがる方も勘違いしているが、幡野さんの方もまた、彼をありがたがる人は「彼の言葉」にではなく「死の不可知から目を背けてい

          誰しも等しく背後に死を負う

          嘘つきは絵がうまい

          絵を描くことはすなわち写真で言う深度合成と同じく、いかに写実的な絵でも必ず部分部分を合成して現実の目には一度に見えない全体像を作っている。 だから「よく観察して描け」は正しいが、いかに部分が精確に描けていても全体像の合成で「嘘をつく」のが下手な人は…つまり真摯に観察はするが全体像をひょいと作る要領の良さを持っていない人は…どこかパースがおかしかったりデッサンの狂った絵になってしまう。

          嘘つきは絵がうまい

          自然物の美の本質について(メモ)

          自然物の美の本質について、4年ほど前に「意図のなさ」にあるという点に辿り着いて自分の中ではひと段落迎えていた。もちろんこれがゴールであると考えたことはなく、ただ「今は」という注釈付きの踊り場だった。 「意図のなさ」に気がついたきっかけは猛烈に繁茂し絡み合う石垣島の植物たちだった。植物は「今ある樹形」を目指して枝葉を伸ばしてきたのではなく、ただ常に「いま、この瞬間」という+0の時間的広がりの中での選択を繰り返してきた結果としてそうある。この「+0の時間での選択」には意図が存在

          自然物の美の本質について(メモ)