「見ないより見た方がマシ」の欺瞞

二人の旅行者がバスに乗ってスラムを通り過ぎる。あまりの貧困ぶりやすがりつく物乞いに、一人は「見たくない」と窓のカーテンを閉める。するともう一人が「私たちにこの状況を変えることはできなくとも、見ることはできる」と言って再びカーテンを開ける。

「無知は罪である」あるいは「問題から目を逸らすな」というようなことを意図した小咄だけれど、これに類する物言いを見るたびに要注意だと身構える。というのも、これは「何もしないよりは見た方がマシ」→「見るだけでもえらい」という形に容易に曲解され、以降それについてより深く考えたり学んだりしないことへの隠れ蓑に利用されるからだ。

元のエピソードはそんな意図さらさらないはずだけれど、「見ないより見た方がマシ」と果たして言えるのか。芸人が得意顔で世の中を説明する「動画大学」の危うさを指摘されるたび、支持者は「間違ってる部分もあるかもしれないけど、興味を持たせてくれるだけ学校の授業よりいい」などと反論する。目の前が真っ暗になる。あの「動画大学」に疑いをさしはまず学びを得たと感じる人のどれだけが、その後より深く考え続けるのか。人の基本的な向学心に付け込み、手軽に「学んだ」という満足感を与えるだけの商売としか思えない。

この状況をバスの話に還流させてみれば、カーテンを開けて「見る」ことを選んだ人が、「この問題から目を逸らさない自分」に満足して旅を終えたとしても不思議に思わない。またカーテンを閉めた人が「なぜ自分はこの問題を直視できなかったのか」と旅を終えてなお考え続け、ここに立ち戻ってくるストーリーがあったとしても納得できる。

安直な例え話に真理を求めてはならない。学びとは常に自身を疑い満足せずに検証し続けることでしかない。