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怠惰なわたしは、今日も全力で疾走する


 わたしは、もともと怠け者で、だらだらしていたくて、何なら一日中寝ていたいと思っているような人間だ。

 それなのに、実際のわたしといったらどうだろう。なぜだか年齢を重ねるごとに、どんどん忙しさを増しているような気がする。(「忙しい」という言葉を本当はあまり使いたくないのだけれど)「一日が三倍あればいいのに……睡眠時間は今のままで……」というのが、最近のわたしの心情だ。

 そのすべてが、何も「やらなくてはいけないもの」ではない。どちらかというと、「やりたいこと」が「やりたいこと」を呼ぶようにして大増殖してしまっていることが原因のように思えなくはない。常にエンジンがフル回転しているような状況なので、もちろん疲れることはある。なのに、なぜだか止まれない。

「何でだ……本当はだらだら怠けていたい人間のはずなのに……」

 そう思うときに、思い出す人がいる。



「ちゃうねん。俺、ほんまはめっちゃ面倒くさがりやし、何もしたくない人間やねんて」

 そう言っていたのは、高校時代の学年主任だ。バイタリティが溢れていて、声も大きければ個性も強烈な先生だった。(髪型も、ネクタイのデザインも)
 常にエネルギーが外に放出されているような雰囲気で、「先生、元気やな……」と当時10代のわたしは疲れた目で先生を見ていたこともある。


 そんな常に学校中を走り回っているような先生に、
「すごいな。めっちゃ元気ですよね、先生。よくもちますよね」
というようなことを直接話したことがある。50歳前後だった彼に「元気ですね」って言っている17歳もどうかと思うのだけれど、その当時のわたしは精神的にあまり元気ではなかったから、ということにしておきたい。

 日常のほとんどのことにモチベーションを見いだせず、ただただ思索にふけり、本を読み、マンガを読み、たまに友人と空騒ぎをし、小説を書いていた。小説を書くことは楽しかったけれど、自分自身の支えに近い部分もあって、生活全体を見つめたときに、わたしは決して「充実した生活」を送ってはいなかっただろうと思う。(もっと明るい青春時代を送ってみたかったと今でも思っている)

 そんな鬱陶しい17歳の問いかけに先生が答えたのが、

「ちゃうねん。俺、ほんまはめっちゃ面倒くさがりやし、何もしたくない人間やねんて」

だった。

 当時、わたしはこの意味がまったくわからなかった。そして信じられなかった。やらなければならないことが発生して、それをこなさなくてはならないことはわかる。しかし、先生は明らかに自分でやることを増やして(企画屋のような人だった)、それで余計に飛び回る羽目になっているように思えていたからだ。

「えー、じゃあ、なんで? 全然だらだらできてへんやん」

 そうさらに問いかけたわたしに、先生は

「なんでやろな。なんや知らんけど、年々忙しなるわ。全然だらだらできるときがないわなあ」

と苦笑いをしながら言った。

 ――いや、絶対先生、忙しいの好きやろ。

 そう心の中でつっこんだことを憶えている。



 さて、今のわたしはどうだろう。あんなに何もしたくなかったはずなのに、今のわたしの状況の中で、「何もしない」ということはほとんどない。
 それは別に、わたしがワーキングマザーだからというわけではない。同じワーキングマザーでも、「ぼけ~」っとする時間を得られている人はいるはずだろうと思うからだ。

 仕事をしながら、それでもやりたいことをやりたいと思い、時間を見つけては、こうしてnoteを書いてはアップをし、詩を書いてはTwitterにあげ、いつの間にか増殖したブログの更新をし、写真を撮ったり加工したりしては、Instagramにあげている。

 そうしているうちに、また新しい「これやりたい!」という気持ちが芽生える。そうしてガマンができないわたしは、結局そちらにも飛び込んでいってしまう。まるで脊髄反射で生きている生物のように。

 その中でも本を読みたいし、映画も観たい。じっくりものを考えることもライフワークのようなものなので、料理をしながらも頭の中はトリップ……ということもいつものことだ。

 そうすると、時間の流れが加速度的に速くなっていく。話す口調まで早口になる。(もともと早口なのだけれど)本当はまったり歩いていたいはずなのに、今のわたしの心を映像にすると、割と全力疾走に近い走り姿なのではないかなあ、と思う。……おかしいなあ。走ることはキライなはずなのに。



 もったいない、と思うことが増えた。
 時間は無情に過ぎていくのだ。やりたいことは、やりたいと思ったときに始めないと、もったいない。そう思うのだ。
 そして、「あ、これやってみたいかも!」というようなことを常日頃から考えていると、連鎖的に「あ、これも」「それも」というように、思考回路が「やりたいことを見つけるマインド」として進化を遂げるのかもしれない。
 その結果、「やりたいこと」が両手から溢れるほどになる。そうして、「だらだらしたい自分はどこへ……」ということになるんだろう。

 でも、貧乏性なわたしは、やっぱりもったいなくて止まれない。最近、ちょっと「生き急いでいるみたいだなあ」と感じることも正直あるのだけれど、いつかの未来にいるわたしが後悔しないように、自分になりにがむしゃらに生きていきたい、と思う。それは、「今」を大切に生きていることにも繋がるのではないかと思っている。

 そうして、いつか来る最期のときに、「うわーーーー、疲れた! もう十分やりきりましたあっ!!」とグラウンドに倒れ伏すような自分であれたらいいと思う。
 初めてはじめから終わりまで走り抜けた小六のマラソン大会のときのように。(それまでは先生の見張りのないスポットで歩いていた運動嫌いのわたし)


 先生、お元気ですか。
 あのとき先生に心配されていた社交的なのに冷めていて鬱々していた女子高生は、たぶん端から見たらバイタリティのある大人になりましたよ。

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