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趣味とお金

「やってみたいな」と思いながら、そのまま一歩を踏み出すことなく封印してしまった思いがある。

やってみたい気持ちにブレーキをかけてしまった理由について、わたしはずっと「一歩を踏み出す勇気がなかったからだ」「所詮それくらいの思いに過ぎなかったんだ」と何となく思ってきた。

ただ、必ずしもそうではなかったらしい。

ブレーキをかけた理由の多くは、シンプルに「お金」だった。やらずに済ませてきてしまったあれこれを思い返してみると、どれもこれも始めるにあたりお金が必要なことばかりだったのだ。

お金が必要、といっても、何も何十万、何百万単位でお金がいるものばかりではない。数万円、中には数千円あれば始められるものもあった。それなのに、「お金がかかる」ただ一点で、わたしはとたんに気持ちにブレーキをかけてしまう。

一方で、お金に糸目を付けない、とまではいかないにしろ、出費に対するハードルが低い趣味もある。映画館での映画鑑賞や、本や漫画など書籍代なんかがそうだ。要するに、自分が受け取るもの、インプットする趣味に対して、わたしの出費ハードルは低いらしい。


「お金のかからない趣味でいいね」と言われたことがある。書くことに対してだ。確かに、書くこと自体にお金はかからない。鉛筆やシャープペン1本、それにノートやルーズリーフさえあれば良くて、両方合わせても500円で収まる出費で済んだ。

今はスマートフォンやパソコンで書いているけれど、これらの機器は書くために買わなければならなかったわけではなく、他のさまざまな用途に必要だったから買っただけで、だからやっぱり「わざわざお金を出して」という意識を抱いたことはない。(何なら今は仕事道具でもあるわけだし)

ちなみに、はじめて自分のサイトを作ったときも、ソフトを使わずタグを手打ちして作った。初期費用は0円だ。結果的にその知識が仕事で役立つときがくるだなんて思ってもみなかった頃の話である。まあ、その話は今はおいておく。


始めるにあたり一定のお金が必要な趣味事に対し、なぜこんなにも心理的ハードルを感じるようになってしまったんだろう。自分でも、よくわかっていない。

ひとつ思うのは、お金を出させてやらせてもらったものの、結局続けられなかった子ども時代のあれこれだ。やると言ったのにやらなくなってしまったことに対し、親はわたしをそのたび叱った。まあ、そりゃそうだろうよとも思うのだけれど、わたしのなかには「わざわざ始めて飽きちゃったら、お金を無駄にしてしまう」意識が育まれたようにも思う。

あと、「続けられなかった自分=駄目人間」の烙印を押される感覚。あれもこれも続けられなかった自分は飽きっぽくて駄目なやつだ、と思っている自分がいる。何となく上っ面部分だけはある程度器用になぞれても、そこ止まりばかり。追及型の人には叶わない、そんな意識もずっとある。そして、その上っ面部分で終わるようなもののためにお金を出すことに、強い抵抗感がある。無駄遣いだと感じてしまい、罪悪感を覚えてしまう。


大人になった今、同じ無駄金になるとしても、痛手を負うのは親ではなくてわたし自身の財布だ。それなのに、どうしても「えいやっ」と財布を開けない自分がいる。「お小遣いの無駄遣いはダメ」と言われて育ち、その言葉通り堅実に貯金ができる大人になったけれど、その反面「続けられるかどうか、ハマるかどうかわからないけど、やってみたい」ことにお金を出すことが、どこかで無駄遣いとイコールしてしまう。

たとえ「やっぱ、やーめた」となったとしても、それは無駄遣いではないのだと思う自分もいる。というか、頭ではそう思っている。「やってみない」より「やってみた」方が、ずっとずっといい。それなのに、根深いところで「どうせ続けられないんだから無駄遣いだよ」と囁く自分が消えないのだ。

インプット型の趣味だけではなく、アウトプット型の趣味にも、もう少し気持ちよくお金を出せるようになりたい。「やってみたかったな」をこれ以上増やし続けるのは、もったいないことだと思うから。

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