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大樹にはなれないけれど

心のぐちゃぐちゃが体に及んで、倒れていた。子どもが持ち帰ってきた学校の便りも読めていない。何なら封書は封も開けられていない。

浮き沈みが激しい自分とは小学校高学年頃からの付き合いだから、ある意味で「慣れ」てはいる。それでも、つらいものはつらいし、避けられるものなら避けたい。慣れはただの「ああ、ヤバイな」という気づきにしかならなくて、避ける技術は一向に上がっていない気がする。

目覚めていると本当に余計なことしか考えやしないものだから、気絶していたくなる。昔はただひたすら眠れなかったのだけれど、このところ寝すぎてしまうのは、無意識下に逃げ込みたいからなのかもしれない。

「何かあったの?」
つらさを伝えることはあまりないのだけれど、もし伝えた場合、大概その理由なりきっかけなりを問われる。いっそのこと、「何か」があれば良かった。そう思う。

人間はどうしたって最後は孤独な生き物だ。だから、別に何もわたしがトクベツなわけではないことはわかっている。ただ、根本的なところでずーっと孤独さを感じ続けていることが、つらさの大元であるのだろうとも思っている。

誰かに埋めてもらおうとした。それはただの依存で、そのときのわたしはいいのだけれど、相手に迷惑だと思った。埋めてほしいなと感じる相手は男女どちらでも関係なく、わたしが好意を持つかどうかだけ。そう感じる相手のことを、もれなくわたしは「相当」好きだから、余計に身動きが取れなくなる。……好きな相手に嫌われたくない、疎ましがられるのが怖いという感情が、やけに大きいものでして。

だから、結局自分から心的な距離を離してしまう。これ以上好きにならないよう、寄りかかりたいと思ってしまわないよう、何重にもヴェールを羽織る。大急ぎで元いた場所に逃げ込む。そうして、そのことでまたひとり勝手に孤独になる。……クソ重いし、かなり面倒な人間だ。


彼氏ができれば、結婚すれば、子どもを産めば。抱え続けた穴が埋められるんじゃないかと思っていた。考えれば当たり前ではあるのだけれど、そんなことはなかった。

「母は強し」というけれど、何も母だから強くなれるわけではなくて、強さを気取らねばならないシーンが増えるだけだ。さすがのわたしでも、子どもたちの前では鬱々さは見せない。体力的なしんどさは伝えるし見せるけれども。

大樹のようにどっしりとは構えられないけれど、両足を突っ張って、吹き飛ばされないように堪えられてはいる、と思う。揺らぐ親に寄りかかれやしないことをわかっているから、何かあったときは寄りかかってもらえる親でいたい。大したことは何もできないけれど、心の避難所であれたらいいというのが、最低限の願いだ。それはきっと、子ども時代のわたしの欲求でもあった。


きっと、そのうちまた浮上できる。経験則でわかってはいるのだけれど、「そのとき」のつらさは本当にどうしようもなくて、いつかうっかり深みに落っこちてしまうのではないかと怯えている。そして、いっそのこと落っこちてしまえればいいのに、と思ってしまう自分もいる。

いつか自分が死ぬときのことを、ぼんやりと考える。最低だったけれどがんばったな、と思えればいい。


こんなことを思っていても、誰かに会えば笑えるし、ちゃんと楽しいと感じられる。だからまだ大丈夫だと思う自分と、ただ何かから逃げているだけではないのかと思う自分とがいる。そして、ごまかしごまかしであろうとも、やり過ごせるならばいいと思う自分もいる。

「誰か」がいてくれるから、孤独なのだろうな。誰もいなければ、きっと孤独ではなかっただろう。孤独だからつらいのか、つらいから孤独なのかすらよくわからないけれど、夏のような明るく強い日差しを別世界のもののように感じながら、わたしはぽちぽちとnoteを綴っている。


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