0-100に身を置きたい弱さ

ある釣具メーカーの動画で、釣り上げた魚の口から針が外れたのを撮影用に掛け直すシーンがあった。笑い含みだったこともあり、案の定「必要以上に魚を傷つけるのはやめてほしい」というコメントが寄せられていた。僕も同意見だし、それ以上にこの程度の批判も予見できない甘さが「趣味の延長でやっている責任感のないメーカー」であることを示しているようで残念だった。

ところで先の「傷つけないでほしい」コメントには、よくあることだが「そもそも釣りは魚を傷つける趣味。そんな偽善を振りかざすなら釣り自体やめるべき」という返信が付いていた。
愚にもつかない意見で相手にする必要もないが、こういう考えの持ち主は相当メンタルが弱いのだろうといつも思う。つまり「釣りは魚を傷つける」「生き物を傷つけたくない」の2つの間で自分の行動を絶えず問い、それを引き受けるだけの強さがないのだ。
人の行動は常に複数の異なる価値の間を揺れ動き、自らの選択が正しかったのかを問われている。「傷つけるのが嫌ならやめろ、やるなら何も気にせず傷つけろ」という0-100に身を委ねれば、揺れ動く不安もそれを引き受ける重さもない。

好きな人を誘うメールをした後、返信を待つのが怖くて通知を切ったりオフラインにする人がいる。正直なところ僕自身も思い当たる。これも同じで、「誘ったけど返信はまだ」という宙ぶらりんに耐えられない。返信が来るという100でなければ、一時的に返信の可能性を断って0にしてしまいたい。

昨年、コロナ禍の広まりの中「マスクしないで電車に乗る動画」がよく上がっていたけど、これもメンタルの弱さが痛々しかった。「コロナに罹るかもしれない中、マスクで少しでも危険性を減じる」という宙ぶらりんに要は耐えられない人たちだ。マスクなしで電車に乗り、「ほら大丈夫じゃん」と言えば100に身を置ける。彼らは不安の中で罹患しない努力を続けるぐらいならいっそ「罹るならもう罹ってしまいたい」という0を望んでいるようにすら見えた。

振り切ったひとつの価値に身を委ね、自らの判断をすべて任せればどれだけ楽だろう。でも生きるということは常に複数の間で揺れ動き、自らの判断を問い、後悔も含めてそれを引き受け続けることでしかない。