倒れ、お粥から固形食、そして復活(仮)
地下鉄の揺れを心地いいと感じられるのは、きっと座れているからであり、揺れがさほど大きくないからだ。
何事も加減が大切であり、何も揺らぎがまったくない状態でいたいと思ってはいない。それはそれで、ただの「無」に近いものだから。機械的には生きられるけれど、生きたいとは思えない。ただ、波形が緩やかであってほしいと思う。
急転直下したメンタルを引きずって、どうにかせねばと岩盤浴に駆け込んだ。5分うつ伏せ、10分仰向け、数分のクールダウン。効き目が異なるらしい多種多様な石の上に次々と寝転がり、ぼんやりと過ごした。
裸眼で視力が2.0近くあったこともあるわたしの視界は、今でもクリアだ。見上げる天井もしっかりはっきり見えるものだから、眼球を支える筋肉の力を抜き、わざと焦点をずらした。
ぼやけた視界は、思考回路もぼやけさせていく。下方にヒートアップしすぎた脳の働きを鈍らせて、わたしはそのまま目を閉じた。
理由がまったくないわけではないけれど、多くの場合において、調子の悪さに直接的な原因はない。揺らぎに抗えず倒れこむときと、両足に力を入れて立っていられるときとの違いを、わたしは自分で説明できない。
それでも倒れ伏したくはなくて、何とか手を伸ばして吊革につかまっている。でも、たまにはその手を離して倒れ込んでしまった方が、いっそ楽なのかもしれない、なんてことも思う。
数日間noteから離れて、吐き出さずに取り込む時間を過ごしていた。岩盤浴で無に近い状態に身を置き、本を読み、雑誌を読み、漫画を読んでみる。はじめは活字がうまく頭に入らず、「これはダメだ」と写真を眺めていた。
書くことだけではなく、日々の生活においても、ここのところエネルギーを使うことばかりに終始していたのかもしれない。精神だって、餓死する前に栄養を摂取せねばならないのだ。当たり前なのだけれど。
そして、適度に食べものを取り続けていないと粥や流動食しか食べられなくなるように、取り込むことすらままならなくなるのだろう。そして、突然倒れてしまう。
結局、体内に新しい栄養素と酸素がきちんと入ったなと実感したのは、人との会話だった。見て、感じて、考えて、そしてそれを人と話すことで言語化する。もちろんひとりで行えるインプットも有効だし大切なのだけれど、プラスアルファ「誰かと話す」は、わたしにとって、とても大きな役目を果たしているものなのだろう。
帰りの車内で読む本は、行きよりも鮮明に入ってくるような気がした。揺れに抗わず身を任せる。書こう、と思った。
お読みいただきありがとうございます。サポートいただけました暁には、金銭に直結しない創作・書きたいことを書き続ける励みにさせていただきます。