楽にならざりじっと手を見る【子育て編】
喉元を通り過ぎたからではなく、わたしは赤子時代の方が子育てストレスを感じていなかった。
たまたま我が子が比較的楽なタイプだったのかもしれないけれど、とはいえ「楽だった」わけではない。それなりにしんどかったし、寝不足だったし、体重が減りすぎて心配されたりもしていた。
ではなぜ育児ストレスにそれほど悩まされていなかったのかというと、自分のペースで物事を進められないことを受け入れられていたからなのだと思う。
乳幼児を育てている人はわかるだろうけれど、出産後、親の生活は一変する。赤子の寝起きに振り回され、オムツに振り回され、母親は乳の張り具合にも振り回される。わたしは完全母乳だったからミルクの人のことはわからないのだけれど、母乳の分泌が落ち着くまではみんな張りにある程度悩まされるのでは?と思っている。
座ってごはんをゆっくり食べられる時間なんてなかなかないし、お風呂もリラックスできる時間ではなく、人間としての尊厳を守るためのものだった--シャンプーが3日に1回になったこともあるけれど。トイレすら猛ダッシュ。わたしは息子を抱っこ紐で抱えたまま用を足せるようになった。
それでも、わたしは息子たちが成長した今の方が、よほど育児ストレスに喘いでいる。
乳児時代は、「赤ちゃんだもの、しょうがない」と思えていたのが大きかったのだろう。「そういうものだ」と思えれば、案外ストレスはたまらない。ストレスフリーとまではいかないけれど、「赤ちゃんだもんなあ」という思いが余裕を与えてくれていたのだと思う。
赤子は幼児になり、「人間」になる。いや、はじめから人間だったのだけれど、より一層人間らしくなる。いろいろわかるようになり、やりとりの大変さが、どんどん対人間ならではのものになっていく。
時折、「え、大人やん…」と思わされる発言なんかも飛び出すようになる。意思疎通ができるようになるから、こちらのいうことはすべて伝わっているだろうと思うようになる。
それでも、彼ら彼女らは、生まれてから一桁年数しか生きていないのだ。理性は発展途上だし、甘えたい気持ちだって大きい。やりとりは時にちぐはぐだ。偉そうに物申したかと思うと、べたべたに甘えてきたりもする。「約束したよね…?」と脱力することは本当に本当に多い。
「伝わってるよね?」
「理解できてるでしょ?」
「何度も約束したじゃん…」
この手の思いが、わたしのストレスを増大させる。子どもは親がコントロールできる存在ではないし、コントロールするべきではないとも思っているのだけれど、だからといって野放しにしていいわけではない。手綱を握って何とか過ごす日々は、思っているよりも体力と精神力を削るものなのだ。
わたしは生きていくうえで必要な協調性は持ち合わせているけれど、ひとりの時間がないとダメなタイプだ。自分でコントロールできない環境に身を置き続けたときのストレスは大きい。
赤子時代は、「予測不可能」で「コントロール不可能」な赤子込みで自分の生活を考えられていた。しかし、徐々に母と子が分離していくなかで、母ではない「わたし」の割合が大きくなったのだろう。それなのに、子どもはまだまだ子どもだから、離れたと思ったら「構ってよ」とくっつく。その変動に振り回され、自分のペースがかき乱されることに、わたしはストレスを感じているのだと思う。
言葉でやりとりができるのは、相互理解をするうえで便利だ。けれども、言葉でやりとりができるゆえに「わかってくれたはずではなかったの?」という独りよがりな感情が芽生えるのかもしれない。
甘えからか、子どもたちはわたしの注意や叱責を右から左に受け流す。「言っていることをわかっているくせに」という苛立ちと、「わたし」の領域にドカドカ踏み入れられて乱暴に扱われることへのもやもやが、わたしを追い詰めるのだろう。
母である「わたし」のときには、それほどストレスを感じない。精神的につらさを感じるのは、ただの「わたし」として過ごしているときに強制的に母スイッチを入れられる瞬間であるように思う。
「子どもなんだから仕方がないよね」と赤子時代のようにすとんと受け入れるには、まだまだわたしの精神は未熟だということだ。かき乱されて、イライラして、「勘弁して…」と嘆いて。それでも子どもはノンストップで成長していく。わたしも人として成長しなければなあ。
コントロールできない状態で、いかに自分を保ち健やかに生きていくのか。子育ては、そんな修行でもあるように思う。
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