見出し画像

だいじょうぶ、私たちがいるんだから

早朝から近所のお風呂屋さんで朝風呂とサウナを満喫し、そのまま近所のファミレスへ。たびたびお世話になっているそのファミレスには、同じようにたびたびやってくるお客さんがいる。そうした人をいちいち覚えているわけではないけれど、今日いた老夫婦は、ご夫婦だということとゆっくりゆっくり歩く足取りから、「あ、何度かおふたりで来ているのを見たことがあるな」と気付けた。

これまではふたりで来てはふたりで帰っていっていたように思う。けれども、今日は途中から別のご夫婦がやってきて合流した。近くの席だったこともあり、会話がちょこちょこ耳に入ってくる。どうやら、妻が入院だか何だかで家を離れることになり、家に残す夫が心配で、別のご夫婦が相談に乗りに来たようだった。

「だいじょうぶだよ、今からそんなに案じない」
「だいじょうぶだよ、夫さんも一人前の大人なんだから」
「だいじょうぶだよ、何かあったら私たちがいるんだから」

何度も何度も、明るい声色の「だいじょうぶだよ」が聞こえる。聞き耳を立て続けているわけではないから話の流れはよくわからなかったけれど、繰り返される「だいじょうぶだよ」が耳に残った。隣で夫さんも穏やかな調子で「うんうん、だいじょうぶ、だいじょうぶ」と繰り返す。キビキビした妻とおっとりした夫なんだろうなあ、と感じる。

何度か見かけたことのあるご夫婦は、いつもあまりしゃべらない。ぼそぼそと少し言葉を交わし、モーニングを食べてコーヒーを飲んで、そうしてゆっくりゆっくりと帰っていく。

「夫さんも一人前の大人なんだから」の意味するところはわからない。年齢的に年上(高齢)だから心配、なのか。高齢世代のご夫婦にありがちな「家のことは全部妻」夫婦だったから、「私が家にいられなくなっちゃって、この人どうするんだろう」なのか。ただ、どちらにせよ相談相手の妻さんが口にしていた「いい機会」だと外野のわたしも勝手に感じたし、何より夫婦ぐるみで親しくしているのだろうもう一方のご夫婦の存在に心強さを感じた。

例えば、衣食住をひとりでまかなうことはできるのだとして、だから「だいじょうぶ」とはならない。まあ、「ひとり全然苦じゃない。むしろ楽しい。ハッピー」という人もいるにはいると思うけれど(そしてわたしは割とその気があるけれど)、それでも突然朝から晩までずっとひとりで暮らし、仕事をしているわけではないから仕事相手と話すこともないとなると、やっぱりちょっと影響が出てくるんじゃないかと思う、精神的に。

誰かと話せるのって、だいじだ。だいじょうぶであるために、だいじだ。つい最近、雑談に救われたとnoteに書いたけれど、やっぱり会話はだいじだと思う。会話っていうか、コミュニケーションかな。LINEでも何でもいいから、適度に誰かと関わることで、ちゃんとここに立ち続けられるし、前に進めるのだとも思うのだ。

「だいじょうぶ、私たちがいるんだから」

そう言ってくれる友達がいることの、どれだけありがたいことか。背景も事情も何も知らない外野の人間だけれど、勝手にそんなことを思う。どうか、あのご夫婦がふたりとも「だいじょうぶ」であれますように。

わたしも誰かにとって、「だいじょうぶ」を渡せる人でありたいなあ。


お読みいただきありがとうございます。サポートいただけました暁には、金銭に直結しない創作・書きたいことを書き続ける励みにさせていただきます。