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“ブランディング”なんてかっこつけなくても、本当はきっともっとシンプル
ライターの仕事を始めてから、“ブランディング”という言葉がやけに身近なものになりました。
身近なのは、ただ“耳にする”ということだけ。わたし自身は、現状ブランディングらしきものを意識してツイートをしたりnoteを書いたりブログを書いたりしているわけではありません。
「ブランディングをしなきゃ」だとか、「強みを考えなきゃ」「見つけなきゃ」だとか、何度目にしただろう。そのたびに、「何もない」と思い悩んでいる言葉も、何度目にしたことだろう。
わたし自身も、ブランド化できるほどの何かを持っているとは思えなくて、だからこそ特に「しよう」と意識をしてこなかったのかもしれません。
そんな中、実家でピアノを弾いている最中に、「あ、これ、ある意味ブランディングだったんだな」という思いが唐突に浮かびました。
五歳からピアノ・エレクトーンを習ってきたわたしは、小中学校の同級生の間では「若菜ちゃん=ピアノ」と思われていたな、と。それは時に「ピアノ=わたし」でもありました。
合唱や合奏があれば、真っ先に伴奏者として名前が挙げられていました。授業前の音楽室で「弾いて」とせがまれて遊んでいることも多かった。
わたしは特にひけらかすことも意識することもなく、自然に伴奏者を担っていたし、リクエストに応えて弾いていました。
また、その当時のわたしは本が好きで、自由帳に絵を描いたりお話を書いたりすることも好きな子どもでした。
恥ずかしいと思うこともなく、ただただ好きなことを好きな気持ちのまま、友達の目のある休み時間にもやり続けていました。
そこには、「下手だから」「人に見せられるものじゃないから」という迷いはなかった。ただ、「やれるよ」「好きだよ」という行動と発言だけがありました。
“ピアノが弾ける子”、“本が好きな子”、“絵やお話を描くのが好きな子”。
今でも小中学校時代の友達の中のわたしのイメージは、どうやら当時と変わっていないようです。
これは、“卯岡若菜はこういう子”というブランディングに近かったのではないかな。
これは何もわたしだけではありません。子どもの頃って、“この子ってこういう子”という印象がある子が多かったように思います。
その印象の多くが、成長に従っていつしか薄れていってしまうだけで。
子どもの頃の“こういう子”の“こういう”は、大人のそれよりも荒削りだった。才能なんて突出したものではなくても、“こんな子”と個性にしてもらえた。特別秀でていなくても、“得意”、“好き”で良かったのだと思う。
でも、成長していく中で、“個性”ではなく“才能”がフォーカスされるようになっていってしまう。
その中で、「自分の中にあるものは才能ではない」と思ってしまった人の中から、持っていたはずの“こういう子”が抜け落ちていく。そうして、「何もない」と思ってしまうようになるのではないかな。
そして“ブランディング”とは、その“こういう子”を取り戻すことなのではないかな。
決して“才能”を見つけなきゃいけないわけではなくて。“この人ってこういう人だよ”と、たとえば他己紹介してもらったときに言ってもらえるようなもの。
それは、光り輝く強烈な個性であらねばならないわけではない。
だって、個性はもともとその人固有のものだから。
さて、わたしは今いる周りの人からは「どういう人だよ」と言ってもらえる人間なのかな?
そして、今のわたしにとって、恥や評価を恐れず「好き」「やれる」と言えることは何だろう。(創作・人やモノコトの物語に触れること、などなど……)
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