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【小説】映写機の月

 カタカタカタと音を立てる映写機。暗闇のなか、背後から真正面を静かに照らすほの白い光は、まるで月の明かりのようだった。


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「月ってさ、あんなに大きくないよねえ、ってずっと思ってたんだよね」

 唐突に、本当に何の脈絡もなくさやかが言った。その言葉に関連があるとすれば、今が夜なことくらいだ。ただ、今夜は月が見えない。だからなのか、自転車を押しながら歩く駅からの道は、いつもより数段暗く思えた。あまりひとりで歩きたいとは思えない道だ。もう少し街灯を増やせばいいのに。

「何でまた、月」
「ああ、あれだよ、ほら」

 そう言ってさやかは左手をハンドルから離すと、薄い唇を左右にめいっぱい伸ばして、

「イー、ティー、おうちに帰りたい」

と言った。

「ああ、E.T.」
「そう、E.T.」

 さやかの思考回路がようやく見える。自転車に乗って月の目の前を飛ぶ、あの有名なシーンのことを言っていたのだ。

「子どもの頃さ、テレビで見て、ちょっと憧れだったんだよね。満月の前をすーっと自転車で飛ぶの」
「わからなくはないけど」

 けど、E.T.はちょっと不気味で、こんなのに遭遇したらどうしようって思ったんだけどな、ともごもごと続けると、さやかは

「ああ、あれだよね、かわいくないヨーダみたいな」

と言う。ヨーダもかわいくはないんだけど、決して。さやかの美的センスはよくわからない。

「確かに、あんなに大きな月って見たことないね」
「でしょ」

 さやかはそう言って、

「自転車が飛んでくれたらなあ、坂道押さずに済むのに」

とため息をついた。


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 カタカタ音を立てる映写機に覚えはない。映写室に入ったこともない。ないはずなのに、なぜかあのぼんやりとした白い光を見て、月みたいだと思った感覚だけが胸の奥に残っている。

 光と闇の境目が曖昧な、ほわりとした白い光。映画館のなかにいるのはわたしひとりだ。そして、椅子に腰かけるわたしは随分と幼い。実際にそんなシチュエーションを経験してはいないと思う。幼い日にひとりで映画館に行ったことなんてなかった。じゃあ脳裏に浮かぶこの映像は、何なんだろう。夢なのか、はたまた妄想の類なのか。

 臙脂色の椅子は程よい柔らかさで、わたしの身体をやさしく受け止める。背後から差す光が、ぶわっとスクリーンに広がった瞬間、わたしは吸い寄せられるようにしてあちら側の世界に飲み込まれる。月の明かりは、ここではないどこかへ連れて行ってくれる扉だった。


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 あんなに一緒に映画を観に行っていたのに、あるときを境にさやかと共に鑑賞しに行くことがなくなった。今では、いつでも好きなときにひとりで行く。さやかが今も映画館に足を運んでいるのかどうかはわからない。

 レイトショーの帰り、夜空には月が浮かんでいて、唇をイーッと横に引っ張ったさやかの顔が浮かんだ。ぽっかりと浮かんだ月はやっぱり全然大きくなくて、自転車に乗った少年の背景としては心許ないサイズだ。むしろ、昔よりもさらに小さくなった気がしなくもない。

 ああ、もしかして。車に乗り込んでフロントガラス越しに月を眺めながら、ふと思う。もしかすると、月を小さくしてしまったのは、わたしたちだったのかもしれない。

 カタカタカタ。音が聞こえた気がして、視線を左右に動かす。月明かりに照らされたわたしは、ハンドルを手にしたまま夜に迷う。エンジンもかけられぬまま、帰りたいと思える家を手に入れたさやかに思いを馳せる。おうちに帰りたい、と言うエイリアンについて話したあの日、「いいよねえ、帰りたいって思える場所があるのって」と言っていたさやかに、わたしは曖昧に頷くことしかできなかった。

 わたしは小さな映画館のシアターで、はじまらない物語を待っている。カタカタと音を立てる月の明かりは、わたしをどこへもつれていってはくれない。

【今回のお題】「月」「映画館」

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