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“want”は、決めつけの現実をかき分けた先に

さまざまなことが重なって、重なって、重なりつづけて、気づいたら心身が悲鳴をあげていた。そんな折、兼ねてより約束していた長野県根羽村へ行く日がやってきた。

東京から移住したご夫婦が運営している古民家・まつや邸で過ごす2泊。2度目の訪問の今回は、現地集合で同じ埼玉に住まうご夫婦と共に宿泊した。

いわゆるホテルや旅館での宿泊とは違い、まつや邸では村ぐらしの体験もできる。運営しているご夫婦と語り合うことも。もともと夫さんとお会いしたことがあった立場だからというのはあるのだろうけれど、友人の家に遊びに来たような感覚になれる場所だ。

今回は共に宿泊したご夫婦がいたこともあり、大人同士さまざまな話をした。

埼玉に戻ってきた今、生きたい生きかたを選んでいるように思えて、実は選びきれてはいないのかもしれないなあ、という思いがぽっかりと浮かんでいる。

「だって」とか「そうはいっても」とか「現実的に」とかそれらしいことを枕詞にしながら、何となく現状を正当化しているように思う。今すぐに変えなければならない緊急性や、何もかもを投げ出したいほどの不満があるわけではないからこその、ぼんやりした現状維持。それそれで悪いことだとは思わないけれど、わたしの本音はどこにあるのだろうなあ、とも思う。

変えることは、それなりに痛みを生じるものだ。わたしは変化に適応する力が秀でているタイプでもない。新学期前や新しくバイトを始めたときなんかは、いつでも胃がキリキリしていた。けれども、動きたい(かもしれない)のなら、思い切って動かなければ何も変わらないのだよなあ。

すべての懸念を置いておくとしたら、わたしが選ぶ選択肢は何なのだろう。わたしが理想とする生き方は、どのようなものなのだろう。自分のことなのに、案外自分ではわからないものだ。欲求は、簡単に義務に影響を受けてしまう。したいと思っているのか、しなければと思っているのか、混乱している可能性は割と高い。

何を選んで何を選ばないかは、その人の生き方そのものだ。真剣に考えた、何となく考えた、どちらにせよ。いつ何時も真剣に考えなければ、とは思わないけれど。

息が深く吸える生活を送りたいな、と思う。じゃあ、そのためにはどうしたらいいんだろう。

昨日よりちょっとマシな自分になるためには、何を考え、何を選んでいくのがよいのだろう。

簡単に答えは出ない。だけど大体答えが出るときは唐突で、勢いだ。ぼんやりとでも考えながら、ひとまず目の前のものに向き合うこと。そのうちに、いつか天啓のようにひらめいて、「こっちだ!」とジャンプする日がくるのかな。今のわたしが、これまでそうしてきた結果であるように。

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