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対等に付き合えなくなる人

今でこそ落ち着いたのだろうとは思うけれど、父は地雷原のような人だった。

今思い返してみても、躾として納得のいくところだけではない、「え?」というタイミングで暴発し、怒鳴られることが多々あった。暴力こそほとんどなかったけれど、いきなり飛んでくる怒鳴り声が怖くてたまらなかった。

だからかどうかはわからないけれど、わたしは男性の荒っぽい声が極度に苦手だ。それがたとえ笑い声であったとしても、聴こえた瞬間は体が凍る。


わたし自身も情緒が揺らぎがちだから、今では少し父の気持ちもわかってしまう。いろいろなことが重なったとき、本来はそこまで怒らなくてもいいようなことで、子どもに怒りすぎてしまうことがあるからだ。

大人げないなぁ、と思う。なんとか、もう少し理性の手綱を握ってコントロールせねば、と。


一方で、もともとのわたしは怒りを露わにすることが苦手だ。口達者で、言おうと思えば暴言を放てるだろうし、「ああ言えばこう言う」を繰り出せるだろうと思っているからこそ、言わないように意識をしている。むしろ、一度緩めたら、一気に噴出する危険性があると考えている。元来、気性が激しい方なのだ。

素直だからって、怒りをそのままストレートにばらまくのは、子どもじみているなと思う。

父の暴発性が苦手だ。わたしは情緒不安定な人自体には特に嫌悪感も苦手感もすぐには抱かないのだけれど、暴発性という不安定さを抱えている人は、どうしても苦手だ。

本人には何か理由があるのかもしれないけれど、客観的に見て、「ここぞ」だと誰も思わないようなところで爆発する人には、どこか恐怖心を覚える。

「ああ、こういう人なんだ」と思うと、顔色をうかがって発言をしてしまうようになりがちだ。地雷を踏むのが怖いから。そうして、当たり障りのない本音だけが残る。わざわざ嘘はつかないけれど、「ここは言えない」という本音は、どんどんどんどんたまっていく。


父の暴発は、娘だけではなく妻にも起こることがあった。だから、わたしは時にそんな両親を見ていた。夫婦喧嘩はほとんど見たことがないけれど、夫婦喧嘩よりタチが悪いものを見ていたのではないかと思う。

母がどう思っていたのかはわからないけれど、父の暴発性はモラハラに近いものだ。そして、わたしや妹も日常的にモラハラに触れていたことになる。本音がわからなくなったこともあるし、自分と自分が乖離しているように感じることもあった。思いの丈を父にぶつけることは、やっぱりできない。


強い語調や暴言を吐かれると、脳みそが萎縮するらしい。そうして、判断能力が鈍っていくそうだ。

「ここぞ」というときにきちんと怒りを露わにできることは大切だ。怒られるべきことをしてしまったときは、怒られねばと思う。ただ、怒りの内容によっては、単にその人の未熟さをさらけ出すだけになるのではないかと思う。子どもに対するわたしが、子どもじみているのと同じように。

浮き沈みが激しい人の方が、地雷原のような人よりも、わたしにとっては付き合いやすい。沈んでいる人は、攻撃的なエネルギーを発さないから。恐怖を感じる相手とは、がんばっても対等な関係性が築けるとは思えないのだ。


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