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その一線を越えるな。覆水は盆に返らない

胸が痛むニュースに触れて気分が悪くなり、数時間睡眠に逃げてしまった。

その人についてわたしは全然知らなかったし、彼女が出ていたテレビ番組も個人的に興味を抱いたことがなく、これまでに一度も見たことはない。それでも、そのニュースはわたしにダメージを与えるものだった。事実の正誤はわからないけれど、SNS上での誹謗中傷が元となって起きた出来事らしい。



機械ひとつを挟むだけで、一気に感情の歯止めが利かなくなる部分がある。そのことは、高校生の頃に嫌というほど知っていた。

ガラケーが普及して、同級生の誰もが持っていて、学校での「バイバイ」のあとにもメールでやり取りが簡単にできるようになっていたあの頃。クラスメイトが別のクラスメイトに、相手を傷つける言葉を投げかけたのだ。彼らの仲は決裂した。言った側は「感情が昂った結果、思わず文字にして送ってしまい」、言われた側は「言った側の想像以上に傷ついた」のだった。

当時、家庭の事情でガラケーを持っておらず、パソコンでメールをするしかなかったわたしは、その話を聴きながら「コミュニケーションが手軽になったがゆえに、機械の向こう側に相手がいることが頭の中から抜け落ちてしまうのかなあ」と思った。

その後、某大学のAO入試を受けた際に書いた小論文でも、わたしはこのときの出来事について触れている。



口達者な子どもだった。その反面、口が滑ることも多い子どもだった。

「言った言葉は、なかったことにはならない」、だから気を付けろと叱られたことが何度もある。「やってしまった」と苦い記憶として今に残っていることも、いくつもある。

覆水盆に返らず。失敗を重ねた結果、外に出す言葉に慎重になった。それはテキストでも同じことだ。目の前の相手に言えないことは、文字にもしない。指先が置かれている機械の向こう側にいるのは、機械ではなくて人なのだ。そのことを忘れてはならない。

情報を受け取って抱いた感情を、パッと脊髄反射で言葉にして、ネットの海に流してしまう。その言葉に含まれている暴力性なんか省みずに。また、あえて暴力性を含ませたままで。

これは陰湿ないじめと同じだ。打った文字を声に出して読んでみたらいい。何なら、その姿を録画してみたらいい。鏡で見てみたらいい。そんな自分で、あなたは平気でいられるのか。家族や友人や恋人、自分の好きな人たちに、今のその姿を見せられるのか。「YES」であるならば、わたしには理解ができないタイプなので何も言えずに離れるだけだけれど、「NO」であるならば「あなたのためにも気を付けたほうがいい」と言いたい。



わたしは、わたしのなかに残虐性があると知っている。何かあれば攻撃に転じたくなる自分が、今も変わらずいることを自覚している。特に、「正義っぽいもの」に関して、その自分が激しく反応することをわかっている。子どもの頃から正義感が強かった。それは今も、本質的には変わっていないのだ。本当に嫌で、目を背けたくて、否定したい自分なのだけれど、残念ながらそれが事実だ。

一方で、「正義でぶん殴ることでポジティブな結果は得られない」ことも知っている。正義だからといって何をしてもいいわけではないことを、成長するなかで学んできた。そもそも「正義」はある側面から見たときに存在しているものであり、あやふやなものだということも。

こちらに理があると思ったときほど、いくらでも残虐になれてしまう危険性がある。それでもまだ目の前に相手がいればコントロールしやすい。しかし、目の前にあるのが機械だけになると、途端にブレーキとアクセルを踏み間違えたかのように勢いづいてしまいやすくなる。

どのような理由があれ、感情の暴走を許してはいけないよ。鋭く尖らせた切っ先を、人に向けてはいけないよ。越えてはいけない一線があるのは、対面時もネット越しでも同じだ。向こう側にいるのは、サンドバックじゃなくて生身の人間なのだから。

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