いらないものは、差し出さない
夫婦だけではなく、人とのコミュニケーションは鏡だと思っている。
強い言葉には強い言葉が返ってくる可能性が上がるだろう。攻撃的な言動には、やっぱり攻撃的な言動が戻ってきやすい気がする。言われた方は反射的に自分を守ろうとするだろうから、当たり前ともいえることだ。
噛みつきやすい人には、噛みつく人が集まる。ポジティブな人の周りにポジティブな人が集まりやすいのと同じことだと思う。
だからこそ、誰かに何かを言うときは、同じトーンの言葉が自分に返ってきてもよいと思える言い方を選びたい。
もちろん、発する言葉には個性があるから、いくらこちらが丁寧に対応したところで、乱暴にされることはある。それはもう、仕方がない。違う星の住人だとくらいに思って、「合わないな」と思うならそっと距離を置くしかないだろう。
だけど、自分は攻撃されたくないのに、自分は相手に乱暴な対応をしているのだとしたら、それは身から出た錆ではないのかな。
自ら傷つける態度を散々取っておいて、いざ傷つけられたら「ひどい!」とわあわあ騒ぐのは、いかがなものだろうと思う。
批判云々についてもそうだ。わたし自身、批判について否定的ではない。「それは批判ではなくない?」という言葉を批判だとしている場合は、「うーん?」とモヤモヤするけれど、基本的に批判は受け手にとって意義があるものだろうと思う。
ただ、批判への耐性の度合いは、やっぱり人それぞれだ。批判ひとつでペシャンコになってしまう人だっている。それはそれで、批判対象の物事が仕事ではないのなら自由だ。
とはいえ、自分は批判されたくないのにも関わらず、誰かを批判するのはよしとするのは、やっぱりこれもいかがなものかと思う。なんというか、勝手だなあというか。
もちろんその人の自由だ。けれど、さんざん誰かを批判していたくせに、自分を批判した相手を否定したり悪者扱いしたりするのは、わたしは「ちょっとなあ」と思わざるを得ない。
議論をしたい人もいれば、したくない人もいる。批判を受け止められる人もいれば、批判はいらないという人もいる。それぞれの良し悪しは置いておいて、どちらかにならなければならないことはない。個性のひとつであり、自由だ。
ただ、自分がされたら嫌なことは、誰かにやらないようにしたいし、しようよ、と思う。
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